ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




観音堂の長屋。台東区三ノ輪2-14。1989(平成1)年2月19日

前の通りは、昭和通りが大関横丁交差点までだとすると、日光街道(国道4号線)である。右にすぐ明治通りとの大関横丁交差点、左へ行くとすぐ荒川区に入り、常磐線のガードをくぐる。写真左の横丁の一方の角が下の写真の橋本歯科医院があり、この横丁を入ると左にすぐ有名な淨閑寺がある。
写真の銅板貼り三軒長屋は観音堂(神仏具)にしか看板はなく、他の二軒はしもた屋か、もしかしたら空き家かもしれない。観音堂はだいぶ傾いている。車両の通行で起こる振動が影響するのだろうか。『下町残照』(村岡秀男、朝日新聞社、1988年、1500円)の昭和56年撮影の写真を見ると、観音堂の左の店は帽子屋だったようだ。観音堂の右は三ノ輪洋裁学園。その右に少し引っ込んで建っているビルは「ヨシオカ漢方相談所」で、このビルは今も替わらない。
三軒長屋の裏に、かつてやはり銅板貼りの二軒長屋があり、その一軒は「三ノ輪せんべい」、もう一軒が「にんべんや履物店」で、写真家荒木経惟(のぶよし)の生家だった。『私説東京繁昌記』(小林信彦、写真=荒木経惟、中央公論社、昭和59年、1800円)には大きな下駄を看板にした「かつての荒木宅」と「現在の風景」の写真が並べられている。「現在の風景」では三ノ輪せんべいはなくなっていて、荒木宅は子供服の店になって残っている。現在はそれもなくなり駐車場になっている。


橋本歯科医院
三ノ輪2-15
2005(平成17)年7月31日

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栗原羅紗店。千代田区神田須田町1-11。1987(昭和62)12月31日

まつや(そば)の前を東に行った、横丁の角。錆びついた「栗原羅紗店」の看板が架かっているが、閉店してだいぶ経つようで建物も空き家のようだ。木造の看板建築だと思うが、横側も洋風のコンクリート造のように造られている。現在は隣の手塚株式会社の建物などと一緒に「スカイコートカンダ壱番館」という7階建マンションに替わった。
昭和30年頃の火保図では、手塚㈱は「手塚ラシャKK」。下左写真の「FUSO TEX」の看板の家は「扶桑商店」だが、火保図では「扶桑ラシャS(商店)」。
当ブログで写真の家並みを地図から書き写してみると、須田町=羅紗屋、というイメージがしだいにぼくの頭に定着してくる。以前は須田町といえば、交通博物館に見たこともない広瀬中佐銅像とか「乗りかえしげき須田町や」という「電車唱歌」が頭に浮かんだ。長女が生まれたとき、誰かが童謡のレコード全集を出産祝にくれたのだが、なかに電車唱歌などという古い歌が入っていた。子供のころに覚えたというわけではない。



左:栗原羅紗店。1983(昭和58)年8月。右:堀井質店。1987(昭和62)年9月13日

栗原羅紗店の横を入ると、あんこう鍋のいせ源の角に出る。その横丁に出世稲荷があり、その神社は今も変わらないようだ。いせ源の手前に堀井質店の看板建築があった。現在は手前の和風の家と共にいせ源別館のビルに替わっている。

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ぼたん。千代田区神田須田町1-15
1985(昭和60)年7月21日

鳥のすきやきで有名な「連雀町」の老舗。建物は1929(昭和4)年に建った木造3階建て入母屋造り。都選定歴史的建造物および千代田区景観まちづくり重要物件に指定されている。
以下、『出会いたい東京の名建築』(三舩泰道、新人物往来社、2007年)による。櫻井八四郎創という人が明治30年頃に創業した。八四郎はラシャ屋で釦(ボタン)を扱っていたために「ぼたん」を屋号とした。建物は関東大震災後、二代目謙吉が建て替えたもの。謙吉は建築に造詣が深く、耐震性を意識して鉄筋コンクリートの地下室を設け、厨房もRC造り。棟梁の林と二人で内部の造作にも工夫をこらした。外壁は当初は板張りだったが防火規制のためモルタル塗りにした(空襲の恐れが出てきた頃だろうか)。

下の写真はぼたんの入り口がある横丁を南のほうから撮影したもの。左側奥がぼたん。突き当りはやぶそばだと思う。右側は11番地になるが、今でもハトリと万平が、商売を続けている。11番地の撮影時の家並みは、手前から「藤岡、八羊(タイプ印刷/謄写印刷)、万平(とんかつ)、ふじ(コーヒー/和風スナック)、ベルス、住宅、㈱ハトリ(テーラー/ユニフォーム)、マンドリン」。


ぼたんの横丁。神田須田町1-11。1983(昭和60)年8月


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下久呉服店。千代田区神田須田町1-13。1987(昭和62)年12月31日

靖国通りから、かつての交通博物館のほうへ別れるところの角にあった店。現在はビルに替わった。「下久呉服店」をネット検索すると「神田下久」が出る。「登」のマークが同じなのでこの店だろう。竹むらの横を入ったところに移っていた。そこのHPによると、「明治4年の創業で、初代木村久作の出身地にちなんで下総屋としたが、いつのまにか下久と呼ばれるようになった」という。ということは「しもきゅう」と読むのだろうか? 
写真左端に「協和銀行」がある。「そういう銀行があったなあ」という感じだが、神田須田町スクエアビルで、現在は「りそな銀行」。このビルは当ブログの「鷹岡東京支店」の3枚目の写真に「協和銀行」の看板で写っている。協和銀行神田支店は元はスクエアビルの小川町側にあった。下久のすぐ向かいは西定商店(食料品)と第一洋服という店があった。 『東京DOWNTOWN STREET 1980’>千代田区神田須田町』に、その出桁造りの西定商店の1982年1月に撮影された写真が載っている。この写真の後ろの煙突は「富士の湯」。西定商店と第一洋服の間が少しあいているが、そこが銭湯への入り口だったらしい。ぼくは1983年8月にこの付近を歩いて写真を撮っているが、西定商店の写真はないから、その時点ではすでに建物はなくなっていたのかもしれない。



左:まつや。1987(昭和62)年2月1日
上:開進亭。1987(昭和62)年9月13日

まつやは有名な手打ちそばの老舗。ぼくはいまだに入ったことがないが、格別の理由があるわけではなく食事時にこの辺りにいなかっただけである。もりそばの一枚くらいならいつでも腹にはいるとは思うが。
『出会いたい東京の名建築』(三舩泰道、新人物往来社、2007年)によると、建物は1927(昭和2)年に二代目の福島米吉が建て直したもの。店が完成してすぐ、なぜか廃業することにした。当時、須田町で「いせ松」という酒屋を営んでいた小高政吉という人がそれを惜しんでまつやを引き継いだ。建物の外観はほぼ創建時のまま維持されている。二階の欄干は青銅で出来ていて(銅板を貼っていたのだろうか)、出入り口の欄間にはステンドグラスがあったそうだ。特徴的な両側の行燈は昭和35年頃につけたものという。

開進亭と五両はまつやから右へ数軒いった並びにあった。写真からは開進亭の商売が分からない。やはり建物全体を撮らないとだめである。洋食屋だろうか。建物は昭和30年代には中華の五十番だったものだと思う。ぼくがまだ中学生だった頃のことだと思うが、大崎さんに連れられて入ったことがある。なぜそんなことを憶えているのか不思議である。その大崎さんは今頃どこでどうしているのやら。

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山根工業所、山本歯科医院。千代田神田須田町1-3。1987(昭和62)年9月13日

靖国通りから斜めに(実際は靖国通りのほうが曲がっているからまっすぐ)交通博物館(今は大宮へ移転)のほうへ入る通り。靖国通りが開通する以前の電車通りである。古い木造3階建ての建物がモデストという会社のビルを挟んで建っている。ストリートビューでは間にあったビルは建て替わったが、古い2軒の建物は残っている。
山根工業所(現在は 山根設備工業所)はHMをもっているので、昭和21年8月の創立であること、平成10年2月に「合資会社山根水道衛生工業所」から「有限会社山根設備工業所」と組織変更したことが知れる。タイル張りの看板建築はわりと数が少ないように思う。現在は壁を改装して、すぐには昭和初期の建物とはみえなくなってしまった。
山本歯科医院は2005(平成17)年2月に国の登録有形文化財になり、外観はきれいに保たれているし医院も続いている。「 千代田区観光協会>観る>山本歯科医院」では「明治30年以前に須田町1-1のあたりに開業、1928(昭和3)年に建築」としている。『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007年)では「1929(昭和4)建築、明治期の開業、上げ下げ窓が特徴」という記述。
『出会いたい東京の名建築』(三舩泰道、新人物往来社、2007年)によると、「最初は靖国通りの反対側に開業、昭和2年に現在地に新築して引っ越した」となる。当書によると待合室と診療室は2階で、客は上という建築当時の考えからという。当時の診療所併用住宅の基本的なつくりかただったそうだ。診療室は天井が高く、外観からもそれが分かる。外壁は建設当時は洗い出し仕上げだったのを後に吹き付け材で覆った。平成18年に創建当時の仕上げにもどす工事をしている。オーナーの建物への愛着がうかがえる。

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武居三省堂。千代田神田須田町1-3。1987(昭和62)年2月1日

前の通りは靖国通りで、須田町交差点の付近。右へ行くと3軒先に鷹岡東京支店がある。建物は撮影時では左から、内藤商店、木下建設(旧森田ボタン店)、三省堂、ヨシムラ。かつては内藤商店とヨシムラは羅紗屋だったようだ。現在はヨシムラがそのままの状態で残り、旧森田ボタン店の建物が正面を改装したが残っている。
武居三省堂は 江戸東京たてもの園に移築されて展示されている。そのサイトによると、明治初期に創業した文具店で、建物は1927(昭和2)年の建築。タイル張りの壁に銅板の縁取りが入っている。壁面の文字や戸袋で和風の感じがする。移築した際に建築時の状態になるように手がはいったようで、二階上の「墨硯筆」が右から「筆墨硯文具算盤問屋」に、「三省堂」の文字も造り直されている。窓の手すりも鉄製のものに替えられている。


1985(昭和60)年7月7日

『看板建築』(藤森照信・増田彰久、三省堂、1988年、1500円)に店内の写真があり、その説明文に「入ると土間があり、その向うに畳敷きの上り框で、江戸以来の店の構え方を残している。紙の商いは和紙も洋紙も商品の扱いは同じなので、古い店の造りが残ったのだろう」としている。その写真に「山口半峯先生用筆墨/製造發賣所 三省堂 武居龍吉」の古い看板が棚に架かっている。どのくらい知られている人なのかは分からないが、山口半峯については『 荘内日報社>山口半峯』というサイトに略歴が載っている。
当書の外観の写真では窓の手すりはやはり木製だが、左写真のものとは異なる。

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