ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




守田宝丹本店。台東区上野2-12。1988(昭和63)頃

池之端仲町の老舗として有名な守田宝丹は1680(延宝8)年に、大坂の我孫子から江戸に出てきて仲町に店を開いたという。
『東京路上細見3』(酒井不二雄著、平凡社、1988年)によると「・・・ショーウィンドーに宝丹と立効丸が展示されている。/宝丹は、胃もたれ、吐きけなどに効く薬で、幕末に来日したオランダ医師A・F・ボードワンの調剤という。ボードワンといえば、上野公園の生みの親ともいうべく人だ。上野公園の中央広場、大噴水には、ボードワン博士像がある。立効丸は、たん・せきに効く薬である。」ということだ。
『東京文学地名辞典』(槌田満文編、東京堂出版、昭和53年)には独立した項目で載っている。「・・・文久2年(1862)にコレラが大流行した際、九代目守田治兵衛は、下痢・中毒などに効く売薬宝丹を売り出して好評を博した。宣伝にも新工夫をこらして販路を拡大したが、看板や広告の文字は「宝丹流」と呼ばれる独特の書風で知られた。・・・」とあり、明治22年にはすぐ近くの池之端七軒町に「元真宝丹」と「正真宝丹」を売り出した薬屋が2軒出現したというほどの人気だったという。さらに「・・・大正にはいると、錫製の容器から小さじで半練り煉瓦色の粉薬をすくい出す形式が時勢に合わなくなったせいか、仁丹などの新薬に押されていった。」とある。



左:1988(昭和63)頃。右:『帝都復興せり!』より

建物は、『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年)によると、「竣工=1928(昭和3)年、設計=鹿野昌夫」である。RC造のようだ。
『守田宝丹ビル「味な六軒」』は建て替わった現在のビル(1993年12月竣工)の施工会社のサイトだろうか。旧ビルの全体を写した写真が載っていて、「従来の店舗は、1928年に建設されたスクラッチタイル貼りの3階建で、インテリアには当時のアールデコ風の雰囲気が色濃く残されていた。特に店内、住居の各所に用いられているステンドグラスは、当時の技法を伝えるうえでも貴重なものである。」と解説されている。
上のステンドグラスの写真は外から見ることができたもので、なかなか面白いデザインだ。左に「MORITA」、中央に縦に「HOTAN」、右下に「PHARMACY」の文字を入れている。この文字は内側から見ると反転して読みにくくなるはずだ。本来、ステンドガラスは内側から透過光で見るのだが、このステンドグラスは外から見ることを主眼にした看板も兼ねたものかもしれない。アールデコ風の模様は、柱に貼られた石にも線彫りされている。
ぼくは建物全体を捉えた写真を撮っていなかった。『帝都復興せり!』を出したついでに写真もお借りすることにする。当書の現状の写真は著者自身が1985~87年に撮ったもので、ほとんどプロの写真家が撮ったようなすばらしい写真ばかりである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





堺屋酒店。台東区上野2-12。左:1984(昭和60)年10月27日、右:1987(昭和62)年頃

中央通りの上野広小路から昌平橋の通りへ抜ける商店街が「池之端仲町通り」(上野二丁目仲町通り)という商店街である。この仲町通りの北側が旧町名で「池之端仲町」である(昭和39年10月の変更)。仲町通りは昔からある本郷への往還で、明治期には「市内有数の繁華街」だったという。この通りの南に春日通りが開通したのは明治中期である。また仲町通りの北、不忍池に沿った不忍通りは関東大震災後の開通。
歴史のある商店街だから老舗も多い。『 台東区の明治・大正・昭和 池之端仲町』には「薬の守田宝丹、そばの蓮玉庵、総菜の酒悦、櫛の十三屋、うなぎの伊豆栄、帯紐の道明、上野の藪、袋物の越川、小間物の日野屋など」が挙げられている。『新撰東京名所図会』(明治41年、『東京文学地名辞典』から)には「錦袋円本舗の勧学屋大助、煙草の村田総本店、古書の琳琅閣、売薬の宝丹森田治兵衛、金属美術袋物の玉宝堂、組紐の道明新兵衛などのほか、不忍池に臨む北側には待合が多かった。」とある。最近の仲町通りはだいぶ様変わりしてきて、なにやら新宿歌舞伎町のようになってきた。

写真の堺屋酒店は仲町通りの中央の四つ角に、今も昔のままの建物で営業している貴重な存在である。昭和22年の空中写真を見ると旧池之端仲町の7割がたは空襲での焼失を免れたようにみえる。昭和40年頃だったら不忍通り側の日本家屋の料亭の建物も残っていたようだ。堺屋がいつごろからの店なのかは知らないが、関東大震災後にこの立派な建物を建てたのだから、老舗の酒屋である。
『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007年)には「建築年:1920代大正末期。シリンダー状に並ぶ窓が特徴」としている。3階建てであること、屋上に木をはやしていることから見て、RC造だと思う。壁をカーブさせて庇のように張り出させて、やはりカーブした出窓のような大きなガラス窓を横に2段に置いている。洋風のモダンなデザインなのだが、なんとなく和風にも見えるのは壁に置いた店名の書体のせいか、あるいは瓦のためだろうか。テラッコッタで縁取りされた丸窓には、どんなデザインの桟がはまっていていたのだろうか。カーブした2・3階の大きな窓は倉庫や住居のものではない。レストラン? ビリヤード場? あるいは普通に貸事務所か?
収蔵庫・壱號館>堺屋(2009.08.07)』には『建築世界』(vol.23)昭和4年6号の写真が紹介されていた。解説文は「名称:中村商店、設計施工:新井組、所在地:下谷区池之端」とあるそうだ。丸窓の桟の形が分かる。2階の四角い窓のものに順ずるデザインだった。今は自販機の陰になってよく分からないが、横長窓の下の1階には円柱が4本、桁を支えている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





上野パーク劇場、上野オークラ劇所。台東区上野2-14。1987(昭和62)年11月

オークラ劇場は2010年8月に、写真左の路地の向かいにあった上野スタームービー(旧・上野スター座)を建替えてそこへ移った。ピンク映画を上映していた映画館の多くは消滅したというのに、この映画館は立派に存続していた。応援してやりたいが、ぼくも歳だから見に行くことはないと思う。 『港町キネマ通り>上野オークラ劇場』によると、1952(昭和27)年に「上野東映」として開館した。建物もそのときに建ったのだろう。地下に「上野地下特選劇場」がある。こちらも同年に「地下ニュース劇場」として開館したそうだ。建物は今ならまだ存在しているらしい。
「上野パーク劇場」の沿革は不明だ。東宝系の洋画ロードショー劇場だったらしい。
写真左の路地を挟んだ並びには「上野日活館」の大きな建物があった。1971(昭和46)年5月に建物は売却されている。



上野スター座。台東区上野2-13。1984(昭和59)年10月

『ウィキペディア>上野スタームービー』によると、1952(昭和27)年に「上野スター座」として開館した。洋画ロードショー館だったが、1970年代後半にはピンク映画を上映するようになる。1976(昭和51)年には2階に「世界傑作劇場」と「日本名画座」を新設。1999(平成11)年にリニューアルして「上野スタームービー」と改名。そして2009(平成21年)3月で建替えのため休業した。建替わってみたら、そこに上野オークラ劇場が移ってきたというわけだ。

コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )







じゅらくビル。台東区上野4-10。1995(平成7)年頃

1986年の住宅地図には「上野京成ビル」となっているが、ネット上では「じゅらくビル」が多く使われているようなので、名称はそれに倣った。『日本近代建築総覧』では「上野京成ホテル聚楽、上野4-10-8、構造=RC8」の記載しかなく、未調査だったようだ。「じゅらく」とは食堂の名前だと思う。上の写真右手の2・3階の壁に付けられた4個の袖看板に1字づつ「じゅらく」の字が入り、その右に「3F和風お好み食堂」のネオンが置かれ、赤い日よけにも「Juraku」のマークが入っている。
廃景録 じゅらくビル』によると、京成電鉄が「上野公園駅本屋」(京成本社ビル)として1936(昭和11)年3月に完成したビル、ということだ。竣工時は5階建てだったのが、戦後増築して7階建てにした。「京成電鉄五十年史(1967)」からの引用文が興味深い。1969年の住宅地図には「京成電鉄ビル/京成聚楽/京成名店街」の記載だ。
都市徘徊blog じゅらくビル(2010.03.28)』によると、「上野京成ホテル」は1969~1977年の間だったという。
収蔵庫・壱號館京成電鉄ビル(2008.10.31)』によると、設計者は久野節である。ぼくは初めて聞く名前なので、ウィキペディアの解説を以下にまとめた。
久野節(くのみさお、1882(明治15)-1962(昭和37)年、大阪府出身)は、1907年東京帝大建築学科を卒業して千葉県技師に。1911年鉄道省技師に。1920年鉄道省の初代建築課長に。1927年鉄道省を退官、久野設計事務所を設立。主な作品は、佐倉高校記念館(1910年)、南海ビル(難破駅、高島屋百貨店、1930年)、東部ビル(浅草駅、松屋百貨店、1931年)など。



左:1986(昭和61)年7月、右:2001(平成13)年2月17日

中央通りがJR上野駅の前でカーブする角の、軍艦の船橋にたとえられる先端部が特徴的だ。後退した6階から上が戦後の増築とは知らなかった。それにしても手前にトラックが大きく写り込んでいる。撮影時に分りそうなものだが。
京成上野駅から地下道でじゅらくビルに出る出入り口はアメ横口という。ヨドバシカメラのビルに建て替わってからは、まだ利用したことがない。『 モダン建築逍遥 じゅらくビル』は、路上の明り取りのブロックガラスや地下道とそこへの階段などの写真があって、目の付け所がユニークだ。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )



   次ページ »