
上野パーク劇場、上野オークラ劇所。台東区上野2-14。1987(昭和62)年11月
オークラ劇場は2010年8月に、写真左の路地の向かいにあった上野スタームービー(旧・上野スター座)を建替えてそこへ移った。ピンク映画を上映していた映画館の多くは消滅したというのに、この映画館は立派に存続していた。応援してやりたいが、ぼくも歳だから見に行くことはないと思う。 『港町キネマ通り>上野オークラ劇場』によると、1952(昭和27)年に「上野東映」として開館した。建物もそのときに建ったのだろう。地下に「上野地下特選劇場」がある。こちらも同年に「地下ニュース劇場」として開館したそうだ。建物は今ならまだ存在しているらしい。
「上野パーク劇場」の沿革は不明だ。東宝系の洋画ロードショー劇場だったらしい。
写真左の路地を挟んだ並びには「上野日活館」の大きな建物があった。1971(昭和46)年5月に建物は売却されている。

上野スター座。台東区上野2-13。1984(昭和59)年10月
『ウィキペディア>上野スタームービー』によると、1952(昭和27)年に「上野スター座」として開館した。洋画ロードショー館だったが、1970年代後半にはピンク映画を上映するようになる。1976(昭和51)年には2階に「世界傑作劇場」と「日本名画座」を新設。1999(平成11)年にリニューアルして「上野スタームービー」と改名。そして2009(平成21年)3月で建替えのため休業した。建替わってみたら、そこに上野オークラ劇場が移ってきたというわけだ。
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上野東映とその左方の上野日活、上野東宝、その右方少し離れた上野東急と、当時の映画はずいぶん見ましたよ。
池之端に降りる都電線路際の上野スター座は早くにピンク系になった記憶があります。
不忍池の夏の納涼大会など母親が一緒の時はこの階段を降りず、伊豆栄前のトロリーバス乗り場から池之端に入りましたから。いつも仲間とは外貼りの写真を見ていたんですけどね。笑っちゃいます。
中学生になってこの並びの映画館でアイスクリームの売り子のバイトも。
「東京アイス」が稲荷町(現東上野)にあってそこから車で運びました。
車の乗る唯一のチャンスでもありました。
その専門のホールが上野日活並びにあって、当たりナンバーをハンドスピーカーで読み上げるんです。
ホールの中はアルコールの入ったおじさん達がいっぱいで、たばこの煙で霞んでました。
大音量で流れるだみ声が付近の主たる騒音だったことがあります。
S30年頃のことでした。
ひで爺ィさんが映画館でバイトをしていたころは映画館の全盛期、込んでいたでしょうね。
ビンゴホールとは初めて聞きました。カードを買ってゲームに参加するのでしょうか? 当たれば賞品がもらえて、パチンコのようにどこかで現金に換えられたりして。なにやら違法賭博のようにも感じられますが、上野の繁華街ですからちゃんと営業許可を取っていたんでしょうね。
松ノ湯横の山田さん、通りに面して横長で店の横が板塀だったんです。
駄菓子、おでん、お好み焼き、狭いところにぎゅうぎゅうに詰め込んでました。夜はお風呂帰りの人が利用してました。いま思うに木造平屋で絵になる建物でしたね。
ビラ下はビラの下部に三角形の切り取り線があってそれを切り離して映画館窓口に出すんです。いま思うに木造平屋で絵になる建物でしたね。
上野日活で洋画も上映していて、S27.8年だったか”立体映画”をやったことがあります。色のセロハンを張った紙のめがねを掛けてみるんです。西部劇で斧やヤリが目の中に飛び込んでくるのに度肝を抜かれた記憶があります。でもその一度のことでなくなってしまいましたね。
当時の映画館はまず一度目は立ち見で二度目に座ってみるんです。
アイスは途中の人が2.3人順に送ってくれましたよ。お金もちゃんと送られてくるんです。
ほとんど上野日活館だったかと。学校から列を作って行きました。
「二十四の瞳」懐かしいですねー。「ビルマの竪琴」もそうだったかな?
流れる涙が恥ずかしくて隠して見ていた記憶があります。
小生がクラシックに興味を持つきっかけが「ファンタジア」でした。クラシック大好き人間の母親にコンサートにまで連れて行って貰いましたよ。
映画も感性を形作る素になるものがたくさんありますね。