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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




川越商工会議所。埼玉県川越市仲町1。1989(平成1)年9月18日

仲町通りと大正浪漫通りが交わる角に建つ重厚な銀行建築。1998年10月に国の登録有形文化財になった。『文化庁>国指定文化財等データベース』によると、1928(昭和3)年に建ったRC造2階地下1階建のビル。武州銀行川越支店として建てられた。設計は前田健二郎(1892~1975)、施工は清水組。1970(昭和45)年に川越商工会議所が建物を譲り受けた。
外観の特徴として「ドーリス式の列柱を配した重厚な構えになるが、全体の意匠はルネッサンス・リバイバル様式とする。交差点側にバロック風の装飾を付けた特徴的な出入口を設けるなど、時代の特徴を伝える銀行建築の一つである」としている。
古典主義様式かと思っていたら「ルネッサンス・リバイバル(ネオルネッサンス)建築」だという。『ウィキペディア』には「19世紀前半からヨーロッパで始まり、日本を含む世界へ波及した建築様式で、ずっと以前のルネサンス建築に基づきながら当時の荘厳さや各地の新しい建築方式を織り交ぜたもの」とある。

玄関の左の街灯に「銀座商店街」の看板が付いている。「大正浪漫通り」に改称したのは1995(平成7)年である。

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亀屋山崎茶店。埼玉県川越市仲町2。1984(昭和59)年5月4日

亀屋山崎茶店は、一番街商店街の南端、仲町交差点を東へ入った仲町通り(仲町商店街)にある老舗の葉茶屋。通りには間口の広い店蔵と袖蔵、煉瓦造のアーチ門が並んでいる。亀屋山崎茶店の西に並んで「仲町観光案内所」(旧笠間家住宅、蔵造り商家)とうなぎ屋の「林家」(出桁造り商家)の古い建物が並び、その向かい側に「川越商工会議所」もあって、観光には欠かせないスポットである。
亀屋山崎茶店は『旅に行き隊!>亀屋山崎茶店について』によると、1877(明治10)年に和菓子の「亀屋」より分家して現在地でお茶屋を創業の商いを始めた。通称「お茶亀屋」で、和菓子の方を「もち亀屋」というそうだ。
店蔵(住居も一体)と袖蔵は1905(明治38)年の建築。店蔵は間口6間奥行8間で川越最大級の蔵造り。二階の格子窓が大きく開いていて防火上はどんなものなのだろう。明治26年の川越大火から12年も経って、明るい部屋にするほうを優先するようになったということだろうか。『川越大蔵 茶陶苑』には「周囲に黒漆喰の重厚な蔵が多い中で、当時から軽やかで洗練された瀟洒な雰囲気を漂わせていました。銀灰色の瓦は京都の一文字瓦を配し、正面の窓は横長開放型で、千本格子をはめ込んだ京風の繊細なデザイン」とある。
アーチ門の奥には「大蔵」という1850(嘉永3)年に建てられた大きな蔵が残っていて「茶陶苑」という陶磁器のギャラリーになっている。



金久眼鏡店。川越市仲町2。1989(平成1)年9月18日

亀屋山崎茶店の隣は「金久眼鏡店」と「朝倉電気商会」があった。金久眼鏡店は撮影時にはすでに廃業してしまっているように見える。正面の造りは戦前のものかと思えるが、家そのものはそう古いものではなさそう。朝倉電気商会は、現在のうなぎ屋「深井屋」が元の家に戻すように改修しているらしい。

追記(2022.10.10)
最近、『川越の建物 蔵造り編』(仙波書房、2022年9月、税込2,200円)が出版された。蔵造りの建物18点を取り上げて、きれいなイラストと共に解説されている。以下に「亀屋 山崎茶店」の瓦とその葺き方について述べられた箇所を紹介する。

建物に使われている瓦は「京瓦」で、瓦を焼く前に「磨く」と「燻す」の工程が入る。そのため普通の瓦にはない、銀色の光沢が出る。軒先は「一文字軒瓦」で一直線に揃えてすっきりと見せている。施行に手間がかかり高価になってしまうせいか、他ではほとんど見られない造りだ。

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仲町交差点(北側)。埼玉県川越市仲町4。1984(昭和59)年5月4日

すでに取り上げてきたマツザキ運動具店、桜井商店、旧山吉デパート、亀屋本店が写っている。現在もほとんど変わらない景観だが、電柱がなくなったのが目立つ。一番街の電線地中化は1992年。



仲町交差点(南側)。川越市仲町3。1989(平成1)年9月18日

仲町交差点の南東の景観で、こちらも写っている建物は今も替わっていない。角の「秀月モリヤ」の看板も色が薄れてきているが残っている。仲町交差点から南は「川越名店街」という商店街である。角の家はすでに空家に見える。一番街商店街、川越名店街、仲町商店街が交わる交差点角の家なのに借り手がないのが不思議だ。川越名店街の通りは1933(昭和8)年の開通なので、この通りの両側に建つ古い建物(看板建築の長屋など)は開通に合わせて建てられたと考えられる。
角の家もスクラッチタイル風のタイルで壁を貼ってあり、1930年前後に建てられたのだろう。なんの商売をしていたのか分からないが「マルカ」の文字が読めるのと、窓の中に火鉢が3個写っている。
川越名店街の通りは「中央通り」という。『高度経済成長期以降の川越地域における大規模小売店の開店・進出と商業活動調整協議会』(松本和明)という論文には、中央通りの開削は昭和戦前期の画期的事業だったという。「西武鉄道川越駅から北上して連雀町にある古刹の連馨寺の境内を通って南町通りに至る全長650m、車道6m・歩道2mの直線道路が計画され、1928年に着手された。商家の移転等に手間取ったため、開通したのは1933(昭和8)年10月であった。これにより、鉄道各駅とのアクセスが容易となり、商店も増加し、集客の中心が南下していった。」とある。

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亀屋本店。埼玉県川越市仲町4
上:1989(平成1)年9月18日
左:1984(昭和59)年5月4日

一番街の仲町交差点のすぐ北に建つ和菓子の老舗。現社主は八代目(1984年就任)。正確な社名は「株式会社龜屋」だが、難しい漢字は公式な場で使えばいいので、ここでは亀屋で表記する。
創業は1783(天明3)年で、創業者が和菓子作りを修行した「龜屋」からの暖簾分けという。四代目の山崎豊が新しい菓子を考案したり江戸風に改良したりし、ますます川越藩からも引き立てられ、「中興の祖」と言われる。明治以降、店は五代目に譲り、彼は第八十五国立銀行の設立に尽力して初代の頭取に就任する。商工会議所の設立にもかかわる。一方で、川越藩の御用絵師・橋本雅邦を支援するなど、文化活動も行った。明治の改革を先頭切って進めていったようで、老舗の旦那らしからぬイメージである。
建物は「山崎家住宅」として市指定有形文化財になっている。「川越建物細見」によると、「建築年代=明治26年6月19日(店蔵)」で「間口4間、奥行き2.5間の店蔵と間口2間、奥行2.5間の袖蔵を併立した袖蔵形式の蔵造りである。外観は塗籠められた出桁、深い軒をもつ屋根、特に開いた観音開扉が隣接する観音開扉と再び合わさることなど豪華である。大正期に店を座売から陳列に変更した。」と解説されている。
裏の「山崎美術館」はかつての工場を改装したもの。橋本雅邦の日本画を中心に展示する美術館で、1982(昭和52)年の開館。入館料500円だが、和菓子とお茶のサービスがあるということだから、カフェ代わりになりそうだ。

追記(2022.10.05)
本文の「創業は1786(宝暦6)年」を「創業は1783(天明3)年」と訂正。どこで間違えたのだろう。ちなみに天明3年は7月8日に浅間山の大噴火が起こった。

最近、『川越の建物 蔵造り編』(仙波書房、2022年9月、税込み2,200円)が出版された。蔵造りの建物18点を取り上げて、きれいなイラストと共に解説されている。以下に龜屋本店の二階の窓について述べられた箇所を紹介する。
二階の窓の段々を「掛子(かけこ)」といい、窓を閉めて壁と重なった状態を「手合わせ」という。扉と壁の段々に隙間がないように、左官職人による「掛子塗り」という技術で漆喰を塗り込める。この窓は外から開け閉めする。その足場として「目塗台(めぬりだい)」が設置されている。

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マツザキ運動具店。埼玉県川越市仲町6。1984(昭和59)年5月4日

一番街の仲町交差点角にある店蔵。一番街はこの交差点から北の、札の辻交差点までをいう。仲町交差点から南は「川越名店街」。
「マツザキスポーツ」(店名はこの呼び方が普及しているらしい)は、特に野球用具では関東有数の店らしい。写真では角の蔵をスポーツ用品店として使っているかどうか分からないが、今は倉庫にしている。市指定有形文化財での名称は「松崎家住宅」だ。建物をガードする砲弾のような柱がすでに設置されている。
川越建物細見』(川越市作成のパンフレット)に、「松崎屋」の屋号で、昭和24年まで砂糖商を営んでいた、とある。戦後まもなくスポーツ用品店に商売替えしたようだ。建物については、明治34年8月30日の完成で、「店蔵は間口4間、奥行2.5間の入母屋造り、矩折れに3尺の下屋庇をつけた重量感あふれる堂々たる構えである。大きな鬼瓦と極めて高く積まれた箱棟、漆喰で塗籠められた二重の軒蛇腹と出桁などの重厚さは、川越商人のエネルギーが建物の意匠にみごとに結集した結果である。」ということだ。
「陶舗やまわ」とよく似た外観だ。もしかしたら、参考にしたのかもしれない。

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桜井商店。埼玉県川越市仲町6。1984(昭和59)年5月4日

旧山吉デパートの隣にある洋風看板建築の店。『川越建物細見』(川越市作成のパンフレット)によると、建ったのは1915(大正4年)2月25日、土蔵造り。舶来品の自転車や鉄砲を売る「桜井商店」だった。――土蔵造りの看板建築とは珍しい、川越ならではのものだろう。洋風の外観は最初からのものだったのだろうか? 看板建築は関東大震災以降に建てられ始めたというのが通説なので、気になる―― 桜井商店は「鍛冶町の草分け商人」という。「住居棟――店舗の後ろにある寄棟屋根の家かと思う――との間には観音開扉が使われている。人造洗い出し仕上げの3連窓や柱型は美しく、川越左官の確かな腕を見せている。」とある。
『食べログ』の、現在の「アートカフェ エレバート」の投稿記事に「桜井銃砲店」について書かれた記事があった。それには、1955(昭和30)年頃には靴屋に、1995~2007年3月は「田中屋美術館」だった、とある。『日本近代建築総覧』では「マスダ靴店(旧桜井商店)」で載っている。1984年に撮った写真では古書店だが、店名が判らない。
田中屋美術館の「田中屋」は、田中利明(1944~1998)のことで、「菓子屋横丁の景観形成など、川越の商業観光の発展に貢献したことで知られる」そうだ。桜井商店を買い取り店舗を修繕して、1995年に氏が集めた美術品を展示した美術館をオープンした。この時、建物上部の「桜井商店」のレリーフの文字が「田中屋」に変えられたのだろう。
2007年に閉館した後、じきに現在のカフェに替わったらしい。

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旧山吉デパート。埼玉県川越市仲町6
1989(平成1)年9月18日

一番街の仲町交差点のすぐ北に建っている3階建てRC造のビル。建物名はネットでは「旧山吉(やまきち)デパート」が多いのでここでもそうした。埼玉銀行川越支店(旧国立八十五銀行本店、大正7年)と同じ保岡勝也の設計、安藤組の施工で1936(昭和11)年の竣工。4本のイオニア式オーダー、壁面の唐草模様のレリーフで飾られた、ルネッサンス様式と言われることが多いデザインのビルだ。正面1階の上には「別府ステンド硝子製作所」が製作したステンドグラスがはめられている。
山吉デパートの次に入ったのが「丸広百貨店」だが、ネットではどちらも高級百貨店のように記されていてややこしい。『高度経済成長期以降の川越地域における大規模小売店の開店・進出と商業活動調整協議会』(松本和明)という論文のPDFファイルが読める。それには割と詳しく丸広百貨店の歴史が記されているので、以下、ぼくが理解した範囲でまとめてみた。

丸広百貨店の前身は大久保竹治が創業した「丸木商店」(丸木衣料品店)で、1939(昭和14)年に入間郡飯能町に創設した衣料品卸・小売業。1950(昭和25)年に川越への進出を企図したとき、鍛冶町919番地(現・仲町) で呉服・洋服の販売をしていた「山吉百貨店」の渡辺吉右衛門から用地の提供を受けた。山吉デパートはいわゆるデパートではなかったようで、「デパート」を称していたかも怪しいことになる。また、「用地提供」で、売り場は2階建てとしているので旧山吉デパートの店舗だったかどうか不明だ。想像だが、旧山吉デパートの1・2階を借り、その裏(現在は駐車場)に売り場を造ったような気がする。
丸木商店川越店の開業は1951(昭和26)年10月。「丸木百貨店」として開業したのかもしれないが、社名を丸木百貨店と変更したのは1956(昭和31)年11月である。そうとう繁盛したらしい。1964(昭和39)年10月に新富町の新店舗を開設して移転した。
丸木百貨店が移転した後は空家になっていた時期が長かったらしい。『日本近代建築総覧』には「グランドキャバレー月世界(旧山吉デパート)」で載っている。1970年代のある時期に、キャバレーが入った時があったわけだ。
2007(平成19)年3月に1936(昭和11)年の竣工時の姿に復元され、同年、山吉デパートの創業者のお孫さんが「保刈歯科醫院」を開業した。

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中成堂歯科医院。埼玉県川越市幸町13
1989(平成元)年9月18日

一番街の東の裏通り、埼玉りそな銀行の裏手にある洋館の歯科医院。写真は医院ではなかった時期のもの。下見板の外壁は20年くらいで塗り替えられるらしく、今はピンクに塗られているが、その前は淡緑色だったらしい。写真では空色。また、塀が今はレンガの外観のものに替わっている。
中成堂歯科医院』及び『洋風建築が語る川越のこと』によると、1913(大正2)年に歯科医院兼住居として建てられ、翌年開院した。建て主は目黒寅三郎という歯科医師。跡取りがいなかったため、1931(昭和6)年に、中野歯科医院の中野清氏へ建物を譲り、「中野歯科医院」として1975(昭和50)年まで続いた。今の院長によって再開されたのは2002(平成14)年。その時に、外装内装ともに全面改修された。
建物は木造2階建て、外壁はイギリス下見板。屋根は天然のスレート葺き。1階の窓は両開き窓、2階は上げ下げ窓。横浜の山手資料館を少し簡便にした感じだ。2001年に「伝統的建造物」の指定を受け、2002年には「かわごえ都市景観デザイン賞」を受賞している。

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荻野銅鉄店。埼玉県川越市幸町1。1989(平成元)年9月18日

荻野銅鉄店は一番街の仲町交差点近くにある金物店。『Tabi2ikitai.com>荻野銅鉄店』によると、明治期創業の店で、今の店舗は明治26年の大火直後に建てられた町屋造りの建物。代々鍛冶町の名主を務めた北野家の旧宅、ということだ。広い間口の中央に置かれた看板の文字は「武蔵川越 鍛冶町/徳町 荻野銅鐵店/諸國萬打刃物一式/銅製茶道具・鋳物製品一般」。観光客には風鈴などが売れているようだ。
写真右奥の2軒は、つい最近まであったが、2018年に1棟の出桁造りの家に建て替えられて「川越プリン」と「kashichi」(和菓子、龜屋の支店)いう店が開店した。
写真左の家はいも釜めしの「翠扇亭(すいせんてい)仲町店」。バスで半分隠れてしまったのが残念だ。2011年以前に取り壊されている。

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大塚美容室。埼玉県川越市幸町1。1989(平成元)年9月18日

一番街の中町交差点から90mほど北のところ。カラーモルタルの看板建築が並んでいるのはごく狭い路地なのだが、その向かいが駐車場で空いているため、通りからも見ることができる。大塚美容院の建物は二軒長屋。その左にもう1棟の同じようなカラーモルタルの看板建築の二軒長屋がある。外観のデザインからは昭和初年に建てられたもののように思える。『4travel.jp>レトロを探す1日 初めての川越建物見物 前半』には、「モダン洋風長屋 昭和7年(1932) 店舗つき賃貸住宅として山吉デパートが建てたものだそうです。道路の拡張計画に合わせて建てたものの、道路計画が中止になりそのまま店舗は路地に向かって建つ羽目になったとか」とある。とにかく良好な保存状態で残っている。
2016年頃に窓が建築時の縦長のものに修復された。
写真右の白い壁の建物は「オカダ洋服店」かもしれない。2014年に、現在みられる大塚美容室に合わせた看板建築に建て替え(改修?)られて、風呂敷などの「鍛冶小町堂」が開店した。

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