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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





上:銀座商店街の空家商店(1)
2003(平成15)年7月20日
左:鮒彦総本舗。ストリートビュー(2012年9月)より
千葉県香取市佐原イ496

香取街道の「小堀屋本店別館」の元銀行だった建物の横を北へ入った細い通りが、街灯に「銀座商店会」の表示を出した商店街である。『佐原市佐原地区町並み形成基本計画』の「商店街組合の範囲」の地図では「佐原銀座商店会」で、それが正式な組織名かと思う。この商店街はけっこう長くて、北へ行った県道2号線(水戸鉾田佐原線)との交差点まで約300m続く。地元の人が日常の買い物をする商店街かと思うが、今は閉店してしまった店の方が多い感じだ。ストリートビューで最近の家並みを見ると2014年頃に外灯上部にあった「銀座商店会」の表示板を取り去ったようである。商店会は解散したのかもしれない。
写真は右奥へいくとすぐ小野川の共栄橋のところへ出る。左奥への通りが銀座商店街で、「横川岸商店会」が交差しているところ。横川岸商店会の通りは写真の交差点から西へ50mいって「横宿通り(県道55号、佐原山田線)」に出てしまう。
写真の店がなんだったか分からないが、今は取り壊されて更地になっている。交差点角の、鉄パイプの防護柵が今も残されている。
写真の家の左奥は、撮影時は佃煮の「鮒彦総本舗」で、その店舗を撮っておけばよかったが、SVで見ることができるのでその画像を出しておく。店舗に付属している平屋は佃煮の製造所だったのだろうか。今は平屋の部分は取り壊され、店は「ひろのスープカレー」という店に替わった。



銀座商店街の空家商店(2)。香取市佐原イ496。2003(平成15)年7月20日

鮒彦総本舗の北のアパート式の店舗で、今も写真の状態のままで残っている。建物の左の店は美容院だろうか。右の方は見当がつかない。写真左奥の黄色い壁の家は、現在では取り壊されて更地になっている。

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上:中橋下流右岸(1)
千葉県香取市佐原イ3412
2003(平成15)年7月20日
左:中橋。『佐原市佐原地区町並み形成基本計画』より

上の写真は小野川の中橋の辺りから下流(北)の右岸を撮ったもの。左の写真は「小野川と佐原の町並みを考える会」による『佐原市佐原地区町並み形成基本計画』(1993年)というレポートからお借りした写真で、1980年頃撮影のものかと思う。戦前と思われる写真があって、それとの比較で出ている写真だ。画面の左半分が上の写真の範囲と重なる。古い写真の左端に写っているビル風の建物とその右の寄棟屋根の後ろに切妻屋根になっている家が上の写真で共通である。その右の家は古い写真では戦後の商店に見える。それを建て直したのが上の写真の右手の伝統的な様式の日本家屋の住居に見える家、ということになる。
今は写真左の2階建てのビル風の家も、切妻屋根出桁造り下見板格子戸の家に建て直された。



中橋下流右岸(2)。香取市佐原イ3412。2003(平成15)年7月20日

1枚目写真の左に続く家並み。平屋の家は長屋だろうか? 右に、もっと長く続いていたのかもしれない。今は下見板の洋館風の家に建て替わっている。建て主が、伝統的な街並みを復元するのはいいが、使いにくいから和風でなくて洋館風で勘弁してくれ、というような経過を想像してしまう。



中橋下流右岸(3)。香取市佐原イ3413。2003(平成15)年7月20日

3枚目写真の左に続く家並み。写真左端の看板建築が「多田畳店」で、その左に「山野病院」がある。この家並みは今も変わらない。ここまでの家並みで店名が分かったのは多田畳店だけ、ということになってしまった。

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ワーズワース。千葉県香取市佐原イ491。2003(平成15)年7月20日

小野川の忠敬橋の下流(北)の次の橋が共栄橋で、写真手前右のフレーム外にその橋がある。つまり写真手前は橋詰広場のような場所で、写真左のフレーム外に「カメラの三越」の廃ビルが目立っている。写真右に二階建ての町家が3棟並んでいる。そのうちの左の家と写真中央の平屋の家とが、店名が分からないが元材木商だった。モルタル壁の平屋は材木商を廃業した後、貸店舗として建てたものではないかと思う。昔は材木置き場だったのだろう。
材木商だった家は2012年に「ワーズワース」というイタリアンのレストランに替わった。東日本大震災で家を修復する際、レストランとして改装したのだろうか。モルタル壁の平屋は取り払われて、その裏にあった小さな土蔵(下の写真、左奥の瓦屋根)が表面に出てきた。電柱後ろのトタン屋根の家は建て直されたのかもしれない。
橋詰広場が整備されたことによって、新宿地区の諏訪神社の秋祭りで、山車や踊りの見物には格好の場所になったようだ。



ワーズワースになる前の元材木商。2003(平成15)年7月20日

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夢時庵(ムージャン)
千葉県香取市佐原イ3403
2003(平成15)年7月20日

夢時庵は忠敬橋(ちゅうけいばし)から小野川沿いにすぐ北にあるフランス料理のレストラン。夢時庵の開店は2008年なので撮影時は、正上(しょうじょう)醤油店だった店舗と蔵、ということになるかと思う。
ネット上では建物の情報は「明治34(1901)年の建築」ということしか得られなかった。店舗と土蔵が一体になった建物で、おそらく元は別だったのを改修してひとつにしてしまったのではないかと思える。店舗の横の、正上醤油店のマークが描かれている壁は土蔵造りに見えるが、これも改修によるのだろうか。今は壁に折釘が取り付けられて、いよいよ土蔵に見える。

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正上醤油店。千葉県香取市佐原イ3406
2003(平成15)年7月20日

小野川の忠敬橋(ちゅうけいばし)から小野川沿いに北へ100mほど行ったところ。小野川沿いの国指定重要伝統的建造物群保存地区の代表的景観である。旧町名だと小野川右岸の「本宿」の「本町」。
正上(しょうじょう)醤油店は、その説明板によると、寛政12年(1800)年に食用油などを商う「油庄」として創業し、天保3年(1832)に醤油業を始めた。店舗は天保13年(1842)年の建築。佐原では最古の建物になるらしい。「通りより3尺内側に揚げ戸(鎧戸)を建て込み、奥の住居との境には千本格子障子を嵌める。2階正面に繊細な格子窓を組み、屋根は軒先を大きく張り出した品格ある建物。奥座敷には、さび壁、曲がり戸(カラクリ戸)など匠の技が光る」ということである。土蔵は明治初期の建築。寄棟屋根が土蔵としては珍しいかもしれない。現在は正面の壁は黒く塗られている。
店の前の小野川の「だし」(船着き場)は昔からのものが残されている。小野川のだしは多くが失われたらしい。護岸整備のためというが、たぶん子供の事故を心配してのことではないかと思う。正上醤油店の人が少しは保存しなくては、と運動したらしい。今になって復元したりしている。



正上醤油店。2003(平成15)年7月20日

正上醤油店今でも醤油は別の場所でほそぼそと造ってはいるらしいが、昭和30年頃から「いかだ焼」などの佃煮の製造を始め、今はそれが主要な商品で、観光客に人気だ。
土蔵の左が今の「正上いかだ焼本舗」の販売所。写真では入口を除いて大谷石の壁で塞がれたようになっているが、東日本大震災後の改修で壁は取り除かれた。ゆるいアーチ型の門は店舗と土蔵の間に移された。



上の図は『香取市の維持向上すべき歴史的風致』から流用した『大日本博覧図 第11編』(精行社・明治29年、常総市所蔵)の「加瀬庄次郎宅」。ここに描かれている建造物のうち、赤字の「店舗・土蔵・だし」が今でも残っているわけだ。敷地もその大部分は維持しているように思える。

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木の下旅館。千葉県香取市佐原イ498
2003(平成15)年7月20日

町並み観光中央案内処(金利)から数軒北へ行ったところの商人宿。「NPO法人小野川と佐原の町並みを考える会」の説明板によると、建物は明治34年(1901)に建てられている。それ以前から船宿を営んでいたという。江戸期から河港商業の町として栄えていた佐原だから、宿屋も多くあったと思われるが、伝統的な日本家屋の旅館として残っているのはほとんどないらしい。説明板には「建物はガラス窓が普及した明治末の特徴が見られる。1階の格子窓下には大正期と思われるタイル張りが、右の壁には鉄板の道案内と天水桶が懐かしさを感じる」とある。電話室なども大正期以降の改装ではないかと思う。外から見ると天水桶に目が行くが、その後ろの「水郷佐原市略図」にも注目ということだ。
2018年10月とごく最近のことだが、ついに旅館業はやめてしまい、とんかつ屋を始めた。今は「お食事処 木の下」の暖簾が出ている。



木の下旅館。2003(平成15)年7月20日

木の下旅館の向かって左隣の家は、1階が全て硝子戸になっているが、今は建築時の造りに改装したのだろうか、格子戸の玄関、格子戸の窓に戸袋に変わっている。写真左端にはガレージがわずかに写っている。今はこれも取り払って古い様式の門になっている。
ガレージの左にあったのが下の写真の建物。バーかスナックだろう。壁はきれいなので撮影時では営業していたのかもしれない。今は取り壊されて、裏の通りに抜けられる路地になっているようだ。
上の写真で右の家は鉄板貼りの看板建築のような家で、玄関上の壁に「パーマ」の字がかすかに残っている。


町並み観光中央案内処と木の下旅館の間にあったバー。2003(平成15)年7月20日

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町並み観光中央案内処。千葉県香取市佐原イ498。2003(平成15)年7月20日

忠敬橋から小野川の左岸の河岸を下流(北)へ100mほどのところに「町並み観光中央案内処」があり、それと接して2軒の古い町屋が並んでいる。
「NPO法人小野川と佐原の町並みを考える会」の説明板によると、「金利」という商家だった建物。天保2年(1831)に金田利兵衛が創業して、奈良漬を製造した。佐原は酒の醸造業が盛んで、その関係で奈良漬が名物だった。店舗は切妻平入2階建て、明治後期の建築で裏に昭和初期の平屋部分を増築している。敷地奥には土蔵がある。
東日本大震災では、店舗の被害は少なかったようだが、土蔵は屋根瓦が落ち、漆喰壁も剥落した。
写真では公衆電話があり、「観光客無料御休み処」の看板が置かれている。隣の家には「クリーニング」の看板。



町並み観光中央案内処。2003(平成15)年7月20日

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旧油惣商店。千葉県香取市佐原イ503。2003(平成15)年7月20日

撮影時は佐原(さわら)市で、2006年3月に小見川町(おみがわまち)、山田町(やまだまち)、栗源町(くりもとまち)と合併して香取市が発足した。住所は新住所で表記するが、佐原市が香取市佐原と変わっただけだと思う。
旧油惣(きゅうあぶそう)商店は、香取街道の、小野川に架かる忠敬橋のすぐ下流の河岸にある。佐原市街の中心といっていい場所だ。旧町名だと「新橋本」。
「旧油惣商店」の名称だが、元は油惣商店だったが商売をやめたので「旧」をつけたのだか、元々、旧油惣商店という店名だったのか判然としない。あるいは新旧の旧の意味ではないのかもしれない。
千葉県>旧油惣商店』によると、「江戸時代中期の寛政年間(1789~1801)に佐原の町の中心部である現在地に移り住んだと伝えられ、江戸時代には酒業や奈良漬けの製造を行い、明治になってからは、東京へ運ばれる米・砂糖・下り酒を扱う問屋を営んできた」という商家。『るるぶ&more.>旧油惣商店』では、「寛政6年(1794)創業の旧油惣商店は江戸中期安永9年(1780)、本地において酒造業を始め、その後寛政年間より佐原で初めて奈良漬を始めている」とある。

店舗は「間口3間半、奥行き5間半の大きさで、明治33年(1900)の大火の後に再建されたものである。木造2階建て、瓦葺寄棟造の建物で、間取りなどは建築当時の特徴を良く伝えている」(『千葉県>旧油惣商店』)。「寄棟妻入の佐原では珍しい総2階の建築」(『るるぶ&more.>旧油惣商店』)。
土蔵は「切妻平入の2階建て、桟瓦葺で屋根裏を含めると3階建ての建物で、梁には、「寛政十戌牛歳九月立之大工佐吉立之」と墨で書かれており、寛政10年(1798)に建築されたことが判明している」(『千葉県>旧油惣商店』)。佐原では最古の土蔵になるしい。



旧油惣商店。2003(平成15)年7月20日

ストリートビューを見ると2012-2015年では、東日本大震災での損傷を修復するためのものと思える工事の足場(店舗)とシート(土蔵)が架かっている。現在の外観はその修復によるものと思える。土蔵の前の下屋に格子戸が取り付けられ、シャッターが黒漆喰の壁に替わったりしている。

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鳥ひろ、喫茶ボン。茨城県土浦市桜町2-7。2006(平成18)年11月5日

県道24号線の中村時計店の向かい側を南へ入った、裏通りとの角の、料理屋だったと思われる家。建物の左は「喫茶ボン」。写真右の裏通りの奥の緑の日よけは木造日本家屋の家で薬局のようだ。写真右の街灯にある「桜町薬品」だろうか?
現在はボンが入っていた左側半分が取り壊され、隣の薬屋も取り壊され、写真左の青いトタンの家も、写真右にわずかに写っている家も、取り壊された。その跡は全て駐車場になってしまった。撮影時でも駐車場が目立つ街だという印象だったのだが、さらに増えているようだ。

下の写真は1枚目写真の左右の通りを右(南)へ少し行ったところ。平屋の家は今はなくなって空地。左の家は「喫茶桃山」だが営業しているようには見えない。街灯には「富士火災代理店 県信商事」の看板が。この家は、現在は「コインランドリー 桃山」。


喫茶桃山。土浦市桜町2-8。2006(平成18)年11月5日



竹ちゃん、祐祐。土浦市桜町2-6。2006(平成18)年11月5日

1枚目写真右の通りを奥へ行ったところ。その奥の赤い看板が「ラーメンとも」で、上の写真の左奥に写っている。この通りの左右には風俗店が並ぶ中で、古い家屋が飲食店になっていたりして、細かく見ていくと面白そうである。

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吾妻庵総本店。茨城県土浦市中央1-6。2006(平成18)年11月5日

中城通りにある老舗のそば屋。「吾妻庵」は関東に11軒あるそうで、その「総本店」。明治6(1873)年創業で、大正時代に今のところに移ったらしい(〔99/01〕土浦・水郷都市の面影をたどる>再建された吾妻庵)。とすると、建物もその時に建てられたのだろうか?
1998(平成10)年に火事を出した。どの程度のものだったのか分からないが「2階は火災にあって、1999年に復元」としたサイトがあり、2階前面の屋根の瓦は新しく、1階前面の屋根の瓦は古いままのようなので、2階の一部を焼いただけで済んだのかもしれない。「うだつ型行灯看板」は焼失し、復元したもの。2011年の東日本大震災では大きな被害はなかったようである。
外に置かれている盆栽は店主の趣味だ。新聞記事に載るほどの腕前である(毎日新聞2016.10.20)。



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