goo blog サービス終了のお知らせ 
ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





日本大学理工学部1号館
千代田区神田駿河台1-8
上:1988(昭和63)年1月15日
左:1985(昭和60)年2月24日

写真の校舎は2001年1月に解体されて建て替えられた。新1号館は2002(平成14)年12月に竣工、ガラスカーテンウォールの7階建て(街路側は5階建てなので容量は大きくなったようには見えない)の、大学の校舎らしからぬビルで、旧校舎の重厚な趣から一転している。先代の形態を残そうとして変なものになるのよりも、いっそう潔いかもしれない。
旧1号館は『日本近代建築総覧』では「建築年=1929(昭和4)年、構造=RC6階建、設計=日本大学、施工=新工務所」である。『 日本大学理工学部一号館の記録』によると、設計者は「第1回卒業生の長井郁郎、江崎伸一、足立宗四朗ら」としている。理工学部は「1920(大正9)年、日本大学高等工学校(土木、建築)設置」が始まり。長井らが今の制度と同じ18歳でそこに入学したのだとすると、当時長井は27歳になってしまう。ほんとうに30歳余りだったのだろうか? 
既サイトでは、外観は、ポインテッドアーチや柱の垂直線を強調したゴシック様式に、スカイラインの装飾帯による水平線の協調というルネッサンス様式を加えた折衷様式、としている。また、竣工時は外壁は白タイルだったというのが興味深い。『 消えた近代建築>日本大学理工学部一号館』では、「外壁の茶色のタイルは、昭和40年代の学生闘争後の修復時に貼られたものらしく」と推定している。このサイトには向かい側のビルから見下ろして撮った写真があり、休憩所になっていた屋上や、引っ込んでいて路上からは見えなかった6階の形が分かる。
都市徘徊blog>日本大学理工学部1号館』によると、ポインテッドアーチの正面玄関は新1号館のエレベータホールに保存展示された。このサイトの旧1号館の写真は東側の全部が入るように写されていて、その坂道を歩く学生と思われる若者やパーキングメータにずらりと止まっている車もとらえられていて、当時の雰囲気が伝わってくる。



日大歯学部大学院。神田駿河台1-8。1987(昭和62)年1月1日

理工学部1号館とYWCAの間に建つビルは今も健在だ。今の表札を見ると「日本大学歯学部/総合歯学研究所」「1号館」「日本大学大学院/歯科研究所」と英語表記のものの4枚がある。昭和30年代の建築らしいからいつ建て替えられてもおかしくないのだが。今は外壁のタイルが張り替えられてわりときれいな外観である。

コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )





文化学院。千代田区駿河台2-5。2003(平成15)年12月30日

文化学院は1921(大正10)年4月の開校。創立者の西村伊作は小学校を卒業した娘が進学するに適当な学校がないと、自分で作ってしまった。創立には与謝野鉄幹・晶子、石井柏亭(洋画家)が協力している。文化人の西村はそういう人と交流があった。建学の目的は「国の学校令によらない自由で独創的な学校」「感性豊かな人間を育てる」といったことで、「自由主義の教育」を目指した。大正デモクラシーの流れで、自由教育運動ともいえる学校では、羽仁もと子・吉一夫妻の自由学園が同時期に創設されている。
校舎は最初から西村が持っていた駿河台に建てられ、西村の資産で運営された。最初に建てられた校舎は英国のコテージ風のもので西村が自分で設計した。後に軽井沢にル・ヴァン美術館(1997年開館)として復元される。1923(大正12)年には木造4階建ての校舎を増築するも完成直後に関東大震災で焼失、その基礎の上に2階建て校舎を建築して授業を継続する。
写真の校舎は1937(昭和12)年に完成したもので、RC4階建て、切妻の瓦屋根を持つ。やはり西村伊作の設計になる。偏心したアーチの入口と蔦が絡まる壁が特徴。『建築探偵術入門』(東京建築探偵団、文春文庫、1986年、480円)では「ストリート・アーキテクチュア(街路の建築)」という用語を使っている。それが建っていることで通り(とちの木通り)の雰囲気が決まるような建物をいうのだろう。
戦時中も自由主義の教育を続けていたが、1943(昭和18)年、反政府思想とされて閉鎖命令を受け、西村は不敬罪で半年間拘禁されてしまう。校舎は捕虜収容所(陸軍参謀本部駿河台分室)になってしまう。教育文化の地に捕虜収容所とは! 軍だか政府のいやがらせだろうか。米軍捕虜が放送したラジオ番組「日の丸アワー」(軍部が用意した原稿を読ませる)はここから放送されたという。


文化学院。1985(昭和60)年7月7日

文化学院は2005年にビッグカメラ>日本BS放送に買収されたようである。2008年に14階建てのビルに建て替わり、文化学院はいったんはそのビルに入ったが、2014年に両国に移転した。現在、日本BS放送のビルの前の庭に旧校舎のアーチの部分が2階建てにして残されている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




山の上ホテル。千代田区神田駿河台1-1
1985(昭和60)年10月

『日本近代建築総覧』では「山の上ホテル(旧佐藤新興生活館)、建築年=1937(昭和12)年、構造=RC7階建て、設計=ヴォーリズ、施工=清水組、地下2階」。佐藤新興生活館とは「社会事業家として知られる佐藤慶太郎らがはじめたユニークな文化福祉事業「新興生活宣言」~健康のための生活改善と、それによる社会改良を目指す社会事業~の拠点」〈 一粒社ヴォーリズ建築事務所>山の上ホテル〉ということだ。これだけではよく分からないが『占領下の東京』(佐藤洋一、河出書房新社、2006年、1600円)では「北九州の石炭王の佐藤慶太郎が新時代の女性に欧米の生活様式を啓蒙する目的で」と説明されている。佐藤慶太郎(1868-1940)は福岡県の出身で、石炭商から身を起こし、1922年(大正11年)には事業を人に任せ社会事業に専念するようになる。上野公園の東京府美術館は佐藤の寄付がもとになっている。
建物は昭和13年には帝国海軍に接収されて、戦時中は将校の宿舎になってしまったというから、新興生活館だった期間は1年余りということになる。戦後は米軍に接収されて陸軍婦人部隊の宿舎になった。既出書によれば接収期間は昭和20年12月-昭和27年4月。それを吉田俊男という実業家が佐藤家から建物を借り受ける形で昭和29年1月20日に山の上ホテルを開業した。



神田生活館、錦華公園。1938(昭和13)年

母(1919-2005)のアルバムにあった写真。アルバムには撮影日の記載がないが、そばに昭和13年9月23日と昭和13年9月15日の日付のある写真がある。山の上ホテルの写真には「神田生活館」の書き込みがある。写っている人物はたぶん母の妹だろう。「錦華公園」としたのは推定。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )





明治大学記念館。千代田区神田駿河台1-1。1987(昭和60)年1月1日

正面を東へ向けているので、午前中なら日が当たっている状態で撮れたわけだが、そのうちにと思っている間に建て替わってしまった。門の脇に「1号館」と書かれた表札がある。住宅地図を見ると、1号館は建物右翼(向かって左)のことで、その後ろに「体育館」とある。中央のドームがある部分が「大学本部」となっているが、普通はここが「記念館」、その後ろに「図書館」、左翼が「2号館」、その後ろが「短期大学3号館」となっている。
『日本近代建築総覧』には「明治大学、建築年=1932(昭和7)年、構造=RC+SRC4階建、設計=大森茂、施工=清水組、戸田組、大倉土木、大林組」だが、一般には1928(昭和3)年の竣工である。昭和3年には一応完成して使い始め、後方ではまだ工事が続いいていた、ということだろうか。
「グレコ・ローマン・奈良平安式」という建築様式だという〈記念館おわかれコンサート・プログラム〉。ぼくの語彙にはなかった言葉でよく分からないが、古代ローマ帝国のような建築様式に和風な要素を入れたらしい。外観から受ける感じは、なんだか要塞のように重々しい。ぼくの知っている明大を出た人達はかなり軽い感じがするのだが、それは関係ないか。また、どこが和洋折衷なのか、外からでは分からない。



明治大学1号館。1985(昭和60)年2月24日

手前の建物は、1977年の住宅地図で「駿河台給油KK(丸善石油スタンド)、メンズウエアクニイ、斉藤洋服店」。1986年9月には現在の「第二龍名館ビル」が建ってしまう。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





神田女学園。千代田区猿楽町2-3
左:1987(昭和62)年1月4日
上:1990(平成2)年5月6日

JR水道橋駅の近くにある私立の中高一貫女子校。校舎は2008年に建て替り、写真はその旧校舎である。『日本近代建築総覧』では「神田女学園、建築年=1935(昭和10)年、構造=RC3階建、施工=竹田組」。
神田女学園は〈ウィキペディア〉によると、1890(明治23)年、神田猿楽町に神田高等女学校として創立された。明治期の校舎は神田橋、神田仲町、神田花房町にも建てられているから、創業地が今の地かどうか分からない。現在の校名は1950(昭和25)年から。
写真の校舎は4階が違和感なく収まっているが増築である。そういえば建て替えられた7階建ての校舎も、うっかりすると昔のままの校舎のように感じられてしまうほど巧みな造りである。
都市徘徊blog>神田女学院〉に解体前の2005年に撮られた素晴らしい写真が載っている。この写真は神田女学園が制作したらしい動画〈神田女学園中学校高等学校の歴史〉にでてくる「旧校舎」の写真のようだ。


You Tube〈神田女学園中学校高等学校の歴史〉より
左:「猿楽町校舎(1935年~2006年)」、右:「猿楽町校舎(1945年11月)」

神田の猿楽町、神保町一丁目、三崎町などが焼けたのは昭和20年4月13日夜半から14日にかけての空襲のときだったようだ。神田女学園の向かいにあるカトリック神田教会の聖堂には火が入らなかったという。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





博報堂。千代田区神田錦町3-22。左:1985(昭和60)年4月、右:同年8月4日

神田錦町の博報堂旧本社ビルの跡地が現在どうなっているか調べたら、つい先日の5月15日に「テラススクエア」がオープンしていた。旧本社ビルは新しいビルの角に「復元」されている。再開発前に神田錦町3-22・24に建っていたのは、撮影時では、22番地に博報堂、24番地に博報堂第二別館、住友海上火災神田別館、錦文ビル、大修館書店、住友商事栗田ビルなど。
1895(明治28)年に創業した博報堂が神田錦町に移転してきたのは1914(大正3)年。関東大震災で社屋を焼失した後、1930(昭和5)年6月に建ったのが写真のビルなのだろう。設計=岡田信一郎、施工=戸田組(現戸田建設)、RC3階建てで5階建ての塔屋が目立つ。左側の前に出ている部分は戦後の増築。
日本建築学会の保存要望書によると、正面に3層の高さの4本のドリス式風オーダーの古典主義と、塔屋ではアール・デコ風の当時先端の動きを取り込んで、重厚な中に軽快さを感じさせる表現、という意味のことを言っている。

どうしても銀座の電通ビルと比べてしまうが、見た目でも電通ビルのほうが実用的にできている。それが建て替えをしないで使い続けている理由かもしれないが、歴史的価値や景観を考えて余裕を見せているのかもしれない。博報堂の方は見た目重視の装飾優先だから、事務所には無理だろうが、ビルの特色を生かして会社の広告塔として残せなかったと思う。それでは遊休資産のままで、株主が承知しないのかもしれない。



1992(平成4)年5月4日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





リオ、鶴谷洋服店
千代田区神田神保町1-3。左:1985(昭和60)年4月、右:2015(平成27)年3月21日

明文堂・文省堂の向かいに今もある看板建築。『東京―昭和の記憶―>神保町界隈』の明文堂・文省堂の写真の説明文に「…ラドリオは、かつて写真左の「リオ」と、店の中でつながっていたが、のちに「リオ」が分離…」とある。そういう目で昭和38年の航空写真を見ると、書泉グランデの裏にあるラドリオとリオの建物とはT字形につながっているように見える。リオの正面を見る限りでは戦前の看板建築に見えるのだが、ラドリオは昭和24年の創業というから、あるいはそのときに建てたものなのだろうか? 現在は「アート・スポット ラド」というギャラリー。
鶴谷洋服店は2010年9月でテーラーは廃業してその後古本と小物雑貨などの店になった。店名は「鶴谷洋服店」のまま、あるいは「(元)鶴谷洋服店」らしい。看板には小さい「元」の字を付け加え、名物だった半円アーチの袖看板は模型のような小さなものに換わっている。
(元)鶴谷洋服店次第書き』という鶴谷洋服店の甥御さんに当たる方が書いているブログがあり、その中で鶴谷洋服店の歴史にも触れている。それによると建物は昭和3年に「薗部袴店」として建てられたものという。鶴谷洋服店は昭和20年に三崎町の店を空襲で焼け出されてそこに移ってきたのだった。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





明文堂、文省堂。千代田区神田神保町1-5
左:1987(昭和62)年11月18日、右:2001(平成13)年10月

靖国通りの書泉グランデの横を入ったところに洋風看板建築の同じ長屋に2軒の古書店があった。
明文堂は『JIMBOU BOOK TOWN>明文堂書店』によれば「おそらく1928、29(昭和3、4)年には創業していただろうという社会科学専門店。以来約80年、靖国通りとすずらん通りをむすぶ通り沿いに店を構えていたが、2006年12月、今話題の劇場「神保町花月」などが入る「神保町シアタービル」前に店舗を移転した」という店。
文省堂は教科書でも扱っていそうな店名だが、『JIMBOU BOOK TOWN>文省堂書店』によれば「昭和40年代の創業以来、一貫して“軟派”のものを扱っている。古書業界では昭和60年代に女優、アイドル写真集の一大ブームがあったが、そのブームの一端はこの文省堂が担っていた」「2007年1月、創業以来40年近く続いていた店を移転(同じ横丁ですずらん通りを越えたところ)」。文省堂の横は路地が入っていて、そこに本棚をしつらえて古本を置いていた。きちんとそれを写しているサイトを紹介しておく。
都市徘徊blog>神保町の洋風建物2
ブログ版―桐のイベント道場>明文堂・文省堂/神保町の風景

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





アオヒ印房。千代田区神田神保町1-5。1991(平成3)年9月1日

神田すずらん通りの中間あたりの横丁との角にあった洋風の看板建築。二階の窓のペディメントの飾りが特徴だ。3軒分の長屋式店舗だろうか。同じ建物に「ツルオカピアノ」が入っている。アオヒ印房は一見、たばこ屋のようだ。写真左の壁を赤く塗った建物は礼華楼という中華料理店。すずらん通りにアーケードがあった頃の写真もあるので下に出しておく。
都市徘徊blog>神保町の洋風建物1』によると2007年初頭には周辺の建物と共に取り壊されたようである。現在は「神保町須賀ビル」(2011年4月築、8階建)という賃貸事務所のビルになっている。上の写真で左端の白い壁の家が須賀楽器店。須賀ビルで今も営業している。



アオヒ印房。1983(昭和58)年9月

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





伊勢屋和菓子、不言堂薬局。千代田区神田神保町2-3
左:1986(昭和61)年9月23日、右:1991(平成3)年6月30日

靖国通りの神保町交差点と専修大前交差点の中間に、三階建ての古い建物の矢口書店がある。その横を南へ入ったところにあった洋風の看板建築。写真右に行くとすぐにさくら通りで、1930(昭和5)年に建った三井住友銀行別館―撮影時は第一相互銀行別館―が建つ四つ角だ。
建物は看板建築の三軒長屋だろう。二軒分を不言堂が使っている。1961(昭和44)年の住宅地図では伊勢屋は「伊勢屋食堂」である。1991年の写真では「建築計画のお知らせ」が張られていて、撮影後まもなく取り壊されたかと思う。現在は1993年に建った中(あたり)質店のビルに替わった。
東京―昭和の記憶―>神保町界隈』に、不言堂の方から撮った写真が載っている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »