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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




大丸屋米店。千代田区神田神保町3-4。2007(平成19)年4月14日

靖国通りにあった九段下ビルの裏。九段下ビルが解体されたのは2012年1月だという。現在では九段下ビルがあった街区(4番地)は2棟のビルの他は建物は撤去されて広い空き地になっている。専修大学が進出してくるのかもしれない。
この辺りは空襲の被害を免れているので木造の古い家は戦前からあったと思われる。大丸屋米店の建物はわりときれいだが、戦前の家を改修して使っているのかもしれない。大丸屋のホームページには「文久元年「つきや惣助」の屋号にて商いを始める…」とあるから東京でも有数の老舗だ。現在はひとつ北の街区(6番地)に移って健在。
大丸屋米店の並びに2棟のトタン貼りの家があった。下の写真左は1969年の地図で「原青果店」、右は「東進商会」。


旧原青果店。神田神保町3-4。2007(平成19)年4月14日

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左:中教出版。千代田区西神田2-3。1987(昭和62)年11月8日
右:蔵。西神田2-1。2006(平成18)年3月31日

中教出版のビルは白山通りと専大通りとの間の通りにあった。写真右奥の建物は区立西神田小学校の体育館で、中教出版の裏は西神田公園。現在のビルは「セントラルユニ東京支社」となっている。
中教出版は『ウィキペディア>教科用図書』の「かつて存在した主な教科書発行者」に入っている出版社だろう。また「主な教科書発行者」に「日本文教出版(美術、図画工作でトップシェア。1996年以降は中教出版(東京)の版権を継承)」ともあるので1996年に廃業したのかもしれない。
右写真の蔵は白山通りの裏手にあった。今はビルに建て替わっている。

2015.05.02追記
『日本近代建築総覧』に次の記載があるのに気が付いた。
「山崎邸倉庫、西神田2-1、建築年=大正5年、2階建、自家設計」
「中教出版(旧東京看護学校)、西神田2-3-16、建築年=昭和12年、構造=RC4階建、設計=山下寿郎、施工=竹田組、地下1階」
写真の蔵が『総覧』の「倉庫」なのか? と疑問ではあるが可能性はある。
中教出版は写真では3階建てに見える。4階は引っ込んでいて見えないのだろうか? 学校だったと言われれば、なるほど、という感じだ。

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サンテ・オレ、丸沼書店。千代田区三崎町2-8。1985(昭和60)年9月15日

白山通りの水道橋駅近くの西側の街並み。現在は写真右の鳳ビル(ハンバーガーのサンテ・オレ)と丸沼書店、その隣の夕文堂古書店が変わらない。鳳ビルは今はメガネスーパーが入っている。写真中央のサンテ・オレから左はビルが2棟建った。日本大学経済学部7号館(2002年竣工)と東京歯科大水道橋校舎新館(2013年7月竣工)だ。
写真の家並みを1986年の住宅地図で見ると、左から写真中央のハンバーグ店まで「むら田(コクヨの看板)、大文堂、路地、日照堂、石井スポーツ、全国学生協会、ニシムラ文具店、サンテ・オレ」。

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桜門ビル。千代田区三崎町2-2
左:1992(平成4)5月4日、右:1983(昭和58)年9月

日本大学法学部図書館の向かい側にある日大通信教育部の先代のビル。建て替わったビルは6階建て、1階は石張り2階以上の壁には茶系の渋い色のタイルを貼って古風に見せた外観だ。あまり階数も高くしないで、先代のビルの面影を伝えようということなのだろうか。
『日本近代建築総覧』では「桜門ビル、建築年=昭和初期、構造=RC4階建」としかない。日大が建てたものなのかどうかも分からない。日大が建てたとすれば、元から校舎ではなく、事務所や校友会―日大の校友会の下部組織を桜友会というらしい―が使うための建物だろう。
この建物を取り上げたサイトに、『廃景録>消えた近代建築>桜門ビル』と『Site Y.M. 建築・都市徘徊>失われた近代建築 in Tokyo >桜門ビル』がある。解体されたのは2002(平成14)年で、現在のビルは2003年12月の竣工という。



桜門ビルの玄関と裏口
左:1995(平成7)年6月25日、右:1992(平成4)年5月4日

玄関に架かっている看板は「桜門ビル」「日本大学法学部校友会」「日本大学通信教育部校友会」と「通信教育部学習センター」の張り紙。



左:1985(昭和60)年8月4日
上:1985(昭和60)年9月15日

桜門ビルの隣は、今のビル(加藤ビル、1987年築、7階建て)が建つ前はキッチン南海と加藤洋服店(テーラー・カトウ)があった。その右の駐車場は1986年の地図で「日照堂専用駐車場」。桜門ビルの1階角が日照堂で、看板に「カレジアンショップ」とある。大学の購買部だろうか。加藤洋服店の正面は戦前の看板建築のようにも見えるが、三崎町は空襲で木造家屋は焼失した区域だ。

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少年画報社ビル。千代田区三崎町3-3。1992(平成4)年6月28日

写真のビルはアパートだろう。ベランダに洗濯物を干している部屋がある。それでも1986年の住宅地図では「少年画報社ビル」。現在の少年画報社ビルとは外観が異なるが、同じ5階建てであり、写真のビルを改装して今でも使っているのではないかと思う。
少年画報社の創業は1945(昭和20)年10月、終戦直後でやはり英会話の本も出したようである。『少年画報』の発行は1948(昭和23)年(8月号)で、1958(昭和33)年が絶頂期で80万部を売ったという。ビルを建てたのは1960年頃だったのかもしれない。
ぼくは少年雑誌は友達に見せてもらうだけだったが、見るのは『少年』が多かった。『少年画報』はたまに見るだけだったと思う。それでも「サボテン君」(手塚治虫)」や「赤胴鈴之介」(武内つなよし)は確かに見ている。

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岩間陶器店。中央区築地2-15。左:1986(昭和61)年8月31日、右:同年11月

晴海通りから平成通りに入ってすぐのところにあったビル。岩間陶器店は、左写真の右端の黒いルーパーのような壁の家が店舗で、晴海通りとの京橋郵便局前(現・築地四丁目)交差点の角にある。4階建ての古いビルはその店の倉庫になっていたらしい。現在は「ミレニアム築地」(2000年5月竣工)という9階建てのビルに替わり、岩間陶器店はそこに入っているが、そのビルの向かいにもビルを建てて「うりきり屋」の名前で店舗を広げている。
岩間陶器店はそのHPによると、1902(明治35)年1月に、日本橋魚河岸に業務用食器の専門問屋として開業した。関東大震災後、魚河岸が築地に移転するのに合わせて当地で再開した。
『東京珍景録』(林望著、新潮文庫、平成11年、667円)に岩間陶器店の倉庫のことが書かれている。二代目社長の話として、「昭和7年に設計され同8年に竣工」「設計といっても、じっさいは藤原武太郎という大工の棟梁と、初代の大旦那が相談して拵えたものらしい」とある。スクラッチタイル貼りの外壁上部の白っぽいものは太鼓腹の布袋様のタイル絵で、「商標」の字が入っている。当書にはそれと判る写真が掲載されている。
消えた近代建築>岩間陶器店』によると、竣工時は2階はバルコニーになっていて、大きな開口部だったらしい。商品をそこから搬入していたのかもしれない。『消えた建築>岩間陶器店ビル』の写真が素晴らしい。

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銭谷自動車工業。千代田区神田淡路町2-7。2006(平成18)年10月25日

外堀通りの昌平橋の南の1本西の裏通りで、現在はワテラス・アネックスのビルが建っている辺りになる。コンクリートの柱が並んでいるのが銭谷自動車工業の整備工場。写真は裏側で、表側は外堀通りに面している。左写真は南方向を見ていて、切妻屋根の3階建ては銭谷自動車の倉庫だろうか。その隣のビルは「淡路町安田ビル」、次の3階建てのビルが「丸善淡路町ビル」。その向かいに、かつて区立淡路小学校があった。
右写真は逆方向を見たもので、奥の4階建てのビルは1986年の地図では月極駐車場だから、わりと最近建ったものだ。そこは「神田シネマパレス」という映画館があった場所で、ぼくは目にしたことがあるのかもしれないが、まったく憶えがない。昭和30年代後半には閉鎖されたされたらしい。
銭谷自動車工業の工場は相当古い建物に見える。昭和22年と38年の航空写真を比べると、写っているのは当然屋根だけだが、どうも同じ建物のように見える。戦前に建てられたものかもしれない。


神鈴荘。神田淡路町2-13
2006(平成18)年10月25日

上の写真の向かい側。手前は民家で、瓦屋根の2階建ては、1986年の地図では「神鈴荘」となっている。緑に覆われているのは淡路町画廊

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淡路町画廊。千代田区神田淡路町2-11
左:1985(昭和60)年7月7日、右:2006(平成18)年10月25日

外堀通りの昌平橋の南、神田郵便局の向かい側の横丁を入ってすぐの三叉路。現在はワテラスとして再開発されて、「アネックス」のビルが建つ。蔵は移築保管が考えられて、再開発工事が進んでいる間も残っていたが、どうなっただろうか。
淡路町画廊・蔵の響きコンサート』には、会場に関して「本の街神田の書籍商により大正6年に建設されて以来、神田の歴史と共にあった建造物です」と説明されている。昭和30年頃の火保図では「大京堂」の倉庫。
内部の様子がYouTubeの『淡路町画廊「蔵の画廊、残そう!」取り壊し直前、移築検討』(2010.01.27)で見ることができる。

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田村信物産。千代田区神田淡路町2-27。2006(平成18)年10月25日

写真左の家が当ブログ前回の二軒長屋。その北側、幽霊坂の道路との角に建っていた家。1986年の住宅地図では「田村信物産㈱」、その右の看板建築は「日栄」(写真では「Vintage Strings」の看板)、右後ろのビルは「四谷大塚進学教室」。左後ろのビルは「小野電業社」。写っている建物は全てワテラスの再開発によって消滅した。
田村信物産は昭和30年頃の火保図に「田村油脂商店」とあり、食用油脂を扱う会社らしい。建物は寄棟屋根とモルタル壁の家に陸屋根の別棟がくっついている。いつ頃に建てられたものかよく分からないのだが、昭和22年の航空写真に写っている家と思われる。



田村信物産。2006(平成18)年10月25日



1枚目写真の左、長屋との間にあった田村商店の倉庫。1985(昭和60)年7月7日

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二軒長屋。千代田区神田淡路町2-27。1985(昭和60)年頃

淡路町2丁目の 淡路町小学校の跡地を核にした「WATERRAS(ワテラス)」の再開発はこの3月に完成する。写真の家は 淡路公園の北側にあったが、再開発で取り壊しになった。一戸建ての貸家のようにも見えるが住宅地図では2世帯の名前が記載されているので二軒長屋になるのだろう。裏にも同じ造りの長屋がある。写真左の路地の奥にも古い家が写っているが、路地の左側も3棟の二軒長屋があったようである。『 ニッポン懐景録>神田淡路町』では、路地の左側の道路に面した家が看板建築風に改装していたことが分かる。



左:2008(平成19)年3月18日、右:2006(平成18)年10月25日



二軒長屋。神田淡路町2-27。2006(平成18)年10月25日

高畠家のはす向かいだが、1-3枚目写真の裏手になる。写真では2棟の平屋の貸家に見えるが、1棟の家で、前だけに屋根までの切り込みが入っている。『 ニッポン懐景録>神田淡路町』の写真をみてもらうのが早い。

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