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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




庄之助。千代田区神田須田町1-8。2007(平成19)年1月4日

今も戦前からの家が点々と残る多町大通りが靖国通りに出る手前にある和菓子店。大相撲立行司22代木村庄之助のご子息が始めた店。店のHPによると、創業は昭和24年9月。「いづみ屋」の店名だったが、庄之助が昭和34年11月場所で引退すると、屋号を「庄之助」と変えて庄之助最中を売り出した。
建物は関東大震災後に建てられた看板建築だろう。HPの「妻の物語」に昭和初期と思える店舗の写真がある。黒っぽい家なので銅版張りだろう。今も家の横の裾の部分にその名残がある。



宮内歯科医院。神田須田町1-6。2007(平成19)年1月4日

靖国通りのすぐ裏手にあったが、現在は取り壊されて時間貸しの駐車場に。昭和30年頃の火保図に載っている。写真左の看板建築の家は現存(1986年の地図では「緑新社」と「大鹿商店(肉店)」)。

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アマノ理容室。神田小川町1-11
2007(平成19)年1月4日

靖国通りの南の裏通りが外堀通りに出るあたりに割と最近まであった銅板貼り、洋瓦のマンサード屋根の3階をもつ看板建築。『日本近代建築総覧』に「天野理容店、建築年=昭和3年、構造=木造」と出ている。
『看板建築』(藤森照信・増田彰久、三省堂、1988年、1500円)に家の間取りが載っている。建坪は10坪。1階は床屋の椅子が4脚の店。2階は6畳と4畳半の居間、3階は6畳の居間の後ろに4畳くらいの板の間。1階の店を人に貸して老夫婦二人で余生を暮らすには適当、といった感じだが、ここに一時は家族5人と職人2人が暮らしたらしい。下町で商売する人の環境は多くがそんなものだったのだろう。
都市徘徊blog>天野理容室(2007.11.22)』では、ドアの脇に貼られた閉店の挨拶を記録している。「…ビル建設のため(2007年)十月三十一日をもって…」。現在は「ローレルアイ千代田淡路町」(2010年12月築、19階建)というマンションが建った。

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林文具店。千代田区神田小川町1-9。1989(平成1)年11月12日

靖国通りの1本南の裏通りが写真左の通りで、写真右へいく通りは靖国通りへ出る横町。林商店は今も健在で、「たばこ・洋品雑貨」の看板をあげている。ほとんどタバコ屋と言っていいようだ。その右の2軒(喫茶店einとテキスタイルの日装株式会社)は取り壊されて3台分の時間貸し駐車場になっている。
写真の3軒は、古い航空写真で見ると戦前築の1棟の家のようである。林商店の外観は戦前の建築のようには見えず、戦後の改装によるものかと思う。



左:ティールーム・フレール、神田小川町1-7。右:琴菊、神田小川町1-9。2007(平成19)年1月4日

靖国通りの小川町交差点のそばの路地裏。フレールの建物は健在で、今は「リサイクルショップりめいん」という店に替わり、家の壁は黄色に塗りなおされている。
琴菊はフレールとは同じ四つ角に向かい合っていた。和食の飲食店だったような外観だが、写真からは営業していないようだ。現在は取り壊されて駐車場に。

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木屋。千代田区神田小川町1-8。1987(昭和62)年9月13日

本郷通りの小川町交差点のすぐ北を東へ入ったところ。銅版張りの看板建築とモルタル塗の看板建築が並んでいる。店は左から、麻雀荘の木屋、桜鍋などの近江食堂、そして本郷通りとの角が深見酒店
木屋の建物は今も健在である。昭和25年頃の火保図に載っている。日大、中大の学生相手に開店したのだろうか。今は袖看板を外し、玄関わきに置かれた看板も出ていないので営業していないのかもしれない。しかし、ドアの「麻雀Kiya」の文字ははっきりしているし、外の鉢植えも手入れがされている。
近江と深見酒店は同じ1棟の建物に見える。現在は「神田小川町東誠ビル」(1991年2月築、11階建)。

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日米商会。千代田区神田小川町2-1。1988(昭和63)年1月15日

靖国通りと本郷通りが交わる小川町交差点の西南の角。写真中央に日米商会ビル、その左に刃物と砥石の菊一文字東京支店、日米商会ビルの右に清雅堂印章店、田沢時計店、伊東歯科医院である。昭和25年頃の火保図では、「赤羽電気店、日米商会/写真、かめや(食堂?)、神沢、田沢時計店、伊東歯科」で、写真の日米商会、清雅堂、田沢時計店、伊東歯科がすでに載っている。
菊一文字はいつのまにか4階建てのビルに建て替わっていたが、2011年1月末で閉店して、現在は寛永堂という京都の和菓子の老舗の小川町店になっている。日米商会ビルは写真ではすでに解体に向けた工事に入っているようだ。9階建ての現在のビルが竣工したのは1989年6月。その右の3軒は今も建物はそのままで、清雅堂、松屋、上等カレー。
日米商会はネット検索で『内桶功一さんの神田の思い出談義(その4)2012.3.2』というサイトが見つかった。それによると、「カメラの日米商会」は、戦前は京橋に本店があつた三栄堂カメラの小川町店。戦後は都心の占領軍施設に近く、米軍からのDPEの客の方が多かったので日米商会を名乗る。やがて日本にはない特殊なフィルム・印画紙などを輸入して、大学や官庁に収めるようになる。特に近くの東京電機大学には頻繁に出入りしたという。現在はビルの運営が主な業務のようだ。

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タムラ帽子店。千代田区神田小川町3-3。1987(昭和62)年1月1日

靖国通りの駿河台下交差点のすぐそばの昭和末の家並み。建物は左から、どうにんしゃパン店、ミカワヤ帽子店(千代田ビル)、竹見屋(画廊・額縁)、タムラ帽子店、崇文荘書店。
現在は写真両端のビルは変わらないが、その間の4棟が「神田小川町トーセイビルⅡ」(2008年4月竣工、9階建)に替わった。
タムラ帽子店は『日本近代建築総覧』に「タムラ帽子店、建築年=大正14年、設計・施工=竹内(大工)」で載っている。
『看板建築』(藤森照信・増田彰久、三省堂、1988年、1500円)に家の間取りが載っている。間口は2.25間だが奥行きは10間と深い。1階は前の半分が店舗、奥に台所や便所、2階は和室が3部屋、3階は前半分が倉庫らしい。著者は店の「ジイさん」から聞いた、家を建てる際に3階建ての図面を警視庁に持っていくと、3階建ては許可できないからマンサール屋根にしろ、と助言された話を書いている。
都市徘徊blog>神田小川町 タムラ帽子店(2006.01.18)』によると、タムラ帽子店は2005年11月に閉店し2006年1月に解体された。当サイトには2005年3月撮影の、店が営業中の写真が載っている。

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優美堂額縁店。千代田区神田小川町2-4。1988(昭和63)年1月15日

靖国通りの小川町交差点の少し西。写真の家並みは、左から、ヴィクトリアスポーツ本館(写真では「Lady’s Sports」)、原久(はらきゅう)洋服店、足立商事、優美堂、ムラサキスポーツヤング館。
優美堂の富士山の看板が目を引く。これがほんとうの看板建築、などとつまらないフレーズが浮かんでしまう。看板の「額縁」の縁の字の編が木編なのが特徴。独自に作成した字なのだろうか。靖国通りの北側は、だいたいが空襲からの焼失を免れているのだが、小川町2丁目の2・4番地は焼失したようである。南の錦町からの火事が靖国通りを超えて延焼したのかもしれない。現在は看板の絵と字がほとんど消えかかっているのに修復する気はないらしい。閉店が危惧される。
原久洋服店はテーラーだから、主に注文を受けて制作する店なのだろう。学校の制服も受注しているから、経営も安定しているのだろう。商店街のサイトに「お茶の水に店を構えて80年」とあった。昭和10年頃の設立である。現在はヴィクトリアと一緒にフィールドクレストビル(10階建、1994年完成)を建てた。

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長崎金物店。千代田区神田小川町3-2。1988(昭和63)年1月15日

前の通りは靖国通りで、写真右の二階建ての建物が平和堂靴店、中央の角のビルは小川町薬局。間の横町を北へ入ると太田姫稲荷神社の横を通るお茶の水仲通り。写真左の茶色の看板建築が長崎金物店。
平和堂靴店(神田小川町2-4)は熱心な顧客が多かったようで、ネット上で閉店を惜しんだ書き込みがいくつも見られる。大正12年創業としたサイトもあった。建物は戦後のもの。10階建ての平和堂ビルに建て替えられたのが1993年9月、閉店したのは2006年3月だ。今はビルの名称も「いちご神田小川町ビル」と変わってしまった。「靖国通りから平和堂靴店の角を入って」というふうにも使われた。
長崎金物店と小川町薬局は昭和25年頃の火保図にすでに出ている。戦前築の看板建築と思われる長崎金物店は、ビルに建て替えられて「長崎商会/かなものや」として続いている。その左の看板建築は撮影時はスキーショップだったらしい。現在も建物はそのまま残っていて立喰寿司の「魚がし日本一」になっている。
写真左端は石田ビルというが、その左の路地を入ると「天心館ビル」がある。『ビル業界四季報第525号』の「株式会社天心館」によると、昭和46年に建てた3階建てのオフィスビルを平成17年に5階建てに建て替えたものだ。天心館は「戦前は江戸川橋牛込天神町にて旅館を経営していたが、戦火で家屋を焼かれ、戦後に現在ビルが建つ神田へと落ち着き旅館経営を再開した。……昭和28年に、「株式会社旅館天心館」を設立、宴会場を兼ね備えた学生向け旅館として経営を行っていた。当時は明治大学や中央大学の「バンカラ」が飲んで騒ぐ活気ある学生街だったという」。1986年の住宅地図の「旅館天心館」という記載は会社名で旅館だったわけではないらしい。

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祝学生会館開館絵葉書カバー、絵葉書表のフォーマット

駿河台にあった中央大学が八王子市の多摩キャンパスへ移転して、駿河台校舎閉校式が行われたのは1980(昭和55)年3月22日だ。当日は雪が降ったそうだ。ぼくは当時まだ古い建物を写真に残そうなどとは思いつかず、自分で撮った写真はないので、1967(昭和42)年に中央大学が発行した絵葉書を紹介する。「学生会館開館」を記念したものだが、この学生会館とは生協などが入った「小川町校舎」のこと。発売したものなのかどうかは知らない。ぼくが入手したのは在学証明書を取ったときに窓口でくれたのだ。以下、説明文の英文は絵葉書の表側から。

中央大学二号館 2nd Building
The oldest building on the campus. Classrooms for the Departments of Law, Economics and Commerce are located in the building.
『日本近代建築総覧』では「中央大学、神田駿河台3-9、建築年=1926(大正15)年〈8月15日〉、構造=RC3階建〈地下1階〉、設計=阿部美樹志、施工=大倉土木」。4階は増築したもので、中央大学公式サイトの年表に「1952(昭和27)年9月14日、駿河台校舎本館4階増築工事(一般教室3、大学院研究室2、一般学生研究室1)落成式・暖房装置竣工式を挙行」とあるのに当たるのではないかと思う。


中央大学三号館 3rd Building
The Auditorium. Built in commemoration of the University’s founding, seating 3,000.
『総覧』では「中央大学講堂、神田駿河台3-11、建築年=1935(昭和10)年、構造=SRC4階建、設計=阿部美樹志、施工=大倉土木」。ゴシック様式の建物は二号館や図書館に合わせたものだろうが、昭和10年に建てられたとは思えない外観だ。ぼくは見ているわけだがまるで覚えがない。関心がないとそういうものなのだろうか。創立50周年を記念して建築された。普通は「大講堂」といったらしい。


左:中央大学四号館、右:五号館
4th Building : Lecture theaters and smaller rooms for seminars.
5th Building : Classrooms chiefly for use by the Literature Department, 32 study rooms for the faculty and language laboratory facilities.
四号館は1964(昭和39)年の4月の竣工。6階建地下1階、大階段教室3・小階段教室4・普通教室25。五号館は同年8月の竣工。10階建地下2階、研究室32・視聴覚教室1・ヒヤリング教室2・普通教室21・図書室1他。


左:中央大学学生会館、上:理工学部校舎
The Students’ Union : Center of campus activity. Club rooms, meeting rooms, a dining hall, the Co-op and the Health Service.
学生会館は小川町校舎のこと。中央大学公式サイトの年表に「1966(昭和41)年6月 30日、学生会館完成(小川町校舎、地下1階・地上6階、延2197.9坪)」「1967(昭和42)年 1月 28日、学生会館入館式を学生会館6階大集会室で挙行」とある。
1978(昭和53)年3月に敷地・建物をトヨタ自動車工業へ売却、今も「トヨタお茶の水寮」として使われている。中央大学の遺構といっていいものだろうか。

Korakuen Building : Classrooms for the Department of Science and Technology. 96 study rooms, 118 laboratories.
理工学部校舎は後楽園キャンパス(文京区春日1)にある。写真の校舎が現在の1号館なら残っているのだが。

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榎本歯科医院。千代田区神田駿河台1-2。1985(昭和60)年2月24日

手前の通りは撮影時では大正海上火災保険本社ビル(現三井住友海上火災保険駿河台ビル)の敷地の西南の角の辺りで、その向かい側である。写真は取り壊しになるのも間近い頃だったらしく、1986年の住宅地図では「神田駿河台ビル(1986年竣工、7階建て)」に替わっている。写真の通りを左にいくとすぐ太田姫稲荷神社があるので、写真左の日本家屋はその宮司の家かもしれない。その奥のビルは馬事畜産会館だが、2003年に会館は中央区新川に移転している。
写真の洋館は『日本近代建築総覧』に「建築年=昭和3年、木造2階建て、設計=宮村次郎(大林組)」と出ている建物。
この洋館は『東京-昭和の記憶->神田淡路町~小川町p2』 に1977年に写された写真が載っている。割と広い範囲が写っている。洋館とNTT駿河台ビルの間に写っている3階建ての家は1977年の地図では「割烹福八」。

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