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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




ドルフィン。台東区鳥越1-31。2005(平成17)年4月9日(2枚とも)

水戸屋紙工の裏の狭い道路。ごく最近の撮影だから現在も家並みはそのままだと思う。写真中央の看板建築は外観から見て関東大震災後の家だと思う。銅板貼りにしている場合が多い形だが、鳥越・小島にはトタンの波板を貼った家も多く見かける。建材として、トタンの波板が昭和の初期にすでにあったのかどうかぼくは知らないが、建てられた当時のものではなく後の改修によるものではないかと疑っている。
写真右の家は1986年の住宅地図に「ドルフィン」となっている家。撮影時も同じ商売なのかどうかは知らない。



1枚目の写真で左のほうに写っている家。住宅になっているようだ。やはりトタンの波板が使われている。平屋の家はパン屋か不動産屋だったような構え。すずらん形の軒灯に注目だ。左の家は町工場だろうか。

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水戸屋紙工。台東区鳥越1-31。1989(平成1)年1月29日(2枚とも)

今回の2枚の写真に写っている建物は全部が今も健全である。入っている会社も変わっていないのではないかと思ってしまうが、勿論それは判らない。
1986年の住宅地図では、写真中央が「水戸屋紙工」、その左、四つ角のところが「東部ファスナー販売ソーコ」。
前の道路は右へ行くと清洲橋通りの佐竹通南口交差点に出る、割と広い通りだ。撮影時ではパーキングメータが通りの両側に設置されていた。現在は歩道ができて駐車できなくなった。


稲生縫製所。鳥越1-30

1枚目の写真で左手へ少し行ったところ。中山ビルと東京YKKビルに挟まれて日本家屋の商家が残っている。この家は『下町残照』(村岡秀男著、朝日新聞社刊、1988年)に載っている。ご主人の談によると「家は昭和3年の建築、仕事は特殊な寸法の白衣を縫っている」ということだ。
「稲生縫製所」の名称は、個人宅のようになるのを遠慮してぼくがかってに付けてしまった。

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富士製本所。台東区小島1-6。1992(平成4)年6月6日

清洲橋通りの佐竹通南口交差点の角に台東小島アパートが建っているが、その北側の横丁である。写真左手はすぐ清洲橋通りで、写真右端の家は古屋歯科医院の裏の家。
富士製本所は建物もそのままで現在も続いている。銅板貼りの家は二軒長屋のようだが、右の家が今も残っている。




上:金岡印刷。小島1-8。1989(平成1)年1月29日
古屋歯科の前を東へ行ったところ。写真左端のビルが台東小島アパートでそのすぐ右に古屋歯科が写っている。写真右の二軒長屋が金岡印刷。写真左のほうで日除けを出しているのが山崎食料店。
現在も写真の家は改装されたりしているがだいたいは残っている。

左:民家。小島1-4。1987(昭和63)年12月31日
2枚目の写真の道を右へ行って、次の交差点との角。現在は建替えられた。

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芳屋印刷。台東区小島1-4。1988(昭和63)年12月31日

古屋歯科医院の前を東へ少し行ったところ。住宅地図では右手前から、三ツ和新建材、芳屋印刷、金の星荘ソーコ、宗像工務店、及川印刷所……。
「金の星社」という大正8年に設立された子供の本の出版社が写真の道路の南側の道路にある。1936(昭和11)年に浅草区小島町に移転してきている。金の星荘というのはその会社の社宅だか倉庫なのだろうか?
現在、ここに写っている古い家はほとんどなくなって、建替えられたり空地のまま駐車場にしていたり、という状態だ。


宗像工務店の右側には路地が通っている。1986(昭和61)年4月6日



金の星荘ソーコがなくなって、路地に向いた宗像工務店の横側が見えている。駐車場奥の看板は「金の星駐車場」。2003(平成15)11月16日

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姫の湯。台東区小島1-6。1986(昭和61)年10月27日

手前は清洲橋通りで、佐竹商店街のある台東3丁目の向かいである。姫の湯の正面入口の写真を撮っておかなかったのが残念だ。
この辺りが低湿地だった大昔は「姫ヶ池」という池があったそうで、そこを整備して三味線掘にしたらしい。銭湯の名前はそれにちなんでいるのだろう。

清洲橋通りの看板建築群。小島1-6。1988(昭和63)年12月31日

清洲橋通り沿いに、姫の湯に並んで看板建築の商店が立ち並んでいる。写真右の家がなくなったが、6軒が今も大通り沿いに残っているのが不思議だ。
姫の湯から右へ。千葉商店(電動工具)、佐々木商店(板金・打抜・建設工具)、ユタカ商店、森貞、民家?、民家?。町工場向けの商店が多いようだ。

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古屋歯科医院。台東区小島1-7。1987(昭和62)年3月8日

台東区小島1丁目は、おかず横丁のある鳥越1丁目の北にある。写真の医院は清洲橋通りから1歩東に入った場所にあった。正面の玄関は、四叉路の隅切りした部分に向いている。四叉路といっても食い違いのある道で、隅切りで三角にしたところが高さに比べて底辺が長い形になっている。昔は清洲橋通りあたりに三味線掘りがあり、そこから鳥越川が東に流れ出ていたという。食い違う道路はその水路に影響された跡なのかもしれない。
『日本近代建築総覧』に「建築年=S4~5、木造2階建て、設計施工=ふくちさくえい、いわゆる看板建築、アールデコ風」として載っている。
棕櫚の木とベランダの組み合わせで南洋の占領地に建てられた司令部のようにも見える。
「むにゅ’sのぉと>すでになくなってしまった建物(2007.02.15)」では、建築関係の職人や棟梁が多く暮らしていた地域なので「ふくちさくえい」氏もそういう一人だったかもしれない、と推定している。

横から見るとかなり平べったい建物だと分かる。1988(昭和63)年12月31日

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日本館。台東区浅草1-24。1986(昭和61)年10月26日

すし屋横丁のほうから六区の映画館街に入っていくと、最初に左手に見える映画館だった。日本館を過ぎてから両側に映画館が立ち並ぶわけで、死角のような場所のせいか、一般的な本などでは日本館の写真をあまり見かけない。
大倉土木(現・大成建設)の設計・施工による昭和3年竣工の建物である。松竹のマークがあるから松竹の所有する劇場なのだろう。ほかの六区の劇場と比べると躯体自体は普通のビルに近いし、装飾もあっさりしている。竣工時もこんなものだったのだろうか。『日本近代建築総覧』の備考に「構成派的」とあるから、正面の立方体を組み合わせたような表現は竣工時のままなのかもしれない。

左:1987(昭和62)年4月4日、右:1988(昭和63)年5月1日

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富士銀行雷門支店。台東区雷門2-16。1988(昭和63)年5月14日

はとバスの通る大通りは浅草通りで、浅草仲見世の入口にある雷門からすぐ西のところ。撮影時の住宅地図では、富士銀行雷門支店から右へ、新谷ビル、三善堂(仏壇)、駐車場、ブラザーミシン。
建物は戦後の建築である。昭和26年頃の火保図には載っているので戦後まもなく建てられたものだろう。同図では「浅草支店」だ。外観は古典様式を簡略化したようにも見え、銀行建築にはまず信頼感を出すという気分の時代だった。
このビルは平成16年2月にオオゼキという食料品中心のスーパーマーケットになった。



北陸銀行浅草支店。雷門2-12。1986(昭和61)年10月26日

前の通りは雷門の前から南に通じている通りで、通称・並木通り。昭和30年頃の建築と思う。昭和26年頃の火保図ではまだ「山屋酒店」になっている。窓枠・付け柱・軒に曲線が使われ、窓も大きくて信頼性より明るく親しめるような銀行というイメージを出した外観だ。

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藍熊ビル。台東区雷門1-5。1988(昭和63)年5月1日

写真右の大通りは浅草通りで、右奥へ行くと厩橋である。写真中央に網をかぶせられた浅草電話局旧館がある。藍熊ビルの後ろは区立田原小学校がある。旧住所の田原町(たわらまち)は写真中央の横丁から左側で、国際通りまでだ。
写っている建物は左から、台東氷業と麻雀まき、波木商店、藍熊染料、岡田実夫商店。


1988(昭和63)年5月1日

藍熊染料のビルは『日本近代建築総覧』に「S2、RC3、設計・施工:島崎組、S49に1F改造」。
藍熊染料はそのHPによると、1818(文政1)年に荒井熊次郎が現在地に「越中屋」の屋号で開業した。染料の老舗だ。明治中期には藍蝋の製造に成功し、「藍熊染料店」と改称している。藍蝋とは「藍染めの布を苛性ソーダなどを加えた液で煮出して藍を回収し、煮詰めて棒状にしたもの」。
1990(平成2)年に現在の8階建てのビルに建替えた。

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NTT浅草電話局。台東区雷門1-4。1986(昭和61)年10月26日

浅草電話局の正面は浅草通り。写真では目立たないが網がかぶせられている。竣工時には塔屋のような階段室の右にも左側の本体の3分の1くらいの幅でビルがあったようだが、写真右のNTT浅草ビルを建設するときに削られたらしい。
『日本近代建築総覧』には「浅草電話局旧館、S4、RC2、設計:東京市?」。大震災後に建てられた他の電話局と共通のデザインで、現在では大塚電話局別館が残っているが、他には知らない。電話局の古いビルが取り壊された後は駐車場になっている。



NTT浅草電話局・西側。1988(昭和63)年5月1日

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