ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
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1943年東京生まれ。定年退職後、年金暮らしの普通の高齢者。「はじめに」に当ブログの内容の説明と自己紹介があります。
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日本医科大学第一病院/飯田橋3丁目
丸の内・麹町
/
2013-08-24 21:30:56
日本医科大学第一病院。千代田区飯田橋3-5
上:1988(昭和63)年1月15日
左:1986(昭和61)年9月23日
目白通りの、JR飯田橋駅のそば(地下鉄東西線飯田橋駅の上)にあった大きな病院。建物は、『日本近代建築総覧』では「建築年=昭和6年(1931年1月)、設計=和田順顕、施工=清水組、地下室付き」である。和田順顕をネット検索したら当ブログの『
日本医師会館(神田駿河台2)
』があって、そこですでに説明してあった。すっかり忘れていた。手抜きだがそこの記述をそのまま書き写しておく。「和田順顕は、ぼくは初めて聞く名前だったが、横浜郵船ビル(昭和11年)の設計者だった。ネット検索すると、銀座にあった足立ビル、品川区上大崎のタイ王国大使公邸(昭和9年)、飯田橋にあった日本医科大学第一病院(昭和6年)、新宿区信濃町にある慶応大学の信濃町メディアセンター(昭和12年)が和田順顕の設計した建物として拾えた」。
日本医科大学第一病院は、1924(大正13)年7月に、当時は「日本医学専門学校」だったが、「付属飯田町医院」として開院した。1926年、日本医科大学に昇格するとともに「第一医院」に改称した。「付属第一病院」の名称は昭和38年かららしい。
外観はスパニッシュの系統だろう。平面は中庭があるV字形。竣工時は左右対称だったようだが、すぐに東側の翼を倍に伸ばしている。昭和50年には中庭の周囲はビルで囲まれてしまっていた。
1997(平成9)年9月30日で閉院した。取り壊しは1・2年後に始まったと思われるが、ぼくは1階だけの姿になっていたのを目にしている。あれはなんだったのだろう? 現在は東京区政会館が建つ。
1989(平成1)年5月4日
コメント (
11
)
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コメント
自治会館建設準備室
(
グズグズ
)
2013-08-25 00:00:00
現物を見た事はありませんが、写真を見るだけで目が覚めるような綺麗で立派な建物ですね。病院は施設や装置が日進月歩ですので昔のままで残るのは容易ではないようです。一階の事務室の部分を残して「自治会館建設準備室」として使っていたと言うのも珍しいですね。「仮称自治会館基本計画」で検索すると写真と経緯を書いたサイトがあります。
>グズグズ様
(
流一
)
2013-08-25 18:08:19
なるほど、特別区協議会(どうい組織なのか知りませんが)の別館になっていたわけですか。1階を残して解体するのなら全部解体してプレハブ建築でも建てたほうが費用は安くすむような気がしますが、東京区政会館建設工事の起工までは、隣接の土地の買収などでそうとうの期間がかかると見たのでしょうね。
私は、会館を東京都の区部の行政を代行する各種団体が入居しているビル、と理解しましたがさすが巨大なものですねえ。
Unknown
(
ちょろ
)
2014-05-02 10:24:56
小学二年生のころネフローゼにかかり、入院しました。3階でしたが、外に都電の走るのが見える部屋で、それを眺めるのが楽しみでした。
部屋は個室で小部屋の付添人の畳部屋もありました。ただ亡くられる人も多かったですね。よく話をした3年生の子供が黄疸を併発したと聞いたときは泣きました。当時は、それで助からないとされていました。
こうして外の高い所からの写真を見ると感無量です。
>ちょろ様
(
流一
)
2014-05-04 10:25:43
小学2年生ともなるとけっこう覚えているようですね。入院の経験は強烈でしょうから当然かもしれませんが。
病院の前を通っていた都電は高田馬場駅前-茅場町の15番ですね。この付近では飯田橋-飯田町一丁目-九段坂下の停留所がありました。
Born Place
(
Tad
)
2016-09-17 17:02:45
私と六つ下の妹はここで生まれました。初めて妹を見に行った時の,窓から差し込んでいた春の明るい光が目に浮かびます。
都電通りをはさんだ向い側に,かつて田中土建工業と云う会社があり,その社長がのちに「コンピューター付ブルドーザー」と呼ばれた宰相で,そのお嬢さん(外務大臣をしたこともありますね)は私と同じ小学校に通っていました。5年違いなので面識はありませんが…。
懐かしい写真をありがとうございます。
>Tad様
(
流一
)
2016-09-19 10:53:30
昭和史はわりと教養書や小説の類を読んできましたが、田中角栄にまでは至っていません。飯田町が土建業を営む本拠地になったことも知りませんでした。ネットで履歴を簡単に見ただけでも、興味がわく人物ですね。石原慎太郎の「天才」で角栄ブームになっていますが、遅ればせながら私もなにか読んでみようと思います。
検索からお邪魔しました。
(
やまやま
)
2018-07-30 18:59:57
この写真を拝見して「ふわぁ〜〜〜〜」と思い出してきたので書きます。。
1979年1月下旬頃から2月頃に掛けて入院していました。
(原因は、二段ベッドから落ちて首をひねってリンパ炎症というもの)
当時は幼稚園年中児が入院したと言うことで、付き添い要員で
山口から叔母が上京するなど、それはそれはの大騒ぎでした。。
建物の思い出ですが、正面玄関から入ると右方向に売店があって、
空き瓶用の木箱に入った牛乳瓶にゲロが入ってたのを子どもながらに覚えています。。
あと屋上は洗濯物が沢山干されていて、総武線(当時はオール黄色)や
(記憶違いかも知れませんが)遠くに高層ビル群(新宿?)が見えました。
入院部屋(耳鼻科)は何階かは覚えていないものの、通りが見える外周側でして、
ベッドの位置から、窓側に1ベッド、廊下側に2ベッドはあったので8人部屋だったと思います。
食事の合図は、看護婦さん?が鉄琴で音楽を奏でて食事を知らせていました。
鳴らしてもらったことがあります。。
お婆ちゃんばっかりの部屋だったので、お見舞いにもらったお菓子などを
よく貰っていましたね。
退院日に流しに落ちていたポピーのつぼみを牛乳瓶に入れていたら
あっというまにオレンジ色の花が咲いたのを覚えています。
あれから40年近く。入院していた子どもを気遣った両親の気持ちを考えると、
感慨深いものがあります。
なお、建物ですが1998年度にはまだあって、四ツ谷東京間を行き来したときに
みていた記憶があります。
>やまやま様
(
流一
)
2018-08-01 10:20:07
やまやまさんが入院したのは5歳くらいの頃のようですが、よくいろいろと憶えておいでですね! 老婦人ばかりの大部屋に一人だけ幼児が入るのなら、注目されたでしょうね。もしかしてやまやまさんもお嬢ちゃん? 「屋上は洗濯物が沢山干されていて」というと、当時は洗濯物は病院内で処理されていたのかもしれませんね。
本文の「すぐに取り壊しが始まったらしいが」の個所は「取り壊しは1・2年後に始まったと思われるが」と訂正しました。
無くなった時代がなつかしい。
(
まりりん
)
2018-08-05 17:12:36
1995年を跨ぐ年末年始に入院しました。駅の近くで便利なのですが駐車場が狭くてちょっと窮屈でした。建物は階段の手すりやドアなどふんだんに木が使ってあって落ち着いた感じでした。昼間は外来で込み合っていたようでしたが、夜になると1階の自販機でドリップコーヒー買うのが楽しみでした。産婦人科でしたが産科は明るい雰囲気でしたが婦人科は深刻な容態が多く、奥まって窓からの景色は建物裏の隙間といった感じで夜はボイラーの音がしていました。クリスマスの小さなケーキ、正月の国旗の立ったおせち。若い先生たちの雰囲気が明るく、意地悪な美人の看護師さんがなつかしいです。
懐かしいです
(
みっきい
)
2018-11-10 00:26:01
とても懐かしい写真、一気に色んな感情がよみがえりました。
兄と私はここの病院で産まれ、その後も母の通院で通っていました。
地下鉄飯田橋の駅から歩いた道。
病院に入ると正面に確か朱色?の階段があり、少し上がると左右に分かれました。手すりは青と緑の間だったような…小さかったので、お城のようで楽しかったです。
私自身も3歳頃と、小学校に上がる前に入院し、3歳の時は看護師さんが帽子(当時は看護婦さんがかぶっていた白の帽子)を作ってくれてワゴンを押すのをちょこっと手伝わせてくれたりした気がします。
通院時は階段下の自販機で紙パックのジュースを買って貰うのが楽しみでした。
亡くなった母との大切な思い出です。
写真を撮って下さっていてありがとうございました。
うわっ! 超懐かしいです
(
こーたろー
)
2024-03-02 00:30:24
すぐ近所に住んでました。
祖母も母もお世話になりました。 あっ、自分も右手骨折のリハビリで通いました。
大戦中、屋上に高射砲があったなんて話も子供の頃聞きましたが…どうなんでしょう?
飯田橋も随分と変わってしましました。 当時を思い出させてくれる写真、感謝です。
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私は、会館を東京都の区部の行政を代行する各種団体が入居しているビル、と理解しましたがさすが巨大なものですねえ。
部屋は個室で小部屋の付添人の畳部屋もありました。ただ亡くられる人も多かったですね。よく話をした3年生の子供が黄疸を併発したと聞いたときは泣きました。当時は、それで助からないとされていました。
こうして外の高い所からの写真を見ると感無量です。
病院の前を通っていた都電は高田馬場駅前-茅場町の15番ですね。この付近では飯田橋-飯田町一丁目-九段坂下の停留所がありました。
都電通りをはさんだ向い側に,かつて田中土建工業と云う会社があり,その社長がのちに「コンピューター付ブルドーザー」と呼ばれた宰相で,そのお嬢さん(外務大臣をしたこともありますね)は私と同じ小学校に通っていました。5年違いなので面識はありませんが…。
懐かしい写真をありがとうございます。
1979年1月下旬頃から2月頃に掛けて入院していました。
(原因は、二段ベッドから落ちて首をひねってリンパ炎症というもの)
当時は幼稚園年中児が入院したと言うことで、付き添い要員で
山口から叔母が上京するなど、それはそれはの大騒ぎでした。。
建物の思い出ですが、正面玄関から入ると右方向に売店があって、
空き瓶用の木箱に入った牛乳瓶にゲロが入ってたのを子どもながらに覚えています。。
あと屋上は洗濯物が沢山干されていて、総武線(当時はオール黄色)や
(記憶違いかも知れませんが)遠くに高層ビル群(新宿?)が見えました。
入院部屋(耳鼻科)は何階かは覚えていないものの、通りが見える外周側でして、
ベッドの位置から、窓側に1ベッド、廊下側に2ベッドはあったので8人部屋だったと思います。
食事の合図は、看護婦さん?が鉄琴で音楽を奏でて食事を知らせていました。
鳴らしてもらったことがあります。。
お婆ちゃんばっかりの部屋だったので、お見舞いにもらったお菓子などを
よく貰っていましたね。
退院日に流しに落ちていたポピーのつぼみを牛乳瓶に入れていたら
あっというまにオレンジ色の花が咲いたのを覚えています。
あれから40年近く。入院していた子どもを気遣った両親の気持ちを考えると、
感慨深いものがあります。
なお、建物ですが1998年度にはまだあって、四ツ谷東京間を行き来したときに
みていた記憶があります。
本文の「すぐに取り壊しが始まったらしいが」の個所は「取り壊しは1・2年後に始まったと思われるが」と訂正しました。
兄と私はここの病院で産まれ、その後も母の通院で通っていました。
地下鉄飯田橋の駅から歩いた道。
病院に入ると正面に確か朱色?の階段があり、少し上がると左右に分かれました。手すりは青と緑の間だったような…小さかったので、お城のようで楽しかったです。
私自身も3歳頃と、小学校に上がる前に入院し、3歳の時は看護師さんが帽子(当時は看護婦さんがかぶっていた白の帽子)を作ってくれてワゴンを押すのをちょこっと手伝わせてくれたりした気がします。
通院時は階段下の自販機で紙パックのジュースを買って貰うのが楽しみでした。
亡くなった母との大切な思い出です。
写真を撮って下さっていてありがとうございました。
祖母も母もお世話になりました。 あっ、自分も右手骨折のリハビリで通いました。
大戦中、屋上に高射砲があったなんて話も子供の頃聞きましたが…どうなんでしょう?
飯田橋も随分と変わってしましました。 当時を思い出させてくれる写真、感謝です。