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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東京大学農学部3号館。文京区弥生1-1。1988(昭和63)年1月30日

東京大学農学部3号館は農学部の中心になる建物で、1941(昭和16)年の竣工、設計は内田祥三(よしかず)、RC4階建て地下1階、中庭を2つとった「日」型の平面の建物。
東大農学部の歴史>農学部の拡充』によると、「昭和12年9月着工、昭和16年5月31日竣工」。昭和16年は12月には太平洋戦争が始まった年で、戦前築の東大の建物では最も遅く完成した建物だと思う。3分割ではあるが横長の窓が、他の内田ゴシックにない特徴かもしれない。
農学部1~3号館は空襲の被害を免れたが、弥生キャンパスは昭和20年3月10日の空襲で木造建物はほとんどが焼けてしまった。池之端のほうから延焼してきたという。当時、第一高等学校だった建物も残っていたが、それは全焼してしまったようだ。1947年の航空写真を見ると3号館は屋上が黒っぽい四角のまだら模様になっている。カムフラージュを施したと思われる。



東京大学農学部3号館、西南角と南側。1988(昭和63)年1月30日



東京大学農学部3号館、東側。2019(平成31)年4月18日

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東京大学農学部2号館。文京区弥生1-1。2019(平成31)年4月18日

東京大学農学部の正門である農正門から弥生キャンパスに入ると、正面奥に農学部3号館がアイストップになった、中央が緑地の通路だ。その緑地に対面して同じ外観の内田ゴシックの建物が正面を向けている。左(北)のほうが農学部2号館。
2号館は内田祥三(よしかず)の設計でRC3階建て地下1階、昭和7年8月着工、昭和11年(1936年)2月10日の竣工である。1号館と同じ外観で、やはり中庭を2か所とった「円」型の平面。1号館の竣工は昭和5年(1930年)2月で、それからだいぶ期間があいている。
2号館竣工の前年、昭和10年(1935年)7月に正式に農学部の住所を駒場から「東京市本郷区向ヶ岡弥生町」に移した。(『東大農学部の歴史>農学部の拡充』参照)

2号館の裏に「農学部2号館別館」が建っている。昭和42年(1967年) 11月の竣工で、「農芸化学科の講座増に対応して建設」ということだ。「分子細胞生物学研究所(1955年)」を西に増築したような感じだ。その分子細胞生物学研究所は戦後築の建物の中では古いほうだ。『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)の巻頭のキャンパスマップは建物名に竣工年がついている。それに農学部の「東別館1953年」という建物が載っている。「生産生物工学研究センター」の北にある木造平屋と見える建物。「環境調整工学研究実験室」の東別館だろうか。

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東京大学農学部1号館。文京区弥生1-1。2019(平成31)年4月18日

農正門から東大農学部に入るとすぐ先に同じ外観の建物が左右に相対している。右(南)が農学部1号館、左が2号館。1号館は『日本近代建築総覧』では「東京大学農学部1号館、建築年=大正15年〈1926〉、構造=RC3~4、設計=内田祥三〈よしかず〉」。『ウィキペディア』では1930年(昭和5年)の竣工としている。1930年とする資料は多いが、『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)は1926年。
「内田ゴシック」の1棟で、中庭を2つとった「円」型の平面。南西部分は1963(昭和36)年に増築されて、「円」が完成した。外観のデザインは工学部1号館や史料編纂所の系統である。どういうことかというと、壁の上部にアーチの飾りがないタイプ。内田ゴシックの特徴である「犬小屋」ポーチが東西の各側面に1か所づつ配置されている。



東京大学農学部1号館、東面。2019(平成31)年4月18日

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農正門。文京区弥生1-1。2019(平成31)年4月18日

東京大学農学部正門を「農正門」というが、略称というよりほぼ正式名称のようだ。門の右、農学資料館の壁についている説明板も「農正門」で、東大が作成したキャンパスマップも同じ。説明板には「農正門は、1935年に農学部が駒場から第一高等学校跡に移転した後1937〈昭和12〉年〈4月〉に創建された。/現在の門は2003〈平成15〉年に木曽のヒノキ材を用いて復元された。」とある。設計は内田祥三(よしかず)。
『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)によると、農学部のキャンパス計画は内田が行い、1号館と2号館の奥に3号館を配置する構図を決め、正門をその中心軸に置いたため、「高陵正門」の位置より少し南に移動させたという。



守衛所、農学資料館。文京区弥生1-1。2019(平成31)年4月18日

門に付属して、同時に建てられた守衛所と農学資料館。農学資料館は車庫だったもの。簡単な小屋なのだが、ネットで見られる内部の写真ではRC造だかSRC造のように見える。農学部1~3号館に合わせてスクラッチタイル貼り。
農学資料館の展示の目玉は忠犬ハチ公の内臓らしい。愛犬家は見たがるだろうか? ハチ公の飼い主として有名な上野英三郎(ひでさぶろう、1872-1925)は農学博士、東京帝国大学教授だった。駒場に通っていたのだろう。

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東京大学第二食堂。文京区本郷7-3。2012(平成24)年4月28日

龍岡門から入ってそのまま北へ向かう構内の通りの突き当りにロータリーがある。そこが「東大構内」というバス停で、都営バスがそこで向きを変える。ロータリーの東側に建っている建物が「第二食堂」で、正面がロータリーに沿って湾曲しているのが特徴。
建物には「東京大学消費生活協同組合書籍部」(本屋と言っていいかと思う)や生協の事務所、トラベルセンターがあって、食堂は奥の2階らしい。
1974(昭和49)年の住宅地図には「学生食堂、学制診療所」、1986(昭和61)年のそれでは「学生ホール(学生第二食堂)」という記載だ。
『日本近代建築総覧』では「東京大学食堂(旧学制会館)、建設年=昭和9年(1934)、構造=RC3階建、設計=内田祥三」。
正面右側は未完成の状態に見える。昭和9年という時点で建設が打ち切られたのだろう。「山」の字の右の鍵型を取り去ったような平面をした建物である。左右対称の平面プランがあったとも考えられる。



第二食堂左翼。2012(平成24)年4月28日

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東京大学附属病院東病棟。文京区本郷7-3。1989(平成元)年10月15日

池之端門の近く、今も残っている東研究棟の東に向かい合っていた建物。1986年の住宅地図では「内科東病棟」という記載。1974年の住宅地図では「東病室(結核)」になっている。病院敷地の東北の角に当たる場所で、結核の病棟として他の病棟とは離して建てたのかもしれない。『ウィキペディア>内田祥三』にある「東大医学部附属病院内科研究棟、現存せず、建築年=1928年(昭和3年)」だろう。
名称から『日本近代建築総覧』の「東京大学附属病院東病室、建築年=昭和2~11年、構造=SRC3階建、設計=内田祥三、施工=Ⅰ期大林組、Ⅲ期KK島藤、Ⅳ期大林組、備考=地下1」になりそうなのだが、分担して施工するような大きな建物ではない。
古い航空写真を見ると「Z」の曲がり角を直角にしたような平面をしていて、出窓のように半円形に飛び出した部分が4カ所あったようだ。
現在は跡地に「看護職員等宿舎(1995年)」と「ドナルド・マクドナルドハウス東大」(病気の子供とその家族の滞在施設。2012年1月運営開始)が建つ。

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東京大学附属病院東研究棟。文京区本郷7-3。1988(昭和63)年11月6日

東研究棟は東大病院敷地の東北、池之端門に近い方にある。『ウィキペディア>東京大学の建造物』に「医学部附属病院臨床研究棟東(旧称:東第二研究棟)1928年完成。設計は内田祥三」としているコの字形平面の建物。1986年の住宅地図では「第二東病棟」と記載されている。1974年の住宅地図の記載が興味深い。北側部分に「(霊安室)」、東側部分に「一階 隔離病室 一階二階 物療内科」南側部分に「二階三階 小児科病室」である。
そうすると『日本近代建築総覧』の「東京大学附属病院内科病室・伝染病室,小児科研究室、建築年=大正15~昭和7、構造=SR3階建」に当たるかと思う。
2015年に建物の中庭に「分子ライフイノベーション棟」(8階地下1階建)という研究棟が建てられた。それを取り囲む東研究棟は保存することになったのだろうか。



東研究棟。1989(平成元)年10月15日

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東京大学附属病院内科研究棟、南側正面
文京区本郷7-3。1988(昭和63)年11月6日

龍岡門から入って構内の通りの一番奥が第二食堂の前のロータリー。その手前に東の池之端門の方へ通りが通じていて、その通り沿いに第一研究棟、内科研究棟、東研究棟の3棟の内田ゴシックの建物が並んでいる。
内科研究棟は1929(昭和4)年に完成したらしい。中庭を持つ口形平面の3階(中央部4階)建て。「犬小屋」と通称されるポーチ(入口)が4カ所ある。ジョサイア・コンドル設計の旧法文校舎に用いられていた意匠で、コンドルへのオマージュだろうという(東大新聞オンライン>内田ゴシックの特徴を見る)。
1974(昭和49)年の住宅地図では、北側部分に「内科講堂、東京大学放射性同位元素総合研究所」、南側部分に「放射線科及内科病棟」と書き入れてある。

2016年に解体され、その跡地に「臨床研究棟A」(2015年Ⅰ期、2019年5月Ⅱ期完成、9階地下2階)が建設された。



内科研究棟、東-北側。2012(平成24)年4月28日

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東京大学附属病院。文京区本郷7-3。2007(平成19)年12月15日

東大病院のファサードは全長250m――南の入口から南側に、1993年に「新外来診療棟」が建って少し短くなったが、その建物もわりと低層でファサードのデザインを揃えている――という巨大建築だ。長く連続するファサードの裏は2棟の建物に分かれている。
中央に7つの尖頭アーチが並んだ車寄せの正面玄関がある4階建ての建物が、現在は「管理・研究棟」という建物。両端に、中庭さらにその奥の病棟への入口(上部にレリーフを施した壁を持つ塔屋のような造り)が付いている。
『日本近代建築総覧』(1980年)に「東京大学附属病院事務局・薬局・外来診療所、建築年=昭和6~9年、構造=RC3階建」とある建物だろう。設計者は勿論内田祥三。



管理・研究棟。1988(昭和63)年11月6日

北側の入口の上の壁に施された浮彫は「長崎時代」。日名子実三(ひなこじつぞう1893-1945)という彫刻家の作品。東京美術学校を首席で卒業、朝倉文雄に師事した。宮崎市平和台公園に「平和の塔」(皇紀2600年の奉祝事業として建てた高さ36.4mの記念碑。八紘一宇の塔)が残る。
南側入り口の浮彫は「医学の診断、治療、予防」は新海竹蔵(1897-1968)という彫刻家による。新海は総合図書館正面玄関の列柱の上と3階ホール壁面に12点の浮彫を施している(『東京大学本郷キャンパス』東京大学出版会、2018年、2800円+税)。



管理・研究棟。左:1988(昭和63)年11月6日、右:1989(平成元)年9月10日

左写真は管理・研究棟の南側入り口を中庭から撮影したもの。
右写真は北側入口を入った中庭で撮ったものと思われる。



第1研究棟。1988(昭和63)年11月6日

管理・研究棟の北の入口から北側の3階建ての建物が、現在は「第1研究棟」。撮影時は裏が駐車場になっていて、そこから撮った東面と「内科講堂」につながる部分。
かつては「内科病室」(『東京大学本郷キャンパス』掲載の1936年の地図)、「内科病棟」(1974年の住宅地図)、「内科研究棟」(1986年住宅地図)となっている。『総覧』の「東京大学附属病院内科病室・伝染病室、小児科研究室他、建設年=大正15~昭和7年、構造=RC3階建」だろう。

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アサミ電工、西京屋。文京区本駒込6-14。1988(昭和63)年11月3日

前の通りは不忍通りで、東洋文庫の向かい側。写真の一画だけ、空襲からの焼失を免れていた。北の六義園と、南の東洋文庫や昭和小学校のRC造の建物が延焼を食い止めたのだろう。
銅板貼り看板建築の二軒長屋の左が「アサミ電工」。看板に「ネオン|電飾|看板|鉄骨」とあり、1977年の地図では「山手ネオン製作所」という社名。
写真右手の二軒長屋は、1986年の地図では「西京屋」としている。2009年11月のストリートビューでは、建物はまだ残っていて「㈲穂積屋添田商店」と硝子戸に書かれている。西京屋も添田商店も事業の内容は不明。
後ろに写っているビルは左から、ハイツ駒込、東京書籍第二ビル、イトーピア六義園マンション。現在はイトーピア六義園(10階建141戸、1979年11月築)が健在。

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