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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




理化学研究所の門。文京区本駒込2-28。1988(昭和63)年11月3日

不忍通りの科研前交差点(現・文京グリーンコート前交差点)のところにあった理化学研究所の門。門の表札は「科研製薬株式会社」。1998年に竣工した文京グリーンコートの建設時に撤去されたと思われる。
『ウイキペディア』によると、理化学研究所(理研)は、1917年(大正6年)に創設された物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行う、日本国内では唯一の自然科学系総合研究所。戦前は理研コンツェルンと呼ばれる企業グループ(十五大財閥の一つ)を形成したが、太平洋戦争の終結と共にGHQによって解体された。1948年(昭和23年)、「株式会社科学研究所」が発足した。1952年(昭和27年)、「株式会社科学研究所(新社)」を設立。旧社は「科研化学株式会社」に改称し、純民間企業となる。これがのちの「科研製薬株式会社」。さらに、1958年(昭和33年)に特殊法人「理化学研究所」が新たに発足している。これが2015年(平成27年)に「国立研究開発法人理化学研究所」と名称変更した。どうもよく分からないが、一応書き写しておいた。
『日本近代建築総覧』には「科研化学K.K.一号館(旧理化学研究所・科学本館)、大正10年、煉瓦造3階建」「同二号館(旧理化学研究所・物理実験室)、大正10年、RC造4階建」「同五号館(旧理化学研究所・機関室)、大正10年、煉瓦造1階建」が載っている。門を撮影したときには、それらの建物はすでに新しい建物に替わっていたと思われるが、写真の門も大正10年に造られたのだろう。
科研製薬の前の不忍通りを江戸川橋―須田町の20番の都電が走っていた。『セピア色の道>都電20系統 上富士前』に、科研化学の前を行く電車を撮った写真(2枚目)が載っていて、科研化学のコンクリート塀が写っている。1枚目写真のレンガ塀は東洋文庫のものだろう。


『大東京写真案内』(博文館新社、1990年、2800円。昭和8年『大東京寫眞案内』を復刻)より
説明文は「理化學研究所 上富士(かみふじ)前にあり、その規模の大きい事はドイツのカイゼルウイルヘルム研究所やアメリカのカーネギー研究所に次ぐ物と云われ、東洋は勿論世界的に其の名を知られている。研究所員數百名、ヴイタミン劑や理研酒の醸造も此処に行はれ、近くに内務省所屬の榮養研究所がある。」

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東京高圧工業。文京区西片2-15
上:1988(昭和63)年10月10日
左:同年3月13日

中山道(国道17号)の誠之小学校前交差点(左上の信号)から西北方向を撮った写真。1986(昭和61)年の住宅地図では左から「N家、K家、東京高圧、ヤマト徽章、明光照明、八木硝子、中村洋服」。煙突は「鏡湯」。1974(昭和49)の地図では「バーバーウテナ、林かさ店、東京高圧工業、新薬レディプレス、KZ家、KS家、中村洋服」という記載。
東京高圧の建物は外観をルネッサンス様式で造った看板建築に見える。ところが昔の航空写真を見ると、パラペットが建物平面の四周を囲んでいるように見え、屋根も平らなように見える。コンクリート造の可能性が出てきた。正面だけでなく左右の横の面もペディメントの飾りを付けた窓を並べている。本格的な洋館なのかもしれない。
看板の「フルガッソン減速機/東圧バリモーター」は商品のことらしく、ガラス戸に「東京高圧工」「業株式会社」と書かれている。
東京-昭和の記憶>中山道 本郷追分~白山上』に、1988年1月と2004年4月撮影の写真が載っている。現在は「アリス西片メゾン」(3階建6戸、2005年3月築)に替わっているから、東京高圧は2004年中に取り壊されたのだろう。



ふみのや食堂。西片2-15。1988(昭和63)年10月10日

1枚目の写真の右に続く家並み。写真左の「テーラ中村」を含む3軒が三軒長屋である。写真右の横丁が西片2丁目と白山1丁目との境になっている。角の家は「定食 ふみのや食堂」と「バー 應」の看板が出ている。「とん平」も同じ建物の横にある居酒屋だろう。この3店は1974(昭和49)の地図でもそのままだ。
640.東京都文京区西片2丁目15 R17号沿い』によると、ふみのや食堂は2005年8月末で閉店したという。2006年2月の写真があり、その写真ではテーラ中村の長屋は取り壊されている。

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東京大学附属病院外科病棟。文京区本郷7-3。1988(昭和63)年11月6日

東京大学附属病院南研究棟の北に建っていた病棟。南研究棟の東北角の辺りから撮ったものらしい。撮影時の状況はすっかり忘れていて、写真の建物がどこにあったのかなかなか分からなかった。1986(昭和61)年の住宅地図には「外科医局棟」、1974(昭和49)年の地図では「神経外科外来」となっている。従って、『日本近代建築総覧』の「東京大学附属病院外科病室、建築年=昭和15年、構造=RC3階建」になると思われる。
『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)に「内田祥三の構想に基づいた病院地区の震災復興は、1940(昭和15)年の外科病棟一部竣工を最後に第二次世界大戦開戦前に終焉した。」とあり、その「一部竣工」の姿というわけだ。外観は内田ゴシックと言われる様式ではなく、病室の前にベランダを設けたモダンなスタイルになっている。
写真左奥が「中央診療棟1」(「新中央診療棟」として1987年竣工)で、写真の病棟のところには、今は「中央診療棟2」(2006年竣工)が建っている。

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東京大学好仁会。文京区本郷7-3。1988(昭和63)年11月6日

南研究棟の裏手にあった建物。写真で判断すると、2階建てRC造の四角い建物が2棟直列に並んでいる。1階は廊下と小部屋でつながっている。プレハブの小屋を屋上に載せて増築していて、その間に廊下を渡している。下の写真は無縁坂の通りから撮ったもので、つまり建物はその通りに沿ってすぐ内側に建てられている。昭和22年の航空写真に写っているので、戦前に建てられたのかもしれない。
1986(昭和61)年の住宅地図では、手前が「好仁会」、奥が「理容・クリーニング・寝具・会議室」、1974(昭和49)年のでは、手前が「好仁会」、奥が「職員食堂・特別調理室一般もOK」という記載。
今は鉄門(2006年5月に再建)を入ると左右の道路になっているが、その敷地となっている。



東京大学好仁会。1988(昭和63)年11月6日

好仁会は「東京大学における医学の教育・研究・診療を支援」するため設立された、としている。たぶん東京帝国大学医学部附属医院の患者への給食の事業を行うための財団法人として始まったと思われる。今は給食の他、売店・薬局・食堂なども運営している。タリーズコーヒー、ドトールコーヒー、ローソンも大元は好仁会の運営になるらしい。

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東京大学附属病院南研究棟。文京区本郷7-3。2007(平成19)年12月15日

龍岡門から東大構内に入って附属病院の方へ行って、右手に最初に現れる建物。附属病院の建物はやはり多くが内田ゴシックと言われる様式で建てられたのだが、この建物はより現代的なスタイルをとっている。「南研究棟」という名称は後に付けられたものらしく、診療室と病室を入れた病院の建物だった。
『日本近代建築総覧』では「東京大学付属病院耳鼻咽喉科・整形外科及神経科病室、建築年=1921(大正10)~1925(大正14)年、構造=RC3階建、設計者=内田祥三/岸田日出刀」。また、1974(昭和49)年の住宅地図では建物右翼(北側)に「老年病教室 産婦人科」左翼に「耳鼻咽喉科病室 整形外科病室」という記載である。
2019年4月に南研究棟は改修され、リニューアルオープンした。「アントレプレナーラボ共用バイオ実験室(シェアラボ)」という施設に替わり、また「健康と医学の博物館」が入った。中庭では飲食もできるようである。



東京大学附属病院南研究棟。1988(昭和63)年11月6日(下も)


建物の外見から設計者は主に岸田日出刀と考えられている。岸田は1922(大正11)年3月に帝大工学部建築科を卒業して、講堂(安田講堂)建築実行部技師嘱託として帝大に入り、やがて内田祥三(よしかず)がひきいる営繕課で震災復興に取り組む。南研究棟は岸田が大学を出たばかりの若い頃の作品である。彼の表現主義への傾倒が出ているのかもしれないが、歴史的な様式建築を避けて合理的な新しい形を実施したものと言えそうだ。
『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)には「曲線を排し垂直線で構成し、3階上部のタイルを縦に貼ってその下にボーダーを流すなど、デ・クラークの集合住宅に似た扱い方である」「岸田日出刀は学生時代からの一連の作風である、合理主義的、垂直、水平の縦の構成を安田講堂にも使ったが、この建物の方が先につくられたのか、若々しく全力投球の感がする建物である。この他に理学部も赤茶色で、岸田は好んでこの色を使った。この色の建物は岸田のモニュメントである」と解説されている。
デ・クラークはオランダで興った「アムステルダム派」という表現主義運動の設計者。「エイヘンハールト集合住宅」(1920年)や「デ・ダヘラート集合住宅」(1922年)には、部分的に、曲線を用いたおもしろい造形が見られる。
南研究棟には曲線は一切ないのだが、龍岡門の「東京大学広報センター」なら階段室の円筒がある。

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東京大学広報センター。文京区本郷7-3。1988(昭和63)年11月6日

東京大学附属病院の通用門のように使われている龍岡門の門衛所のような感じで建っている小さな建物が、今の「広報センター」。『日本近代建築総覧』に「東京大学夜間外来診療所、建築年=大正15年、設計者=岸田日出刀」で載っている建物。
東京大学>広報センター』には「1926(大正15)年1月に建てられた、東京帝国大学医学部附属医院の急病者受付所」「建築様式的にはマッシヴな構成をとる。当初、竜岡門横に急病者受付所(うけつけどころ)として建設された」とある。現在の「東京大学広報センター」の表札の裏には「東京帝國大學附属醫院/急病者受附所」の表札が残されている。
急患受付所としていつまで機能していたのか分からない。内部を改装して広報センターがオープンしたのは1995(平成7)年9月。それ以前は「東大医師会」が使っていたようだ。



東京大学広報センター。1988(昭和63)年11月6日

東京帝国大学の建物を内田ゴシックと言われる様式で統一するという方針が固まる以前の建物なのかもしれない。当時最先端の建築様式を試してみた、という感じだ。表現主義的な風にも見える。下の写真の、水平線を強調したようなデザインは東大付属病院の「南研究棟」(大正10~14年、設計=内田祥三、岸田日出刀)とよく似ている。
写真右の門扉は1994(平成6)年に、門柱の間を広げる工事をしたが、その際撤去された。この時の工事では西側の門柱を移動したが、門衛所も移動したらしい(東京都京大学学内広報No.1405(2010.11.24))。

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ポンプ跡。文京区本郷7-3。2012(平成24)年4月28日

東大安田講堂の前の広場の南、育徳園(三四郎池のある緑地、大名庭園)のふちに残っている散水用ポンプの遺構。『学内広報2016.06』の「育徳園の現在・過去・未来」という記事に、「…異彩を放つレトロな建物は、池の水を吸い上げて構内に潤いを与えんと1928(昭和3)年に設置された撒水用ポンプ施設です。3馬力の電力と趣のある見た目が自慢でしたが、現在は稼働していません」と説明されている。建物自体はモーターポンプを収めた小屋だが、操作はどこでやっていたのだろう? 散水車で構内を回ったのかと思うがどんなものだったのだろう? 水の出るパイプを下に延長すると地面の敷石に丸い穴がある。垂れてくる水を地面に吸収させる穴と思われる。

下の写真は法文2号館の南にある三四郎池に降りていく階段。『育徳園の履歴とあり方』というレポートに、「法文2号館南側擁壁階段。竣工年:昭和9年(1934年) 設計者・施工者:不明」とある。倉庫にしたものだろうか、小屋を造っている。


擁壁階段。2006(平成18)年5月9日

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御殿下記念館。文京区本郷7-3。2006(平成18)年5月9日

御殿下(ごてんした)記念館は東京大学百周年(1977年)の記念事業として、卒業生や経済界から寄付を募り、その約半分の20億円で、東大附属病院の西側向かいのグラウンドの地下に総合体育施設を建設したもの。埋蔵文化財調査が行われ、着工したのは1987(昭和62)年8月、完成は1989(平成元)年1月(『東京大学御殿下記念館につ いて』)。
その後、2010(平成22)年6月に、グラウンドの北西部分に「学生支援センター」(地下1階地上3階建)が竣工している。
キャンパスを散策しているだけでは、御殿下記念館は以前からあったレンガ造りに見える三連アーチの入り口部分のような構造物が残されていて、学生支援センターが新しく建っただけとしか見えない。
その古いエントランス部分は『日本近代建築総覧』に「東京大学運動場下厚生部附属室、建築年=1933(昭和8)年」で載っている建物。『芦原建築設計研究所>東京大学御殿下記念館』によると、内田祥三の設計で、「グラウンドの土留めを兼ねた半地下式の付属屋」「三連アーチの柱頭は、明治期辰野金吾が設計した工部大学校に使われていたものを内田祥三が移設再使用したといわれている」とある。



御殿下記念館。2006(平成18)年5月9日

エントランスに続くグラウンドの北側には売店などが入っていた。1974(昭和49)年の住宅地図には「生協サービスセンター、バーバー、売店」と記されている。
「御殿下」の名称は加賀藩邸の建物に由来する。グラウンドと三四郎池の間の築山には、現在は「山上会館」が建っているが、加賀藩邸だった時代には、庭園を眺める位置にあるから、接待用の御殿があったのだろう。その下にあるから御殿下である。築山は三四郎池を掘った土で築いたものだ。

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東京大学理学部旧1号館。文京区本郷7-3
1988(昭和63)年11月6日

安田講堂の裏側に「新1号館西棟」を新築するために、旧1号館の西側が取り壊されたのは1994年で、12階建ての新1号館西棟が完成したのが1998年2月である。次いで西棟の東に10階建ての「新1号館中央棟」が2005年2月に竣工する。この時点では旧1号館は東側の、元の1/3ほどになってしまっていた。そのまま保存されるのかと思っていたが、2013年12月に取り壊されてしまい、2017年11月には地上6階建ての「東棟」が完成した。
旧1号館は『日本近代建築総覧』では「東京大学理学部1号館、建築年=1916(大正15)年、構造=RC3~4階、設計=岸田日出刀/小野薫」。関東大震災で倒壊した理科大学本館の跡地に建設された。その本館は化学東館のような外観だったらしいから山口孝吉の設計だったと思える。
旧1号館の平面は中庭のある長方形で、4つの角は内側に矩形に切り取って外観に変化をもたらしている。外観は岸田がドイツ表現主義を指向したデザインと言われる。どういうことかというと、『収蔵庫・壱號館>東京大学理学部旧1号館』に述べられている。なお、4階部分は1965年の増築。
小野薫(1903-1957年)はウィキペディアによると、「架構力学理論の研究者であり、難解な構造力学の分野を平易に紹介。戦前は満州で建築教育に携わり、戦後は東京大学および日本大学において後進の育成に当たった」「1926年(大正15年):東京帝国大学工学部建築学科卒業、同大学営繕課」。旧1号館では構造設計を担当したのだろう。
それにしても表現主義の建築物がなくなってしまったのは残念だ。

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東京大学理学部化学東館。文京区本郷7-3。1989(平成元)年10月15日

戦前の東大の建物と言えば、内田祥三(よしかず)による内田ゴシックと言われる建物がほとんどといっていい。レンガ造に見える化学東館は、内田が1923(大正12)年に営繕課長に就任する前の前任者、山口孝吉による一時代前の建物である。
『日本近代建築総覧』では「東京大学化学教室、本郷7、建築年=1916(大正5)年、構造=RC、設計=山口孝吉(東京大学営繕課長)、施工=竹田源次郎、構造設計柴田畦作」。竹田源次郎はたぶん竹田組(現・平塚竹田組)のことかと思う。柴田畦作(けいさく)は『歴史が眠る多磨霊園>柴田畦作』というサイトに略歴が記されていた。岡山県出身。1896(M29)東京帝国大学工科大学卒。後に東京帝国大学工科大学教授となる。わが国において初めて鉄筋建築を研究した人で、応用力学および構造学に造詣が深く、本格的鉄筋コンクリート建築の祖として知られた。京都の七条大橋(大正2年完成、鉄筋コンクリートアーチ橋)は柴田が構造設計を、設計を山口孝吉が担当した。
東京大学理学部>化学東館竣工100周年』によると、東大の建物の中で鉄筋コンクリートを採用した最初の建物。池田菊苗の基本構想をもとに、山口孝吉によって設計された地上2階、地下1階の建物。池田菊苗は当時の理学博士・帝大教授。グルタミン酸ナトリウム(味の素)を発見した人。



2012(平成24)年4月28日

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