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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




アパート。葛飾区柴又1-46。2006(平成18)年5月5日

写真左の通りは、柴又駅と京成高砂駅を結んでいる通りで、京成金町線の西側を平行に走っている。ヤフー地図には「都道307号」の表示があるが、都道307号は普通は柴又街道を指すわけで、ここではその「支線」ということにしておく。写真のアパートは支線の柴又駅のすぐ北で、右へいくと柴又八幡神社。
特に珍しい建物でも無いが、ストリートビューで見ると2009~2013年の間に取り壊され、2015年に現在の新しい店舗付きアパート、「ともよし荘」が建ったので、記録として出しておく。
写真のアパートの店舗は、奥から「婦人服の店 サクラヤ、不明、はり・きゅう・指圧 草間マッサージ院、メガネのまつざわ」。



ストリートビュー、2009年7月より

1枚目写真の左奥は五叉路の交差点。その方からの、ストリートビュー(2009年7月)の画像。歩道の内側に信号がある。「支線」の左側の車に向いているのだが、その車に「注意して進め」と指示しているようだ。支線に侵入してくる他の道路は一時停止になっているので、ほとんど意味が無いと判断されたのか、2015年に撤去されたようだ。

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ETCダンススクール。葛飾区東金町1-17。2005(平成17)年3月20日

JR金町駅から西へすぐの「金町一番街通り」の一つ西の横丁で、その北端。写真右方向が南で駅のほう。周辺は3・4階の小さなビルが多いが、木造2階建てのアパートが残っている。昭和30年代のものだろうか。改修されてはいるが現存していて「さいとう食堂」という東南アジアの料理店になっている。2020年7月の開店という。写真左の駐車場には2014年に3階建の小さなビルが建った。
「金町GINZA」の街灯が立っている。「金町駅前通商店会」のメインの通りは金町駅北口から西へ、イトーヨーカドーへの通りだが、そこから北への横丁も含む。イトーヨーカドーの西にあった三菱製紙の工場跡地に東京理科大学が移ってきたので、2013(平成25)年6月に銀座商店会を「金町理科大商店会」に名称変更した。街灯はそれ以前に現在のものに替えられていたようだが、改めて「金町理科大商店会」の表示の看板に替えられた。
イトーヨーカドー金町店の開業は1973(昭和48)年。「金町自動車教習所」があった場所に建ち、教習所は店舗の屋上に移った。

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金町アパート。葛飾区東金町1-27。2005(平成17)年3月20日

JR金町駅の北口から直線で300mほど北に五叉路がある。その南東角にあった1階が商店の木造アパート。入っている店は「ニューサンワクリーニング店」「寿司正」焼肉の「にくまる」焼鳥の「古里」。右奥が駅の方向だ。街灯には「金町一番街通り」の表示板がついている。写真手前の交差点から理科大学通りに出るまでが「一番街通り商店街」だ。なお「金町アパート」はGoogleマップにあった。
建物は最近建て替わって「オランジェラスⅠ」(2021年2月築、木造2階建7戸)という、アパートになった。同じ規模で外観がきれいになった感じだ。欲張ってビルなどを建てるよりも賢いかも知れない。
写真の建物はいつ頃建ったものなのだろうか? 戦前は金町駅の北側は「大東紡織金町工場」(東京モスリン金町工場が1936(昭和11)年に改称)があるばかりで、あとは水田が広がっていた。大東紡の工場跡地に金町駅前団地ができたのは1968(昭和43)年。団地の西側の、池があったところに家が建ち始めたのはその少し前らしい。1963(昭和38)年の航空写真では、まだパラパラとしか家は建っていなくて、金町アパートもまだである。

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閘門橋。葛飾区水元公園。2003(平成15)年11月26日

閘門橋は水元(みずもと)公園の西北端にある、大場川に架かる古い水門。1909(明治42)年の竣工。大場川が中川に合流する地点に建設された。中川の水が大場川に逆流するのを防ぐ目的である。建設後、大正末期から昭和初期にかけて中川の改修がおこなわれ、蛇行していた箇所をショートカットする形で流路が変わったため、中川の旧流路が大場川に編入された。新たな合流点になったところに1980(昭和55)年に「新大場橋水門」が完成するが、それまでは閘門橋が水門としての機能を果たしていたのだろうか。
建設時の名称は「弐郷半領猿又閘門」(にごうはんりょうさるがまたこうもん)で、煉瓦の上部の壁にその銘板がはめ込まれている。『きまぐれ旅写真館>閘門橋』の解説によれば、「弐郷半(二郷半)」は地名、「領」は利水や水防を目的とした共同体。「猿又」は葛飾区側の地名。「用悪水路」とは用水路と排水路のこと。「閘門」は現在では、2基の水門の間に船を入れて水面の高さを調節して川と川の間を通航できるようにする設備を言うが、昔は厳格な区別などせずに使っていたらしい。
『東京再発見』(伊東孝著、岩波新書、1993年、563円+税)によると、閘門橋が渡している道は旧岩槻街道だという。交通の往来が激しくなり、荷馬車が通れるような橋としても使える立派なレンガ造アーチ橋が東京のはずれに出来たのではないか、という。



閘門橋。葛飾区水元公園。2003(平成15)年11月26日

現在の閘門橋は改修を受けた姿である。『きまぐれ旅写真館』も『東京再発見』でも、その改修が少しやり過ぎではないかと指摘している。ぼくは撮影時にはなにも知らず、明治の完成時のままなのだろうと思っていた。というよりなにも思っていなかった。2体の人形は変に思ったが。
橋の欄干は本来はなく、改修前はガードレールが付けられていたという。現在の欄干は左右でデザインが異なる。実はぼくはそれにも気がつかなかった。普通はありえないわけで、後の改修と分るようにしてあるのだろうか。島のバルコニーも改修時の増築。その島と三郷市の間の煉瓦アーチ橋は修復によるもので、以前はコンクリートの桁橋だった。これについては『東京再発見』は評価している。
これらの改修がいつ行われたのか分らない。『東京再発見』には筆者が見に行ったときは「きれいに整備されできあがってからまだ半年も経ていないピカピカの閘門橋であった」そうだ。当書は1989~91年に『東建月報』という機関誌に連載された記事が元になっている。昭和末から平成初頃、となりそうだ。

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金町浄水場第二取水塔。葛飾区金町浄水場。2003(平成15)年12月14日

金町浄水場の取水塔はレンガ造に見えるので、明治期に造られたのかと思っていた。調べてみると、金町浄水場は「1926(大正15)年8月。当時の南葛飾、南足立、北豊島3郡の12町村を給水区域とする「江戸川上水町村組合」の施設として給水開始」ということで、明治どころか、ほとんど昭和になってから出来た設備だった。1932(昭和7)に東京市に移管された。
上流側のトンガリ帽子の第二給水塔は1941(昭和16)年5月に出来た。この時代で構造がレンガ造というのは考えにくい。RC造レンガ貼りなのかもしれない。外観は第一給水塔に倣ったのだろうか。『東京都水道歴史館>金町浄水場』で、第一給水塔の写真を見ると屋根は平らで、特徴的な上部の飾りはない。また、このサイトには昭和14・15年制作の第二取水塔の写真が載っているが、どういうわけだろう。
ドーム型屋根の第三取水塔は1964(昭和39)年の完成。設備の増強に合わせて、第一給水塔を造り直したようだ。第一水位塔のすぐ下流に造られ、完成後に第一給水塔は取り除いた。第二・第三とも円筒形かと見てしまうが楕円形平面である。
金町浄水場のある住所は「金町浄水場」であることを当記事を書く過程で知った。


第三取水塔。2003(平成15)年12月14日

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江戸川閘門(上流の扉)。江戸川区東篠崎地先。2003(平成15)年12月7日(3枚とも)

旧江戸川の「江戸川水閘門」の閘門のほう。写真左奥が水門で、水門と閘門の間は細い島になっている。水門と閘門が少し離れているのは工事がやりやすかったからだろうか。また、1930(昭和5)年竣工の旧小松川閘門のような飾りはなく、実用一点張りの外観は1943(昭和18)年完成という、工期が戦時中で余裕がなかった現れと見える。
土木建築工事画報 昭和14年6月』の「江戸川水門工事に就て(2)」には「大きさに於いて東洋一」といっている。「閘室は幅16.0m、長100.0m。扉室は鉄筋コンクリート造で径間11.0m扉、本体は中空箱形とし、扉溝、対重孔、通水路、通水扉を設けてある。本体上に高15.0m鉄筋コンクリート造の塔があり、上部に機械室を設けてある。」という構造。



江戸川閘門(上流の扉)。水門から一直線の道路と橋は昭和40年代まで車も通していたらしい。



江戸川閘門(下流の扉)。『江戸川フォトライブラリー>旧江戸川の歴史と風景 江戸川水門と常夜灯』には明治42年(1909年)と大正6年(1917年)の地図に現在の地図を重ねた地図が載っていて、水閘門が旧江戸川の右岸に造られたことが分る。また、「篠崎水門周辺の桜は、日露戦争の戦勝記念として植樹されたのがはじまりで、一時は数百本になったと伝えられています。」とある。写真右の桜はそれを復元したものらしい。


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江戸川水門。江戸川区東篠崎地先。2003(平成15)年12月7日(下写真も)

「地先」とは現地の説明板の水門の設置場所としてあった所在地で、「その場所の近く」という意味。ちゃんとした所番地が決まっていないのである。水門と閘門が並んで造られたので「江戸川水閘門」の名称で言われる。「篠崎水門」とも言われるとか。昭和11年(1936年)6月~昭和18年(1943年)3月の工期で造られた。東京市の要望による内務省が主幹の工事だったようだが、設計者や施工者は分らない。荒川放水路の工事と関連する業者が想像される。
水門の目的は海からの塩水が上がってくるのを防ぐのが第一義で、特に金町浄水場の取水を確保するためらしい。水門には幅10.6m、扉高5mのゲートが5基並んでいる。
昭和45~47年(1970~72年)に地盤沈下とゲートの腐食などに対処するため、ゲートと操作室を改造した。特徴的な操作室はこのときに造り直されたものだ。現在は国土交通省江戸川河川事務所(水門下流左岸にある)から遠隔操作している。



水門と閘門の間の島は、旧江戸川の中州のようにも見えるが、元々は東篠崎と地続きだった土地である。江戸川と旧江戸川の分岐点は水門のすぐ上流にあるが、そこから水門のすぐ下流、江戸川区スポーツセンターの辺りまでは新たに開削した川だ。多分、水閘門の工事が完了してからそこに川を付け替えたのだろう。
河川事務所(旧江戸川左岸)の南にボートの係留所があるが、旧江戸川の旧流の跡である。
土木工事画報 昭和14年5月』に「江戸川水門工事に就て」の記事があり、そこに載っている航空写真で、本来の旧江戸川の流路が分る。

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小名木川(おなぎがわ)排水機場。江東区東砂2-17。1997(平成9)年7月27日

旧中川が荒川に合流する地点に造られた排水機場。旧中川から荒川へ排水している。江戸川区と江東区・墨田区の境界は荒川ではなく旧中川なので、境界上にあるわけだが、住所は江東区になっている。
1969(昭和44)年の竣工。2017(平成29)に「調圧水槽、管理棟及びポンプ棟、ポンプ設備の耐震化、電気設備の耐水化」を行った(東京都建設局>小名木川排水機場)。
写真は平成橋(1994年架橋)から撮ったもの。中央奥の建物が排水機場で、手前に橋がある。橋脚がやたら多いから、ここで排水機場へ流れ込むゴミを止めるための設備かと思う。今は撤去されている。
2005(平成17)年10月に完成した「荒川ロックゲート」は、排水機場の左に、排水機場の水路と平行に建設された。



小名木川水門。江戸川区小松川1。1997(平成9)年7月27日

1枚目写真の左に続く場所で、左に写っているのが小名木川水門。小名木川水門は荒川放水路開削の際に築造された小名木川閘門(1926(昭和元)年完成)を、1964(昭和39)年に水門に造り直したもの。荒川ロックゲートの工事に伴って撤去されたようだ。
「新小名木川水門」が小名木川の隅田川側にある。小名木川水門はなくなってしまったから、いずれは小名木川水門といえば「新」のほうを指すようになるのだろう。

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旧小松川閘門
江戸川区小松川1-1
2009(平成21)年4月15日

荒川と旧中川が合流するところに「荒川ロックゲート」造られた。そのすぐ北に両川に挟まれた丘のような「大島小松川公園 風の広場」という公園があり、そこに「旧小松川閘門」が半ば埋められた姿で残されている。残っているのは旧中川側の門のほう。
風の広場は人工的に盛られたもので、スーパー堤防としてか、出水したときの避難場所になるように造られたものだ。都立大島小松川公園は1975(昭和50)年に防災市街地再開発事業が決定し、1997(平成9)年の開園だが、風の広場は1992(平成4)年に解放されている。閘門が埋められたのはその前年。

荒川放水路(現・荒川)の開削工事に伴い、水位の異なる旧中川・小名木川と荒川放水路の舟運のために建設された閘門(こうもん)。小松川閘門が造られる以前に、すぐ南に「小名木川(おなぎがわ)閘門」(荒川ロックゲートの場所)が造られている。小名木川閘門は1926(昭和元)年の竣工。その頃には旧中川の西側(現江東区・墨田区)が工業地帯として急激に発展してきて、船の通航が激増していた。小名木川閘門だけでは捌けないので、小松川閘門が追加で造られた。1927年4月着工、1930(昭和5)年3月竣工である。
また、荒川の対岸には「船堀閘門」(1930年竣工)が小松川閘門と同様の仕様で造られた。

江戸川区>小松川1丁目の街並み』の1968(昭和43)9月撮影の写真では、小松川閘門と小名木川閘門の両方とも門が1基しか写っていない。小松川閘門の荒川側の口はすでにないので、廃止されている。小名木川閘門は昭和39年に水門に改修されたので、写っているのはそれだ。
『グーグル古地図>昭和38年航空写真』には小松川閘門は写っているので、小松川閘門が廃止されたのは昭和40年頃かと思われる。
2018年10月に東京都都市整備局によって東京都選定歴史的建造物に選定された。江戸川区では初である。これを機に掘り出して全部が見られるようにしたらどうだろう。



小松川閘門。『土木建築工事画報 昭和6年8月号』より。

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崎川橋。江東区木場4-平野4
2003(平成15)年1月5日

崎川橋は(さきかわばし)仙台堀川の、大横川と交わるところのすぐ西に架かるトラス橋。昭和4年(1929)年に架けられ1径間鋼製トラスという形式の震災復興橋である。
割と立派な親柱が付随している。橋のトラスの上や横に付いている街灯と同じデザインの電灯カバーを乗せたレトロな感じの親柱だ。これが昭和4年の架橋時のものなのか疑問がなくもない。昭和50年頃の写真が見られる『歩いて見ました東京の街>補-8』にある1976(昭和51)年撮影の写真を見ると、親柱はごく小さい単純なものが写っている。現在見られる親柱はそれ以降に造り直したものだった。

永井荷風の「深川の散歩」という昭和9年に書かれたエッセイに崎川橋が登場する。荷風は開通して間もない「副砂通(ふくさどおり)」を、冬木弁天を横に見て大横川に達する。副砂通りは今の葛西橋通りだ。葛西橋通りの名称は「昭和59年東京都告示」というからわりと新しい。ちなみに今の葛西橋が架かったのは1963(昭和38)年である。その頃からぼちぼち「葛西橋の通り」くらいのことは言われていたのかもしれない。大横川を渡しているのは茂森橋である。荷風はそこから北へそれて崎川橋を渡ったらしい。「セメント造りの新しい橋」といっているので、茂森橋と間違えているという説もあるが、「わたった時、わたくしは向うに見える同じような橋」が大栄橋と思われる。大栄橋と崎川橋は同じトラス橋だ。荷風は大横川を越えてさらに東進するが、当時は副砂通りとして整備されていたのは横十間川までだったと思う。

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