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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





茂森橋。江東区木場4丁目-東陽6丁目
2003(平成15)年1月5日

江東区を東西に通っている主要道路の一つ、葛西橋通り(都道475号)に架かる橋で、大横川を渡している。1929(昭和4)年に架けられた震災復興橋梁で、葛西橋通りの整備の一環だったと思われる。交通量が多く、地盤沈下にも耐えてまだ頑張っている。
「茂森」は深川茂森町からきている。1703(元禄16)年の起立で、1931(昭和6)年に木場4丁目に編入された。
橋の構造は「ラーメン橋台橋」という形式。『東京の橋』(伊東孝著、鹿島出版界、昭和61年、2200円)で提出している用語で、復興局が考案した、道路側に橋台用地をとらなくてすむ新しいタイプだという。ラーメン橋台橋は、橋台を川の両側に造り、間に主桁を渡す。橋台は水流と舟運のためにアーチ状にくりぬく。
江東区にはトラス橋が多く架けられた。これは水面と橋桁との高さがとりやすいためかと思う。ラーメン橋台橋では中央部は厚い桁だからそれが難しい。現に茂森橋では水面が桁に接する場合もあるようだ。



茂森橋。2003(平成15)年1月5日

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白妙橋。江東区塩浜1-3・4、塩浜2-2・3。2003(平成15)年10月11日

白妙橋は塩浜1丁目と2丁目の間の平久(へいきゅう)運河(平久川)に架かる橋。塩浜1・2は「枝川改修工事埋立地」として大正10年に完成、同11年に深川区に編入された。当時は「浜園町」(深川浜園町、現・塩浜1)と「塩崎町」(深川塩崎町、現・塩浜2)といったが、昭和43年の住居表示制度で「塩浜1・2」となった。昔はここで塩を作っていたかのような地名だが、塩崎町の「塩」と浜園町の「浜」を合わせた地名だ。塩浜の南が枝川1~3だが、枝川町も同時期の埋立て完了、深川区編入だ。
塩浜1丁目には「農林省東京米穀倉庫」(旧深川政府倉庫跡地)が地区の半分を占めていた。米騒動を受けて大正12(1923)年に建てられ、平成13(2001)年に取り壊された。今はマンションが建ち並んでいる。知っていれば撮りに行けたのに、残念でならない。



白妙橋。2003(平成15)年10月11日

白妙橋は1937年(昭和12)に東京市によって架けられた。『特異な構造の鋼下路アーチ橋-海幸橋-について』によれば、前身は木製の桁橋だったが、1936年(昭和11)9月の台風により被災したため、架け替えられたもの。
「設計には当時の東京市土木局橋梁課長の安宅勝や瀧尾達也らが関わっている」「架設は(株)宮地鐵工所により行われている」。構造は「ランガー式補剛タイドアーチ橋」で、築地市場にあった海幸橋と同じ構造で、一回り大きい。
とにかく珍しい構造らしい。『江東区内の橋めぐり>白妙橋』には「構造はランガー・アーチ橋(ランガー桁橋)で、アーチ部とランガー部の接合部のヒンジが桁の上にある珍しいタイプ。(通常はアーチと桁の接合部にあるのが普通)」とある。
「ランガー橋」というのは、桁橋に近い構造で、アーチは補強の役割を受け持つものらしい。

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金町湯。葛飾区金町5-14。2019(令和元)年6月27日

金町末広商店会通りにある銭湯。入母屋破風の伝統的な建築様式の銭湯なので、戦前からある建物かと思ったが、『 REVIEW>レトロ銭湯、金町湯』によると、昭和32、3年頃に火事で焼かれて建て直したもの。創業は昭和18年という。創業時の建物を再現するように建てたのかもしれない。
看板に「サウナ 赤外線 超音波 バイブラ ボディシャワー 麦飯石 浄水セラミック」とある。バイブラとは浴槽の底から気泡が噴き出してくるもの。麦飯石(ばくはんせき)とは石英斑岩の一種で、多孔質で吸着作用があり、ミネラル溶出量が多い。浴用としての利用が盛んに行われ、粒状のものは浴槽やタンクに入れ使用されている(ウィキペディア)。1日使えば後は効果は薄れそうな気がする。



永山薬品。金町4-24。2003(平成15)年12月21日

金町湯と同じ交差点の対角線の向かいにあった薬屋。「薬局」だったのを「薬品」に書き換えたようだ。薬剤師がいないと薬局の名称は使えない。2008・9年頃取り壊されたらしい。今は空き地のまま5台分の駐車場になっている。

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上:毎日新聞金町専売所、左:アサカ薬品
葛飾区金町5-14。2019(令和元)年6月27日

金町末広商店会通りにある金町湯の5軒ほど東に、看板建築風の古い店舗が二軒並んでいる。バラ色?に塗ったトタン張りと思われる家が1970年頃の地図に「毎日新聞金町専売所」とある家。仕舞た屋になって久しい感じだ。
その隣はアサカ(浅香)薬品。今は普通の薬局とは違う感じだが、写真では佐藤製薬のサトちゃんとサトコちゃんが店頭に出ている。1970年頃の地図では「アサカ薬局」で載っている。

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三軒長屋。葛飾区金町5-15。2003(平成15)年12月21日

JR金町駅南口から西へ、JRの線路と平行に伸びている道路が「金町末広商店会通り」という商店街になっている。金町郵便局のところに「金町末広商店会」の看板が街灯に付いているので、そこから先が末広商店会になるようだ。写真のトタン張りの三軒長屋は金町郵便局から230m西へ行ったところにあった。今は取り壊されて駐車場にしている。
真ん中の1軒に「大河原塗装」の看板が出ている。
三軒長屋の右隣に木造二階建てで白い壁のわりと古そうな家がある。近藤医院だった家で、玄関をよく見るとそれらしい名残が見られる。



すえひろ電器。金町5-15。2003(平成15)年12月21日

三軒長屋から西へ3軒目の出桁造りの電気店。末広商店会だからすえひろ電器の店名にしたのだろう。「スエヒロ模型店」という割と大きい模型店も少し駅よりにある。すえひろ電器の家は1970年頃の地図では「東風洋服店」。
看板の「日立チェーンストール」とは日立グループ各社の電化製品を取次・販売する電器店の名称(ウィキペディア)。製品名かと思った。
写真右のビルには2010(平成22)年3月に写真家松山忠徳の「花の写真館・現代万葉歌集の館」がオープンした。

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さかい文具店。葛飾区金町5-24。2019(令和元)年6月27日

写真のカーブしている通りは、今は水戸街道(国道6号)の北の裏通りだが、旧水戸街道である。国道の京成金町線が交差する交差点から西へ250m行ったところの裏。道路がカーブしたところから西へは、新金線(しんきんせん、貨物専用線)の踏切までの650mは直線だ。この辺りには旧水戸街道の北側に沿って、昭和50年頃まで用水路か排水路と思われる堀川があった。カーブは川の跡なのだろうか。池があったためそれを避けたようにも見える。
写真の家は出桁造りの家を看板建築風に改装した商店のようだが、農家の母屋だったのかもしれない。1970年の地図に「さかい文具店」とある。孔官堂の線香の袖看板が残っている。


さかい文具店。2019(令和元)年6月27日



クラブ家。金町5-21。2019(令和元)年6月27日

さかい文具店のすぐ西の向かい側にある1階を店にした木造アパート。空き家のように見える。左の店は「中華料理 餃子の店 クラブ家」。2010年頃に閉店した。真ん中の店はスナックだろうか。右は「スピードドライセンター 金町第五営業所」の看板が残る。
歩道上にマンホールが並んでいる。堀川を暗渠にしたものと分る。

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金町栄通り商店街。葛飾区金町5-36。2003(平成15)年12月14日

京成金町駅のすぐ南の踏切から金町栄通り商店街へ入って南方向を見た写真。JR金町駅と京成金町駅、駅前バスターミナルへの道筋でもあり、人通りの多いところから形成された商店街だと思う。かつては普通の商店街だったのが、最近は飲み屋街のようになってきたという。食品や生活用品をスーパーで買うようになると、そういう個人商店は閉めざるを得なくなる。
写真奥の街灯に「旧水戸街道」の表示がある。水戸街道そのものではなく、その脇道になると思うのだが、国道6号側の入口は旧水戸街道から入ることになる。とにかく江戸時代からある古い道である。



庭付き一戸建て民家。金町5-36。2003(平成15)年12月14日

栄通り商店街の中央辺り。写真左の看板は焼き肉の「平和苑」で、その向かい側にあった平屋の民家。現在は「パレス佳園」(2005年4月築、3階建12戸)というマンションに替わっている。



栄通り商店街南側入口。金町5-26。2003(平成15)年12月14日

手前の道路が旧水戸街道で東方向を見ている。そこから右の国道6号に合流していく地点。旧水戸街道はまっすぐ、国道の歩道となって続いている。
写真左に金町栄通り商店街の入口が開いている。街灯が1本立っているだけで、とても商店街の入口とは見えない。

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古石場住宅(東京市営古石場アパート)
上:4・3号棟、左:3号棟
江東区石切場2-14。1992(平成4)年3月20日

うっかりすると、関東大震災後に建てられた同潤会アパートかと思ってしまうが、東京市が建てた中産階級向けの集合住宅。第1期工事の1~4号棟と浴場・食堂は大震災の半年前、大正12年3月に竣工している。第2期工事の5号棟は大正15年2月の竣工。
ネットで見ることができる資料に「住宅総合研究財団 研究年報No.24(1997)」の『戦前公共集合住宅における住環境形成の分析を通した環境運営計画の構築』という論文があるので、以下、それを参照する。
1~4号棟は鉄筋コンクリートブロック造、5号棟はRC造、いずれも3階建て。設計は東京市。『日本近代建築総覧』には施工者として「島藤建設工業」が載っている。
1・3・4号棟は「2室構成の階段室型住棟」(各階2戸で構成される階段室を1単位としている)、2号棟は「1室構成中心の中廊下型住棟」(各階に共同便所がある)、5号棟は「2室構成の階段室住棟」(2つの階段室からなり,各階4戸の住戸で構成される)の3タイプからなるという。また、各棟の屋上には共同の洗濯場兼物干場がある。
昭和20年の東京大空襲では周辺は焼け野原になり、5号棟に焼夷弾が落ちて1階と3階は丸焼けになったという。昭和28年4月、東京都は建物と土地を居住者に払い下げた。

1999(平成11)年に解体され、2002年7月に「ウエルタワー深川」という35階地下2階304戸のタワーマンションが完成した。



裏の工場跡地から見た2号棟(左)と5号棟。1992(平成4)年3月20日

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四軒長屋。江東区福住1-4
2017(平成29)年10月8日

御舟橋の通りから路地の奥に井戸が見える。さらに奥には木造2階建ての戦前築と思われる長屋があるのだが、手前の木で見にくい場合もある。路地は車が入れる位の幅で、狭い路地ではないのだが、いかにも私的空間だから入りづらい。ちょっと珍しい井戸を見に来ました、という態度で入っていけば気が楽である。井戸が呼び水というわけだ。
井戸の後ろの長屋は四軒長屋(上左写真)。その前まで行くと四軒長屋の奥の向かい側に同じ造りの長屋がある。そちらは三軒長屋(上右写真)。昔の航空写真を見ると元の半分くらいが残って、三軒長屋になっているように見える。
長屋の間の中庭のような空間に立つと、貴重な体験をしている気分になる。

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緑橋。江東区佐賀1-福住1
上: 2002(平成14)年12月30日
左:1991(平成3)年11月10日

大島川西支川の御船橋の一つ上流に架かっている橋。昭和4(1929)年4月に竣工した震災復興橋。「単径間鋼製トラス橋」という形式で、長さ23.0m、幅12.7m。
江東区に多いトラス橋だが路面が下より上がったところにあるから中路式になるのだろうか。また横の桁がないポニートラスという構造らしい。垂直の細い柱のような鋼材はトラスを補強しているのだろうか。その柱の外側にカーブした鋼材がさらに補強しているように見える。これはたぶん補強ではなくて、中路式の路面を支えるための構造かと思える。
元木橋(緑橋の上流)と油堀川(昭和50年頃に埋め立てられた)の千鳥橋(撤去)が同じ構造である。大島川西支川と油堀川が交差する場所に同じ形の3本の橋が架橋されたことになる。

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