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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





渡辺ビル。港区浜松町2-4。1990(平成2)年

JR浜松町駅の西、北に世界貿易センタービルがある街区の南にあった、スクラッチタイル張りの古いビル。角の入り口の表札は「渡邊ビルヂング」だ。『日本近代建築総覧』では「渡辺ビル、港区浜松町1-4-12、建築年=昭和6年(1931)、構造=RC3階建、設計・施工=大林組」となっている。
浅い凹型の平面、冂型のモルタルの窓の縁取り、六角形の穴が開いた屋上の手すりなどちょっと普通でない造りがみられるビルだ。正面入り口は建物のコーナーではなく、東側の北側にあり、その入り口から塔屋までの壁面と屋根に装飾を集中させている。柱型の頂部からは猛獣の首が突き出している。塔屋の屋根は和風で、帝冠様式といえなくもないが地上からはその屋根はよく見えない。
現在、「浜松町駅西口開発計画」(世界貿易センタービルの建て替え)が進んでいて、渡辺ビルは2015年8月で解体された(都市徘徊blog>渡邊ビルヂング)。

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三田演説館。港区三田2-15
2011(平成23)年9月13日

福沢諭吉がspeechを「演説」と訳して門下生数名を率いて研究実践を始めたのが明治6年、翌7年6月に「三田演説会」の第1回演説会を開き、ついで演説会堂を建てた。開館式は明治8年5月1日。当初は図書館(旧館)と塾監局との中間辺にあったが、関東大震災後の大正13年に塾監局を建て直す際、現在地に移築された。[慶應義塾豆百科] No.31 三田演説館)。移築前の写真は、『 Keio Times>塾監局が見つめる歴史』の旧塾監局(煉瓦講堂)の写真にわずかに写っている。
なまこ壁の外観はどうしても蔵に見える。木造、寄棟の瓦葺きで内部は洋風。正面玄関と横に2か所ある出入り口、上げ下げ窓は洋風だ。「擬洋風建築」とも言われる。「当時ニューヨーク駐在の副領事でのちに日銀総裁を務めた富田鉄之助から送られてきた、米国の種々の会堂の資料を参考にして設計された」([ステンドグラス] 慶應義塾草創時代の熱き弁舌がよみがえる 「演説」発祥の場所)。
三田演説館が建っている小丘を「稲荷山」という。三田キャンパスは江戸期は島原藩の中屋敷で、稲荷山はその庭園の築山だったと思われる。お稲荷さんの祠(ほこら)が置かれていたのだろう。

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慶應大学第一校舎、正面中央部。港区三田2-15。2011(平成23)年9月13日

三田キャンパスの中央部に東西に長く伸びている建物が第一校舎。1937(昭和12)年に建った、SRC3階建てだが、1965年に4階が増築された。曾禰中條建築事務所の設計で戸田組の施工。同じ設計者、施工者による明治大正昭和の、時代が異なる建物が固まって建っているわけだ。
建った時代が時代だから装飾もなく四角い箱を寄せ集めたような地味な外観だ。壁から突き出ている付柱の列が装飾の役割をもっているようで、その間の縦長の窓もあって古い建物であることは一目で分かる。





上:第一校舎、正面南側右の部分。2011(平成23)年9月13日
左:第一校舎、北の裏側。2014(平成26)年4月23日

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慶應大学塾監局。港区三田2-15
2014(平成26)年4月23日

塾監局(じゅくかんきょく)は1926(大正15)年9月に竣工したRC3階建て地下1階の建物。曾禰中條建築事務所の設計で戸田組の施工で、そこは図書館と同じだ。ゴシック様式ともいわれるがロマネスクにも見える。パラペットの形から中世ヨーロッパの城郭が連想される。関東大震災後の建築だが大正期の特徴が見えているのかもしれない。
塾監局という部署は大学の総務、人事、経理、管財、入学、教育支援など事務全般を扱う総本部をいうが、この名称は明治初期にはすでに使われていたらしい。そのへんのことは『 Keio Times(特集)>塾監局が見つめる歴史』に詳しい。

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慶應大学図書館。港区三田2-15
上:2014(平成26)年4月23日、左:2011(平成23)年9月13日

1981(昭和56)年12月に図書館新館(三田メディアセンター)が開館して図書館の主な機能はそちらに移ったから、写真の建物は「慶應義塾図書館(旧館)」とするのが正式らしいが、面倒なので単に「図書館」で通す。
慶應大学(慶應義塾)は福澤諭吉が1858(安政5)年10月江戸鉄砲洲(現・中央区明石町、よく知られている「築地」といわれる)に蘭学塾を開いたのが始まり。「慶應義塾」と命名したのは芝新銭座(現・港区浜松町)に校舎を建てた1868(慶応4)年。三田に移転したのが1871(明治4)年である。そして開塾から50周年の記念事業として、図書館が建設された。
いかにも明治の建築らしい煉瓦造、ゴシック様式の建物。2階建ての本館(ホール、記念室、事務室)の右に3階建ての八角塔(泉鏡花展示室)、左の2棟の書庫は軒の低い5階建てで、いづれも地下1階がつく。曾禰中條建築事務所の設計で戸田組の施工。明治45(1912)年4月15日竣工、開館式は5月18日(ステンドグラス>2009年)。
『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、昭和57年、加島出版会、2300円)には「設計は当初、三菱合資会社を退社直後の曾根達蔵に依頼されたが、彼は明治41年、後輩の中条(ちゅうじょう)精一郎とともに曾根中条建築事務所を開設したため、最終案は事務所の作品として中条に委ねられたと言われる。赤煉瓦に花崗岩とテラコッタを交えた華麗なゴシック様式の外観は、記念図書館ということを意識したもので、堅実な作風で知られ同事務所の作品の中ではひときわ目立っている。」とある。



慶應大学図書館。港区三田2-15。2014(平成26)年4月23日

正面左にある2棟の書庫の外側の棟は、昭和2年8月に増築されたものではないかと思う。
東京大空襲ではキャンパスにかなりの被害が出た。5月26日の空襲で、焼夷弾が屋根を突き破って本館内部と屋根が焼失した。書庫の被害は少なかったらしい。1949(昭和24)年には修築工事が行われ、元の姿を取り戻している(ステンドグラス>2012年)。




慶應大学図書館玄関ロビー正面奥、ステンドグラス
2014(平成26)年4月23日

玄関ロビー奥の階段踊り場にあるステンドグラスは、空襲で焼失した後、大竹龍蔵によって1974(昭和49)年に復元されたもの。元のステンドグラスは、和田英作(1874-1959、洋画家)の原画、小川三知の制作。「燦然たる光とともに門を開いてあらわれた、塾章ペンを手にした西洋文明のシンボルである女神を、封建とミリタリズムの象徴である鎧をまとった武士が白馬を降りて迎えているところ。まさに新時代を開かんとする塾の精神をあらわしている」図(ステンドグラス>2009年)、ということだ。
大竹龍蔵は小川三知のもとでステンドグラスを学んだ人。図書館のステンドグラス制作のときはまだ手をだせない身分だったらしいが見てはいたらしい。恩師の作品を復元する決心をしたときは、すでに77歳だった。「3年の工期も終わりに近づき、最後の色調調整の指示を作業員に与えた翌日の昭和49年10月10日、大竹龍蔵は突然この世を去ったのである。完成除幕式は、それから2カ月後の月命日、12月10日に行われた。」





地下室も覗いてみた。2014(平成26)年4月23日

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聖ヨゼフ修道院。港区六本木4-2。2013(平成25)年8月7日

東京ミッドタウンと六本木通りの間の裏通りにあるビル。通り沿いに塀があり敷地の少し奥に建っているので、なにかの会社の本社ビルか、あるいは学校のようにも見える。これが「聖ヨゼフ修道院」、右に写っているのが「フランシスカン・チャペルセンター」で、門の脇の塀に「カトリック フランシスコ会」の看板が出ている。つまりカトリック教会の施設である。
4階建てのビルは昭和30年代に建てられたものだろうか? 事務所ビルにしか見えないが、最初から宗教施設として建てられたらしい。『 Laudate>教会をたずねて』には、「第2次大戦後、六本木の元防衛庁の敷地内にGHQの建物があった。そこで働くアメリカ人兵士たちのために、フランシスコ会のニューヨーク管区から司祭たちが来日し、教会を開いたのがそのはじまりである。……フランシスコ会が来日した当時は、大使を経験したことのある川村氏邸があった」「修道院の一部は、2階建てだった旧川村邸をそのまま使い、増築されている。すでに100年以上経っている木造の建物だが、当時かなり立派な洋館であっただろうと思わせるしっかりとした階段や窓枠の飾りなど、今もその趣を残している」とある。

修道院の周辺は空襲によって焼き払われた地区である。向かいにあった志賀直哉の屋敷も空襲で全焼している。川村邸は自邸や隣家の庭木が延焼を食い止めたのかもしれない。ちなみに、1904(明治37)年にジョサイア・コンドルが麻布三河台町25に自邸を建設しているが、チャペルセンターの向かい側辺りになるらしい。



旧川村邸。左: 2013(平成25)年8月7日、右:ストリートビュー2018年8月より

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西沢電気工業社。港区三田4-1。1990(平成2)年2月11日

桜田通りの三田四丁目交差点の南側。写真左が慶応大正門の方で、桜田通りは写真右の家並みが切れているところで南西の方向へ曲がる。白っぽい壁の看板建築の裏に見えている瓦屋根は大松寺。写真の看板建築の長屋は大松寺の家作なのかもしれない。現在は普通の一戸建て住宅に替わっている。
下の写真は大松寺の南の西蔵院や大聖院の桜田通り沿いの家。2014年の時点で残っていた戦前築と思える古い家だが、今、ストリートビューを見たら、タケナカ理容店の左の「エイト通商」と「つくし」(そば屋?)はなくなっていた。


タケナカ理容店、つくし。三田4-1。2014(平成26)年4月23日

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二軒長屋。港区三田2-16。1990(平成2)年2月11日

三田の慶応大学の南を通る桜田通りの三田四丁目交差点で、後ろのビルは慶応大学の南館。窓が3つ並ぶ看板建築は二軒長屋で、店の看板がないのでしもた屋かもしれない。1982年の地図に1軒を「㈲理科電機工業」としてある。その右のビルの緑色の看板は「中華料理 英龍」。写真左の看板建築風の家は住居だと思う。取り付けられた看板は「三菱銀行」。田町駅のそばの支店を指しているのだろうか?
今、ストリートビューを見ると、写真右のビルはそのまま存在していて「ラーメン二郎三田本店」になっていた。二軒長屋は取り壊されて駐車場になっている。写真左の家は建て替えられていて、海鮮丼の店があったらしいが、2017年9月に「びっくり屋」という八百屋が開店した。

下の写真は1枚目写真の裏手にある酒屋で、現在では建物はそのままで居酒屋として商売をしている。『東京・歩く・見る・食べる会 会員便り>第三十七回 三田・芝の浦編 平成23年11月12日』によると、建物は明治26年(1893)に酒屋として建てられた。平成13年に若干の手直しをして居酒屋にした。隣の津国屋ビルは元は蔵があったらしい。その右の木造の家は津国屋の倉庫。



津国屋酒店。三田2-16。1990(平成2)年2月11日

加賀乙彦の「永遠の都」(新潮文庫で全7冊)という小説に津国屋酒店が登場する。著者の自伝ともいっていいが、小説だから事実通りというわけでもないだろう。著者である少年の、母方の祖父が元海軍軍医の時田利平で、もう一方の主役である。大正2年、三田綱町に時田病院を開業して、発展していく様子が描かれる。北杜夫の「楡家の人々」と通じるところがある。
祖父の実名は野上八十八、病院は「野上病院」。その病院があったところが、桜田通りの三田四丁目交差点の日産自動車のビルから慶応女子高の門にかけてのところだった。津国屋酒店とはごく近所だからそこから酒を買うのは自然である。桜田通りの向かいの「三田北寺町大松寺」は時田家の葬儀が行われたり、病院が空襲で焼け落ちるときの避難場所になった。

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綱町三井倶楽部。港区三田2-3
2011(平成23)年9月13日(他も)

設計=ジョサイア・コンドル、施工=不詳、建築年=大正2(1913)年12月、構造=レンガ造2階建て地下1階。三井財閥の貴賓接待所として建てらた。コンドルの晩年の代表作である。明治43(1910)年に着工して完成まで4年を要した。当初は「三井別邸」と呼ばれた。
鹿鳴館があるようにコンドルは倶楽部建築を得意としたという。綱町三井倶楽部はルネサンス様式を基本に、庭に面したベランダなどにバロック的デザインも取り入れている。外見は石造りのように見え、構造のレンガは見えない。外壁は白色タイル貼りに隅石積み、また、コンドルの新しい試みとして小屋組みには鉄骨が用いられている。日本人建築家ではとても到達できない質の高さを至る所に見ることができる(『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)。
建物の南側には広い庭園が広がっている。本館と同じ台地上にある純英国風の西洋庭園もコンドルの設計。本館が完成後、その隣接地を取得して1919(大正8)年に着工、1922(大正11)年完成(三井広報委員会>三井の迎賓館・綱町三井倶楽部)。

内部の様子は『アクトデザイン凛太郎のブログ>綱町三井倶楽部』に、6回にわたる詳細なレポートがある。




明治末から大正にかけては三井財閥が飛躍的に発展した時期である。明治41年には三池港が開港し三池炭鉱の石炭の輸出量が増大。明治42年には「三井合名会社」(三井銀行、三井物産、三井鉱山などを束ねる持株会社)を設立、「三井慈善病院」を開院。三井合名会社の社長に三井総領家(北家)第10代当主・三井高棟(たかみね)、参事に團琢磨、顧問に益田孝というのがトップの布陣。この背景で綱町三井倶楽部の建設も出てきた。
三井高棟は明治43年に、團琢磨同行で7か月の欧米歴訪をしている。そこで高棟は三井家の迎賓館の必要性を感じた、という話がある。高棟はそもそも建築が趣味で、あちこちに日本建築の別邸を造っている。
大正3年のシーメンス事件、それに関連した「金剛事件」で三井物産の幹部が有罪判決を受けると、再度組織の変更を強いられ、益田が後退し、高棟と團の「名コンビ」の体制で三井財閥は大正期の繁栄に向かう(三井広報委員会>高棟・團の名コンビ誕生)。



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東京地方簡易保険局。港区三田1-4。1990(平成2)年2月11日

建った時は「東京簡易保険支局」、現在は「かんぽ生命保険東京サービスセンター」。1966(昭和41)年の住宅地図には「郵政省/東京地方貯金局/東京地方簡易保険局/三田台郵便局/港電報局三田台分室」。1983(昭和58)年の「港区全図」では「東京地方簡易保険局/三田台郵便局」。
2017年1月30 日に日本建築学会から、かんぽ生命保険・日本郵政・都知事・港区長宛に「「旧東京簡易保険支局およびその敷地」の保存活用に関する要望書」が出されている。取り壊しの計画があるのだろうか。以下、建物に関しては「要望書」と、日本建築学会の後藤治氏の「旧東京簡易保険支局およびその敷地についての見解」を参照した。
東京簡易保険支局は設計=逓信省営繕課(中心の技師は張 菅雄ちょう すがお)、施工=大林組で1929(昭和 4)年 3 月 31 日に竣工した。総工費は435万円。RC3階地階付き、「交差する中央廊下で全体が田の字に分割され、4 つの中庭を設ける」。
建築様式は古典主義に新しく台頭した「アール・デコ」または「セセッション」のディテールが加わった折衷様式。また「ウイーンの郵便貯金局のホール(オットー・ワーグナー設計、1912 年竣工)を彷彿とさせる内部階段吹抜け等が、設計者の西洋近代建築の正確な理解の証左となっている」。
日本に残っている近代建築のなかでも有数の巨大建築である。状態も良好ということなので周囲の環境も含めて、残していく歴史的価値はあるだろう。



正面中央の玄関と三田台郵便局の入り口。1990(平成2)年2月11日



東京地方簡易保険局宿舎。三田1-4。2011(平成23)年9月13日

敷地の西南にある建物。『日本近代建築総覧』の備考に「宿舎あり」とあるので、それということにする。1966(昭和41)年の住宅地図には「官舎 ガレージ」で、1階のアーチはガレージだったのを部屋に改装したらしい。


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