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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




中央冷凍冷蔵庫。中央区築地5-2。2018(平成30)年2月17日

新大橋通りに開いた正門から入ってすぐ左(北)へ開いている広い通路を、正門の通路の上に建てられた立体駐車場(築地市場解体時の地図で「正門仮設駐車場B棟」)の上から撮った写真。写真奥に「東都水産東京工場」、その手前、左が「中央冷凍冷蔵庫」で、その間を左に行くと市場橋門。写真中央のグレーの小さいビルが「妻加工場」。写真右手前は「運送荷扱所」の屋上。



運送荷扱所(第2、第5棟)。2018(平成30)年2月17日

1枚目写真左の建物。左側の第2棟には「中央運送荷扱所」の看板がある。奥の建物は新大橋通りに沿って伸びている「正門仮設駐車場A棟」。新しく(2000年頃?)建てられた立体駐車場。



左:妻加工場、2017(平成29)年7月15日。右:中央冷凍冷蔵庫、2018(平成30)年2月17日

左写真が。1枚目写真の中央に写っている建物で、構内地図では「妻加工場」。刺身のつまを作っているのだと思う。その裏は「加工所(佃権)」を取り壊した跡。
右写真の中央冷凍冷蔵庫の右奥は市場橋門。手前の3階建てのビルは「北側1号事務所」。

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築地市場加工地帯。中央区築地5-2
左:2018(平成30)年2月17日、右:2017(平成29)年7月15日

すでになくなった建物だが、過去形で記述するのは面倒なので、今もあるかのように書いていく。
新大橋通り側の正門を入るとすぐ左(北)に広い通路がある。その角が運送荷扱所で、その先に小さな木造家屋が10棟程密集している一角がある。構内地図に「加工地帯」となっている。
写真の看板を書き写してみると左から、「7号棟、丸玉水産(8号棟)、¬木、東京漬物水産加工食品協同組合、東洋水産」。右端の四角い建物には看板がないが、たぶん東洋水産。
丸玉水産は、場外におでん種・かまぼこ等の練り物を売っている店があるが、その製造工場が市場内の写真の建物なのだろうか?



5号棟、7号棟。左:2017(平成29)年7月15日、右:2018(平成30)年2月17日

加工地帯の北面。左写真の「丸甲境周水産」と「亀和商店」が5号棟、その奥の長屋風の建物が7号棟。7号棟には「北田水産、尾坪フーズ」の看板が架かっている。
いずれも鮮魚を切り身にするような加工をしているようである。



11号棟、蛸加工場。2017(平成29)年7月15日

加工地帯の西面。左写真の左奥にいく通路が5~9号館(魚がし横丁)との間の通路。「丸勇」の建物が11号棟で、3枚目写真の左端に写っている。この会社も鮮魚を切り身にするような加工をしているらしい。
右写真は地図に「蛸加工場」とある建物。左写真の左側の建物。看板は「東京第一蛸加工工業協同組合」。RC造のように見える。多数の電線が屋内に入っていっている(屋内から出ている?)。変電所のような設備があるのだろうか?

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運送荷扱所。中央区築地5-2
2018(平成30)年2月17日

新大橋通りから築地市場正門を入ると、すぐ北に向いた広い通路があるが、その角にある2階建ての建物。「運送荷扱所」という建物名称と、1階では荷物の搬出作業をしている様子から、市場で仕入れた商品を行先別にトラックに積み込んで外へ送り出すための施設かと思われる。2階は運送会社の事務所なのだろう。
建物西側(2枚目写真)の看板は「東海汽船永井扱所、東京都市場運送㈱、東京都中央卸売市場輸送協力会、株式会社両丙平友、中央運送株式会社」、南側(3枚目写真)は「丸発、株式会社東発」。


運送荷扱所。2018(平成30)年2月17日



10号館。2018(平成30)年2月17日

運送荷扱所の奥に並んでいる建物。「魚がし横丁」の1棟である。店は「磯寿司」、その2階に「磯野家」(カキフライが有名らしい)、「富士見屋」(日本そば)、「すしまる」。

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築地市場4号館。中央区築地5-2。2017(平成29)年7月15日

東卸会館の向かいに建つのが「4号館」。水槽が目立つが、4号館の後ろに並ぶ5~9号館も使うものなのだろうか? 4号館には「文房具/包装資材 ㈲かみむら」と「築地のハカリ/㈱築地計機製作所」の看板が見える。裏側には「うまい鮨勘」(築地市場支店)がある。
4号館の右隣は、写真では切れてしまったが、6号棟(共同水産株式会社)。
4号館と6号棟はともに昭和30年頃に建てられて、建て替えられずに残ってしまったという感じだ。




築地市場5~9号館
上:2017(平成29)年7月15日
左:2018(平成30)年2月17日

団地のアパートのように同じ3階建てのビルが並んでいる。「魚がし横丁」になる区域で、1階に飲食店が集まっている。それも主に6号館と8号館に集中しているようだ。
昭和38年の航空写真では同じ位置と大きさで建物が並んでいるが、切妻屋根なので木造2階建ての建物らしい。それらを1970年頃にフロアを増して建て直したものと思われる。



築地市場8号館。2018(平成30)年2月17日

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築地市場4号棟。中央区築地5-2
上(正面):2017(平成29)年7月15日
左(上の写真の左横):2018(平成30)年2月17日

新大橋通の市場橋門から市場に入って、真っ直ぐ海幸橋門の方へ向うと水神社の手前に東卸会館という3階建てのビルがある。写真の建物はそのビルの手前にある。「4号棟」の名称は、市場の建物の壁に貼ってあった喫煙場所を示す地図を見ているが、それに「4号」とある。「4号館」という建物が別にあるので「4号棟」としておく。
昭和30年頃に建てられたと思われる卸売業者や加工所を収める木造2階建ての建物。建物右奥に「三輝株式会社」の看板があるが、1986年の住宅地図には「近藤食品」とある。1979年の地図では「泉久加工所、足立商店、中島水産、近藤食品」の4社。


山原寿司。2018(平成30)年2月17日

東卸会館の裏にある建物。4号棟と同じ時期に建てられた建物のようだ。「山はら」の看板が架かり、鮨の字が書かれた暖簾が見える。
東卸会館を撮るのを忘れた。その1階は「東京いちばステーション」の名前で豊洲への移転を紹介した会場になっていた。かつては1階に「東卸食堂」があった。『春は築地で朝ごはん>東卸食堂』にレポートされている。

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築地市場1号館。中央区築地5-2
2017(平成29)年7月15日

すでに解体されてしまった築地市場(東京都中央卸売市場)を順次記事にまとめていくことにする。後回しにしておくと撮影時の記憶が薄れていって、どこを撮ったのだかわからなくなりそうなのと、ネットの情報も消されていきそうだからだ。写真は豊洲への移転が決まって、2017・2018年にあわてて撮ったごく最近のものが中心である。

写真の1号館は1階に飲食店が入った、4~9号館と共に場内の「魚がし横丁」と名付けられた区域。海幸橋門を入ってすぐ右へ行ったところだ。
飲食店は水神社(すいじんじゃ)の方から、吉野家(牛丼)、禄明軒(洋食)、トミーナ(イタリアン)、茂助(だんご、甘味)、木村屋(喫茶・サンドイッチ)、龍寿司、中栄(カレー)、岩佐寿し、ふぢの(中華)、勢(すし)に、長靴の伊藤ウロコ。

1号館の付近には、右に「D棟」(2階建てのプレハブ? 入居していたのは三輝、藤井商店、富士計器製造、大島屋など)、正面向かい側に「架設買荷保管所特1棟」(少し高くしたコンクリート床に屋根を架けたもの)があった。

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聖路加宿舎。中央区明石町8。1987(昭和62)年9月15日

現在、聖路加ガーデンとなっている街区の南の通りに沿って建っていた聖路加国際病院の看護婦宿舎。昭和38年の航空写真に写っている。昭和35年頃に建ったのだろうか? L字型平面の角に玄関、その奥に階段室があって、その屋根の上に水槽が載っている。その上の避雷針と思われるものの形が面白い。昔の漫画のロボット、あるいはブリキの玩具が頭に付けているアンテナみたいだ。



都職員明石住宅。明石町14。2004(平成16)年11月6日

1枚目写真の右奥へいくと、隅田川の堤防沿いの道路に突き当たる。今は「墨田川テラス」という川沿いの遊歩道に整備された。隅田川に出る手前にあるのが写真左の薄茶色のビルで、「中央区明石町区民館」。集会のための部屋を用意した施設だ。「リサイクルハウスかざぐるま明石町」があるのが特徴。
写真中央が「都職員明石社宅」で、手前のル・コルビュジエ風の建物が玄関ロビーに当たる共用部分、後ろのビルが本体になるのだろうか?
写真右にわずかに写っているのが「警視庁東京水上警察署明石寮」。その左のビルの隙間から隅田川対岸の月島のマンションが見えている。その手前の門の表札は「新明石住宅」で、水上警察署明石寮の裏に建っていた。
現在、都職員明石住宅は広場のような公園に、水上警察署明石寮は建て直している最中かと思う。

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土門拳旧居跡。中央区明石町2。2008(平成20)年11月5日

佃大橋通りを佃大橋へ登っていかずにその下の通りから南へ入る横丁を入った奥、都営明石町アパートの裏に、横丁から西へ入っている路地に沿って戦前に建てられた民家が並んでいた。長屋のように見える家で、実際に二軒長屋式の家もあったかもしれない。同じような外観なので、借家として建てられたと思われる。
横丁から3軒目が土門拳(どもんけん)の住んだ家だったのだが、訪れた日には2・3軒目の家は取り壊されて、更地になってしまっていた。2008年7月、当ブログに「九ちゃんのママ」から情報をいただいてすぐに赴いていたら間に合っただろうか? 
上写真の路地入口の角にあった家は2017年まではあったようだが、今は路地奥の家もなくなって、時間貸駐車場になってしまった。



路地奥の民家。左:2008(平成20)年11月5日、右:2008(平成20)年12月19日

『Cradle(クレドール)』という出羽庄内地域文化情報誌(山形県酒田に「土門拳記念館」がある)の2013年5・6月に「土門拳の肖像」という特集を組んでいて、その年譜に「1938(昭和13)29歳 明石町に転居」「1966(昭和41)57歳 麹町に転居」とあり、土門拳は28年間、明石町で暮らした。
『SPOON』という、やはり酒田・庄内の地域情報誌の2007年11月号に、土門拳の長女で土門拳記念館館長の池田真魚氏(1940(昭和15)年生まれ)のインタビュー記事が載っている。「2階屋の1戸建てなんですけど、落語に出てくる長屋みたいなものですね。1階に6畳と3畳、2階に6畳があって、2階は、土門の書斎兼寝室兼客間なんです。そこに、おばあちゃんと両親と子どもたちが住んでいたんです。」と、明石町の家についても語っている。
土門拳の弟子で堤勝雄という写真家がいる。平泉の中尊寺が出している『関山』という雑誌の平成17年(2005)2月号に「古寺巡礼と中尊寺」という記事を寄せている。氏は昭和38年夏に弟子入りし、明石町の家に住み込みで働いたらしい。撮影依頼の電話受付、撮影の許可依頼、スケジュールの調整、チケット・宿の手配、すべてのマネジメントを任されたうえ、家事までやった。勿論土門が撮影するときは重い機材を担いで助手を務める。「築地明石町の二軒長屋に住む土門邸の一日は……」「二階の書斎兼寝室」「風呂屋の仕舞湯で背中を流し、冷たいミルクコーヒーを一気に流し込んで一日が終わる」などとある。土門家から路地を抜けて鉄砲洲川のあった大通りに出ると、その角に「明石湯」があった。1970年まではあったようだ。

路地の奥の奥の民家。2008(平成20)年12月19日

路地の奥は鍵型に曲がり、そこから両側に4軒ずつの民家が並んでいる。こちらはほぼ(たぶん7軒が)今も残っていると思われる。左の写真は曲がり角までいって覗き込んだもの。これ以上踏み込めない雰囲気だ。

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中央区立第二中学校。中央区明石町1。1987(昭和62)年1月15日

明石小学校の北に隣接していた、大正15年に「京橋高等小学校」として建てられた校舎である。
高等小学校とは1886(明治19)年に尋常小学校(修業年限4年)と高等小学校(修業年限4年)が設置されて以来、制度の変遷があり、明治末には尋常小学校は6年間(義務教育)、高等小学校は2年間となる。尋常小学校を卒業した後、余裕のある家庭の子が高等小学校に進学した。1941(昭和16)年、国民学校令により尋常小学校は国民学校(初等科)に、高等小学校は国民学校の高等科に変わった。

京橋高等小学校の校舎は『東京市教育施設復興図集』(昭和7年、東京市役所編纂、勝田書店発行)によると、施工は竹田組で、工期は大正14年11月2日~大正15年11月25日。学校の創立は明治44年11月で、20学級とある。竹田組は半年ほど先行するが、大正14年6月15日~大正15年8月28日の工期で隣接する明石尋常小学校を建てている。
写真中央の玄関から左は増築による。増築と言っても戦前のことになるだろう。



左:第二中学校・正門、右:東側出入り口。1990(平成2)年1月21日

戦後、京橋高等小学校だった校舎は、区立第二中学と都立京橋高校とで使われた、としてよさそうである。学校の名称や場所が変わっていくので、その点が複雑である。
戦後の学制改革により昭和22年に中学校が発足する。中央区では10校が開校、そのうち京橋地区は「明石中学」「明正中学」「文海中学」の3校。『中央区の地名の由来』を参照すると、明石中は常盤小学校内に開校し、昭和31年に現在の銀座中(銀座8-19)のところに落ち着く。なぜ「明石」なのかが不思議だが、明石小に併設するつもりで名称を決めたら、そこが占領軍に接収されてしまったからだろうか? 接収が解除されたのは昭和28年7月。明正中は明正小学校(新川2-13)内にあった。明正小は昭和21年から26年まで京華小学校(八丁堀3-17)に統合され、校舎は空襲の被災者を収容したらしい。明正中が開校したのは京華小内だったのだろうか? 
文海中学は明石小内に開校、ということだが、当時の明石小は京橋高等小学校だった校舎を使っていたと思われる。以降、区内の小学校に分教場を置き、昭和28年に京橋高校(校舎は旧京橋高等小)内に移転した。
昭和43年に、文海中と明正中が統合して「第二中学校」に、明石中は「第一中学校」になる。1984(昭和59)年に、第一中学校と第二中学校が統合して「区立銀座中学校」になった。文海中→第二中が京橋高等小の校舎だった建物にあったのは、昭和28~59年ということになる。

一方、都立京橋高校はというと、『中央区の地名の由来』によると、「東京市京橋区女子実業学校」(都立晴海総合高校のHPでは「東京市立京橋区女子実業補習学校」)が明治44年に京橋高等小学校に間借り移転してくる。大正7年「東京市京橋区実業補習京橋女学校」と改称。昭和2年「東京市京橋区京橋専修女学校」と改称。昭和7-11年の火保図に「専修女学校/明石町高等小学校」とあり、跡づけられる。そして昭和24年に「都立京橋高等学校」となった。1963(昭和38)年に晴海に移転する。これ以後、京橋高等小だった校舎は文海中→第二中が単独で使用したのだろう。京橋高校は平成9年に、都立京橋商業高校と統合して「晴海総合高等学校」になった。

掲載した写真はすでに第二中学は銀座中学になった後なので、「旧第二中学」が正しい。第二中が出た後は区の施設が入っていた。1986年の住宅地図では「区立築地小学校/区立京橋朝海幼稚園」だが、築地小の建替えのため、一時移ってきていたもの。平成6年1万分の1地形図には「シルバー人材センター」とあった。教室の一つを使っただけかもしれない。2002(平成14)年に解体された。今は、「UR都市機構ラヴェール明石町」(2004年6月築、22階建て199戸)という賃貸マンションが建つ。

建物は佃大橋通りの側が正面だったと思われる。その肝心の面を撮り損ねたようだ。そちらは『廃景録>中央区立第二中学校』および『都市徘徊blog>中央区立第二中学校 』で見ることができる。

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カトリック築地教会。中央区明石町5。1987(昭和62)年1月15日

古代ギリシャの神殿の外観をした教会は珍しい。1927(昭和2)年の完成で、当時の東京大司教(教区長)ジャン・ピエール・レイの要望によるという。構造は木造モルタル塗りで、そのつもりで見ても石造りに見える。門の脇に設置された東京都選定歴史的建造物の説明板(東京都生活文化局 平成8年3月)には「設計者 ジロジアス神父、石川音次郎」とある。この二人がレイ大司教に言われてパルテノン神殿の写真でも見ながら図面を引いたのだろうか?
門と塀も聖堂と同時のものに見える。門柱はイオニア式だがやはりギリシャ建築様式にしている。
書籍の資料やちょっと古い地図などでは建物の名称が「築地カトリック教会」となっている。教会のHPは「カトリック築地教会」なので、それに合わせるようになったということだろうか?



カトリック築地教会。2009(平成21)年12月19日

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