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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




中央区立明石小学校、東棟。中央区明石町1。2009(平成21)年12月19日

建て替わる前の、大正14年建築の明石小学校の校舎は、南に開口部のあるコの字型の平面で、上の写真は玄関のある東側の棟。
復興小学校の中でも、出入り口のアーチ、円柱の柱形、庇のようなパラペットと壁をつなぐカーブなど、外観のデザインに凝った建物だ。日本建築学会が中央区に出した『東京都中央区に現存する復興小学校7校舎保存要望書』(2010年2月)によると、設計の主任技師は原田俊之助(大正5年、東京高等工業学校卒)という人で、中央区の小学校では中央小学校(旧鉄砲洲小)と泰明小学校も担当している。デザイン的特徴として、「断面円形の柱形を外部に見せ、その上部のパラペットがカーブを描いて張り出している点が特徴的で、そのほかにも随所に曲面を用いて、建物の外観全体がきわめて軽快な 造形感覚でまとめられている。とくに東立面は、南側に2 階建ての特別教室を配することで校庭への採光に配慮しつつ、3 階建ての普通教室部分との高さの違いを、両者の間に4階建ての階段室を配することで造形上巧みに処理している。パラペットの曲面と階段室のアーチ形とが複雑に組み合わさるこの部分は、設計者がとくに意を凝らしたところである。復興小学校のなかでも、 表現主義的な傾向が顕著な傑作といえる。」としている。



明石小学校、北棟と西棟。1989(平成1)年10月15日

施工者の「竹田組」は、現在は「平塚竹田組」という神奈川県平塚市にある会社になっている。明治35年に竹田源次郎により創業(中央区銀座)、昭和55年に㈱平塚竹田組に組織変更したそうだ。創業地の「銀座」には、当ブログの「竹田ビル/新富1丁目 」がリンクされている。この建物は『日本近代建築総覧』に「日鉄工業K.K.、中央区新富1-4-8、建築年=昭和2年、木造2階建、設計・施工=竹田組」となっているもの。竹田組の事務所として建てられたらしい。建物横の新富橋を渡れば銀座だから、だれもが知っている銀座としてもかまわないだろう。
竹田組が手掛けた復興小学校を『日本近代建築総覧』から拾い出してみると、佐久間小学校(神田和泉町、昭和8年)、城東小学校(八重洲4、昭和4年)、明石小学校(明石町1、大正14年)、松葉小学校(松ヶ谷1、昭和4年)、浅草小学校(花川戸1、昭和5年)、氷川小学校(赤坂6、昭和5年)、檜町小学校(赤坂8、昭和8年)、四谷第五小学校(新宿5、昭和9年)があった。


明石小学校、西棟と体育館。1989(平成1)年10月15日

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中央区立明石小学校。中央区明石町1。1987(昭和62)年1月15日

明石小学校の建替えに関しては、卒業生や日本建築学会などの保存運動があったが、中央区は「子供の安全で利便性の高い環境」のために強行した。地元の人にしても、古い建物より新しいほうがいいと考えている人が半数以上はいるのだろうと思う。地域の歴史に関心を向ける人も、また少数派ではないかと思う。ぼくは不便な環境で勉強するのも、いろいろな対応力が身に付くのではないかという気がする。
明石小学校のHP の沿革を見ると、昭和50年頃からまめに改修や塗装工事などをおこなっていて、建て替えなどは考えていなかった様子がうかがえる。いったん改築の計画がもちあがると止められないのかもしれない。
旧校舎の取り壊しは2010(平成22)年9月に始まり、11月末には更地となった。5階建ての新校舎が完成したのは2013年1月。



明石小学校、正門と玄関。1989(平成1)年10月15日

校舎は『日本近代建築総覧』では「明石小学校・幼稚園(旧東京市明石尋常小学校)、建築年=大正14年、構造=RC3階建て、設計=東京市、施工=竹田組、「東京市教育施設復興図集」による」。その『東京市教育施設復興図集』(東京市役所編纂、昭和7年)では、起工:大正14年6月15日、竣工:大正15年8月28日。総工費は458,236円。

昭和25年頃の火保図では「Deterch Ment」という記載で、北に隣接していた「区立第二中学校」が「都立京橋高等学校」と「中央区立明石小学校」となっている。米軍に接収されていたらしい。『図説占領下の東京』(佐藤洋一著、河出書房新社、2006年、1600円)では、「Patients Mess (49th Gen Hosp)、東京陸軍病院付属施設」で、接収日の記載はないが昭和28年7月14日に返還されている。



明石小学校、玄関ホールとそこからの廊下。2009(平成21)年12月19日

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関家、小川屋酒店。中央区佃2-5。1989(平成1)年10月29日

清澄通りの相生橋に近い新佃島交差点を西へ入り、その横丁の突き当りに近い辺り。写真右手が清澄通りの方向。1986年の住宅地図では瓦屋根が関家、看板建築風の家が小川屋酒店、4階建てのビルは当地図ではまだ駐車場だ。後ろのビルの塔屋に「NKK」とあるのは「日本鋼管佃島社宅」。
昭和22年の航空写真を見ると、この周囲は家がないか、建ち始めたばかりのように見える。空襲の被害はなかった地区だから、建物疎開が行われたのかもしれない。ただし、昭和22年の航空写真には写真の日本家屋と思われる家が建っているように見える。取り壊しを免れたのか、戦後いち早く建てたものなのか……。小川屋酒店は戦前からある店。写真ではしもた屋に見える建物の左側は「小川薬局」だった。
現在では写真の家並みは右端のビルを除いて、3棟のマンションが建ち並んでしまった。すなわち、「リバーシア佃」(2004年12月築、7階建12戸)、「ニューシティアパートメンツ月島」(2005年7月築、8階建36戸)、「スカイコートパレス月島」(2015年6月築、8階建24戸)。そして日本鋼管の社宅のある一画は「ザ・クレストタワー(月島)」(2004年9月築、32階地下2階建て387戸」が建つ。

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佃1-9の家並み。中央区佃1-9。1989(平成1)年10月29日

佃堀の東にある100×34mの矩形の町域が佃1丁目9番地。その中心、細い路地の中に佃天台地蔵尊がある。写真は東側に向いた家並みで、西側は佃堀に向いていて、当ブログ前回の2枚目の写真がそれ。長屋やアパート形式の家もあるようだが、ほぼ1戸建て住宅が7・80軒、ぎっしりと立ち並び、7本の路地が東西に通じている。戦前に建てられた家がまだ半分程度残っているようである。
明治中期に埋め立てられて造成された新佃島や月島とは異なり、江戸時代からある土地だ。写真の通りから右側は海だったわけで、かつては漁師町だったのだろう。現在では築地魚市場に勤める人が多いという。商店はほとんど見られない。上の写真では「大吉」という居酒屋らしいのとその何軒か先にミスパーマ松本の緑の日よけが見えるだけだ。写真中央の家の後ろの大木が佃天台地蔵尊の銀杏の木。



大吉。1989(平成1)年10月29日



民家。2005(平成17)年3月25日

ストリートビューを見ると、2枚目写真の「大吉」の看板を出している家は建て替えられている。その右の家が上左写真で、これも建て替えられて「今昔きものわかば」という店になっている。そこから1軒おいて佃天台地蔵尊入口の家で、これは現存している。

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佃堀河岸の網干場。中央区佃1-8。1989(平成1)年10月29日

佃堀の南端あたりから撮った佃堀沿いの道路。水面が写ってないが、小屋や物干し場の裏がすぐ佃堀である。小屋は漁具をしまう物置で、洗濯物を干してあるところは元々は網を干す場所だったはずだ。昭和の時代までは漁村としての面影を残していたのだが、現在は下の写真のように、ただの広場のようになっている。佃堀を囲むように「佃堀広場」という公園ができたわけだ。
写真左端に写っている掲示板は今も同じ位置にあると思う。写真右端に写っている銀杏の木は波除稲荷・於咲稲荷(おさきいなり)境内のもの。



佃堀。写真左の社が波除稲荷神社。その左手に隠れるように於咲稲荷神社の社が並んでいる。
佃1-8。2005(平成17)年3月25日



佃天台地蔵尊入口の民家。佃1-9。左:2005(平成17)年3月25日、右:1989(平成1)年10月29日

2枚目写真中央に写っているパラペットのある家とその左の家。その間の隙間のような路地を入ると佃天台地蔵尊の社があり大きな銀杏の木も生えていて、なんとなく楽しいスポットである。佃堀側の入り口にある2棟の古い民家は現存するが外壁などを改装した。銅板張りのパラペットのある洋風の家は、2階の窓ガラスが替えられて木の桟ではなくなり、戸袋がなくなってしまった。1階の小さな窓は古い木の桟のまま残してある。

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渡し舟船着き場前の民家。中央区佃1-2。1988(昭和63)年1月17日

写真の通りは右へ行くと佃川支川(佃堀)に架かる佃小橋がある通りで、写真左の家は隅田川沿いの通りとの三叉路の角にある。その三叉路の隅田川べりには「佃まちかど展示館」という小さな施設が平成24年に開館した。そこが佃の渡しがあった場所で、船着き場は隅田川に張り出した桟橋を横向きに造っていた。コンクリート堤防はなく、1964(昭和39)年に佃大橋の開通で渡し舟が廃止された後に堤防が築かれたことになる。展示館の横に小さな「佃島渡船」の石碑がある。以前あった場所からは展示館の建設により、少し動かされている。その説明版によると、「(佃の渡しは)大正15年東京市の運営に移り、昭和2年3月、無賃の曳船渡船となった。 この石碑は、この時に建てたものである」。
写真の通りは写真右端の山本菓子店の先からいくらか狭くなるが、そこまではかなり広くて広小路のような感じである。昔からの幅なのだろうか? 東京都の無形文化財である盆踊り(念仏踊り)が行われる場所として、昔から確保されていたのかもしれない。
写真の景観はずっと変わらないように思っていたが、そうはいかず、角の二軒長屋と出桁造りの佃屋酒店の間にあった2軒の民家が建て替わった。



佃屋酒店、山本菓子店。佃1-2。1989(平成1)年10月27日

1枚目写真の右端から逆方向を撮った写真。山本商店は駄菓子屋。リバーシティ21などの超高層マンションに住む子供もやってくるのかもしれない。創業100年以上としているサイトもある。佃屋酒店は戦前に建てられた出桁造りの家で、昔からある店のようだ。山本商店の建物は戦後に建て替えたものだろう。昭和20年代の火保図では、「大塚酒店」と「荒物S〈店〉山本」。

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佃大橋から。中央区佃1-3。1988(昭和63)年1月17日

佃島といえば佃煮で、佃島の隅田川沿いの通りに、江戸期から続く老舗が3軒、店を開いている。すなわち、佃源田中=1843(天保14)年創業、天安=1837(天保8)年創業、丸久=1859(安政6)年創業の3軒。
佃源田中はビルに建て替わってしまい、旧店舗の写真を撮っていなかったのだが、佃大橋から写した写真に写っているので掲載する。写真右のビルの左がそれだが、店先がどんなものなのか分からない。現在の店舗部分は旧建物を復元しているのかもしれない。写真中央の出桁造りの家が天安。写真左端の切妻屋根が丸久。丸久は2009年に建て替えられた。



天安。佃1-3。1988(昭和63)年1月17日

『東京建築回顧録Ⅱ』(読売新聞社編、読売新聞社、1991年、1700円)によると、建物は昭和7年、3代目店主のときに建てたものだが、外観は創業時のままという。二階の和室に佃島のかつての漁業風景を描いた豪華なすかし彫りの欄間がある。一階奥の工場は15畳ほどの広さ。創業以来の秘伝のタレは、関東大震災の時には何本ものとっくりに詰め、漁師に頼んで沖まで運ばせて守ったという。


民家。佃1-3
2000(平成12)年1月5日

佃源田中の横の路地を入ると、写真の家の前へ出る。佃島の旧家だろう。3枚の表札の他に古そうな、ホーローと思われるプレートが貼られている。「(月島)家庭/婦人會員/衛生」の小さな楕円形のプレート、「月島警察署/防犯灯協力の家/月島防犯協会」の細長いプレート。そして青地に白で菊の紋章と「靖国の家」。そのプレートはだれが発行したものなのだろう? 国? 靖国神社? 在郷軍人会?

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看板建築。中央区築地7-13。2004(平成16)年11月1日

居留地中央通りのあかつき公園の南を東へ入ったところ。あかつき公園は明石堀(隅田川から分流して築地川になる部分、通称だが分かりやすい)を1970年に埋め立てて造った公園。埋め立て前は居留地中央通りには南明橋が架かっていた。写真の通りは、昔は明石堀の河岸の背後の道だった。
看板建築が並んでいるが、すでに空家になっているような様子だ。その家並みの奥が読売新聞販売所だが、他の家は古い地図でも住居として使っていたようで、商店などの記載は見当たらない。
現在は「パークホームズ築地」(2012年8月5月築、14階建て64戸)というマンションに替わった。



読売新聞販売所。1枚目写真の奥から同じ家並みを撮った写真。2004(平成16)年11月1日



二軒長屋。築地7-13。2004(平成16)年11月1日

1枚目写真の右の横町を入ったところ。この横丁(居留地中央通りの1本東の裏通り)をずっと右(南)へ行ったところから撮った写真が、『東京ダウンタウンストリート1980's>中央区築地~その三』にある。その写真の「北海道ぎょれんビル」とその向かいの「旅館大宗」が今も変わらない。
写真奥の右のビルは築地7-9にある「中央区立築地児童館/区立築地住宅」の6階建てビルで、昭和60年1月に建った。それ以前は、1979(昭和54)年の地図では「中央区立生活館/区立結婚相談所」で3階建ての建物。さらに1966(昭和41)年の地図では「東京都水上生活館」である。
明石堀は水上生活者の船溜まりだったという。ネットでは『 Medical Finder >保健婦雑誌>15巻9号』の「はしけの人々をまもつて―水上生活舘の仂き」という記事が読める。1959年9月発行で、水上生活館を「ごく最近改築された美しい姿」と言っているので、「区立生活館」もその同じ建物だったと思われる。水上生活館は巡回船を持っていて、その「みんせい丸」が水上生活館裏の船着き場に着いている写真が『中央区立図書館>地域資料室』にあるのでお借りした。1957(昭和32)年、京橋図書館の撮影。建物は改築前のものだ。

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相模屋酒店。中央区築地7-6。1988(昭和63)年10月9日

写真の通りは、築地本願寺の北を通る通りの南の裏通りで、築地6丁目と7丁目の境になっている道路。角のモルタル壁の看板建築は山之内印刷の向かい側に今も残っている。相模屋酒店は廃業したらしく、10年前くらいにカフェになった。その隣のビルは彫刻看板と暖簾などの「多美屋」。商品を書いたそれぞれ異なった形の袖看板を6個も出しているが、現在はみな外してしまって、ちょっと寂しい外観である。その右の二軒長屋の看板建築は撮影時では空家のようだ。今は「MLビル」という6階建てのオフィスビルに替わっている。その右のビルは「居留地中央通り」との角になり、食品店の「み乃り屋ビル」。

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上:瀬角質店。中央区築地6-8。1988(昭和63)年10月9日
左:天ぷら金子。築地6-11。2004(平成16)年11月6日

上写真の左奥へ行くと晴海通りの築地6丁目交差点のすぐ東に出る。中央に写っている洋館付き住宅を撮った写真のようだが、その家は『北晃水産、他』で紹介済み。写真右の出桁造りの商家の家をきちんと撮っておけばよかった。この家は1966年の住宅地図に「瀬角質店」となっている。1979年の地図では個人名なので、それ以前に廃業したようだ。現在は「スカール築地」(1999年10月築、13階建て39戸)というマンションに替わっている。
天ぷら金子は洋館付き住宅の向かい側に、店は閉まってしまったが建物はそのままだ。波トタン張りの看板建築だが、かなり簡単な造りである。

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