ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




中央区立第二中学校。中央区明石町1。1987(昭和62)年1月15日

明石小学校の北に隣接していた、大正15年に「京橋高等小学校」として建てられた校舎である。
高等小学校とは1886(明治19)年に尋常小学校(修業年限4年)と高等小学校(修業年限4年)が設置されて以来、制度の変遷があり、明治末には尋常小学校は6年間(義務教育)、高等小学校は2年間となる。尋常小学校を卒業した後、余裕のある家庭の子が高等小学校に進学した。1941(昭和16)年、国民学校令により尋常小学校は国民学校(初等科)に、高等小学校は国民学校の高等科に変わった。

京橋高等小学校の校舎は『東京市教育施設復興図集』(昭和7年、東京市役所編纂、勝田書店発行)によると、施工は竹田組で、工期は大正14年11月2日~大正15年11月25日。学校の創立は明治44年11月で、20学級とある。竹田組は半年ほど先行するが、大正14年6月15日~大正15年8月28日の工期で隣接する明石尋常小学校を建てている。
写真中央の玄関から左は増築による。増築と言っても戦前のことになるだろう。



左:第二中学校・正門、右:東側出入り口。1990(平成2)年1月21日

戦後、京橋高等小学校だった校舎は、区立第二中学と都立京橋高校とで使われた、としてよさそうである。学校の名称や場所が変わっていくので、その点が複雑である。
戦後の学制改革により昭和22年に中学校が発足する。中央区では10校が開校、そのうち京橋地区は「明石中学」「明正中学」「文海中学」の3校。『中央区の地名の由来』を参照すると、明石中は常盤小学校内に開校し、昭和31年に現在の銀座中(銀座8-19)のところに落ち着く。なぜ「明石」なのかが不思議だが、明石小に併設するつもりで名称を決めたら、そこが占領軍に接収されてしまったからだろうか? 接収が解除されたのは昭和28年7月。明正中は明正小学校(新川2-13)内にあった。明正小は昭和21年から26年まで京華小学校(八丁堀3-17)に統合され、校舎は空襲の被災者を収容したらしい。明正中が開校したのは京華小内だったのだろうか? 
文海中学は明石小内に開校、ということだが、当時の明石小は京橋高等小学校だった校舎を使っていたと思われる。以降、区内の小学校に分教場を置き、昭和28年に京橋高校(校舎は旧京橋高等小)内に移転した。
昭和43年に、文海中と明正中が統合して「第二中学校」に、明石中は「第一中学校」になる。1984(昭和59)年に、第一中学校と第二中学校が統合して「区立銀座中学校」になった。文海中→第二中が京橋高等小の校舎だった建物にあったのは、昭和28~59年ということになる。

一方、都立京橋高校はというと、『中央区の地名の由来』によると、「東京市京橋区女子実業学校」(都立晴海総合高校のHPでは「東京市立京橋区女子実業補習学校」)が明治44年に京橋高等小学校に間借り移転してくる。大正7年「東京市京橋区実業補習京橋女学校」と改称。昭和2年「東京市京橋区京橋専修女学校」と改称。昭和7-11年の火保図に「専修女学校/明石町高等小学校」とあり、跡づけられる。そして昭和24年に「都立京橋高等学校」となった。1963(昭和38)年に晴海に移転する。これ以後、京橋高等小だった校舎は文海中→第二中が単独で使用したのだろう。京橋高校は平成9年に、都立京橋商業高校と統合して「晴海総合高等学校」になった。

掲載した写真はすでに第二中学は銀座中学になった後なので、「旧第二中学」が正しい。第二中が出た後は区の施設が入っていた。1986年の住宅地図では「区立築地小学校/区立京橋朝海幼稚園」だが、築地小の建替えのため、一時移ってきていたもの。平成6年1万分の1地形図には「シルバー人材センター」とあった。教室の一つを使っただけかもしれない。2002(平成14)年に解体された。今は、「UR都市機構ラヴェール明石町」(2004年6月築、22階建て199戸)という賃貸マンションが建つ。

建物は佃大橋通りの側が正面だったと思われる。その肝心の面を撮り損ねたようだ。そちらは『廃景録>中央区立第二中学校』および『都市徘徊blog>中央区立第二中学校 』で見ることができる。

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