山口一太郎 大尉
五・一五事件は、随分奇妙な事件である。
あれだけの大事件でありながら、計画の大要は各方面に洩れていた。
憲兵隊も、したがって陸軍省も、そして恐らくは警視庁も相当程度知っていた。
行動の隠密性が悪かったためである。
私も五月の始め頃から西田税 に情勢を知らされた。
かほど重大な陰謀が、こんなに知れ渡っていたのでは碌な結果にはなるまい。
海軍将校が計画し、海軍や民間人がやるのなら別に云う所はないが、
陸軍が巻き込まれることは避けたいと思った。
小畑敏四郎少将に御会いして見ると考えは全く同じであった。
「 陸軍が巻き込まれることは絶対におさえてもらいたい。
西田君とも相談して宜しく頼む 」ということだった。これまた随分おかしな話だ。
小畑少将は知る人も知る荒木陸軍大臣のブレーンの第一人者なのだ。
決行時期が五月一五日ということは五月十日頃わかった。
私と西田とは日に二度位会った。
陸軍将校の参加は西田が完全に思いとどまらせた。
陸軍士官学校生徒の参加をも止めようとしたが、その説得役の村中[孝次]( 陸軍士官学校区隊長、中尉 )が
生徒に接近することを学校当事者が勘違い(煽動と)の結果 阻止したので、ついに目的は達せられなかった。
私も西田も、日ごと夜ごと焦燥感を空しくなめるばかりであった。
このような東京をあとにして、私は富士裾野、滝ケ原の演習場に行かなければならなかった。
かねて私の設計していた機関砲の実弾射撃が予定を繰り上げ、五月十四日から十六日までになったからだ。
恐らく技術本部首脳部が、事件の計画をうすうす知り、五月十五日に私が東京に居ないように計らったものであろう。
御殿場の大きい宿屋数件は技術本部長緒方勝一大将以下数十人のメンバーによって占められた。・
五月十五日の演習が済むと、私は転がるように自分の宿にかけ戻り、帳場のラジオにかじりついた。
ラジオは海軍将校と陸軍士官学校生徒によって決行された五・一五の大事件を報じ、
ひとびとは目を丸くして刻々の報道に聞き入っていた。
私にとってはすべてあるべき事が、スケジュール通り行われただけなので、一向驚くことはなかった。
しかし報道が進むにつれ、本当に驚かなくてはならなかった。
それは予定にも何もない西田が狙撃され、順天堂病院に収容されたが、生命はおぼつかないということだ。
西田の呼吸、脈ハク、輸血の状況などは、要路の大官なみに刻々と報ぜられた。
私がラジオの前を去ったのは夜半すぎていた。
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明けて十六日の朝六時頃、隣の宿から「 本部長閣下が御呼びでごさ゛います 」と 迎えに来た。
その室に入ると 人は、室中に新聞をひろげ「 実にけしからん 」と 憤慨している。
「 君これは一体どうした事だ。飛んでもない話だ。君のことだからいずれ前から知っとんダろう 」と きめつける。
「 風説はうすうす聞いていました 」
「 聞いとったら、われわれ上司に報告せにゃいかんじゃないか。」
「 技術に関する事だったら細大もらさず報告してますよ。会った事も、名前も聞いた事もない海軍将校に関する風説まで、
事ごとに報告する義務はないと思います。」大将これで喜んだ。
「 君本当にこの連中の名前すら聞いた事がないのか?
後日上司(この場合陸軍大臣)からわれわれの方へ御とがめが来るような事はないのか?」
なんだ、私を早朝呼びつけた問題の核心はここにあったのだ。
当時の軍の上官の大部分は、保身に汲々たるものだった。
部下の急進将校のため、わざわいがこの身に及んでは大変ということだけなのだ。
何回も念を押し、私がこの事件に全く関係ないと得心が行くと、急にニコニコして
「 では宿へ引き取りたまえ。朝早くから呼んですまなかった。」
その日(十六)の射撃は正午に終わった。
東京へ心急ぐ私は、射撃の終わる地点間近かに、大型のハイヤー「ハドソン」を待たせておいた。
乗る。
走り出す。
宿でトランクを受け取る。
そして駅へ。
列車は入っている。
運よく車中の人となった。
一路東京へ・・・・・。
煙を吐き立てて走る汽車の歩みが、こんなに遅く感じられた事はなかった。
車中何時間、全くつんぼ桟敷だ。
愛宕山のあの小さいアンテナから電波の出されていた当時である。
トランジスタ・ラジオを聞きながら旅行するなんて事は思いもよらない。
何はともあれ情況を明らかにしなけりゃならぬ。
それにはまず憲兵隊に行くにかぎる。
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