あるSNSに皇子山中学のコミュがあって覗いてみたら、いじめたとされる側の子の本名からその家族や親族の名前や職業まで晒しものになっている。その批判や罵倒は次第にエスカレートし、結局は、在日と被差別、それにサヨクが絡んだ事件というのがほぼ幅を利かせるに至っている。
ところが、そこから辿っていった2chには「勝手に死んだ奴より加害者とされる前途ある中学生を守れ」というスレもあり、それによれば今度は、被害を言い立てる一家の側が在日で被差別でサヨク絡みだということなのだ。まるで合わせ鏡のように瓜二つの論理展開というべきだろう。
ここから言えることは、いずれにせよこの人達、いじめをどう無くすかなどはまじめに考えたこともなく、ただただ、それを自分が思いつく諸悪の根源と短絡的に結びつけてウップンを晴らしているに過ぎないこということである。しかし、この事実以上に、ここにはさらに重要な問題がある。
それは、彼らのように憎悪や揶揄の対象を見出しそれを叩き続けるということ自体が「いじめ」の論理そのものであるということである。そしてさらに不幸でかつ喜劇的なのは、彼らが自分たちの論理がいじめと相似形であることにまったく気づいていないことにある。
真に怖いのは正義という名の退廃なのだ。