前回は、変に気をもたせる終わり方で申し訳ありませんでした。別に「ガマの油売り」のように気を引いておいて何かを売りつけるような魂胆はありませんからあしからず。
話は私がサラリーマン時代(半世紀前です)、休日に私が担当していた代理店の前を通りかかったら、そこの社長夫妻が、在庫(私のいわゆるガラクタ)をトラックに積み上げているのを目撃したというところまででした。
翌日、普通に私は出社しました。私の住まいもその代理店も岐阜でしたが、勤務先は名古屋でした(本社は東京)。
午前の勤務が終わろうとする頃、岐阜の別の代理店から私宛に電話がありました。
「六君、いま用事があってOさんのところへ行ったら《都合により臨時休業します》という紙が貼ってあったが、君、なんか知ってるか」
とのことです。
Oさんというのは昨日述べた、トラックに荷物を積み込んでいたあの代理店です。電話をかけてきたのは、Oさんちの週末麻雀会の主要メンバーのひとりです。
「ん~、そうなのか」という思いもありましたが、そこはひとまず、
「そんな、あなたがご存じないものを私が知ってるはずはないでしょう」
と電話を切りました。
そして午後、一番にOさんのところへ駆けつけました。
ここまで読まれた方は当然、倒産、夜逃げを連想されますよね。しかし私は、それだけは絶対にないと信じていました。
私は彼の経営の内情を熟知していたのです。あるときなど、預金通帳の残高迄見せてくれました。私の家計の四桁か五桁は上でした。
利益分を何かに投資をして損失を被ったなどということも考えられません。なにせ彼は、現金以外は小切手すらも透かしてみなけれが信用しないという古典的な守銭奴だったからです。それに当時は、稼いだ金を簡単に信用投資するような時代でもありませんでした。
博打で擦るとということも決してありえません。前回述べたように車で来たやつを歩いて返すようなことはあっても、彼が大負けをしたという話は聞いたことがなかったからです。
でも負けが込むこともあるのは事実でしょうが、「そういう時は、疲れたといって寝るのだよ」というのが、Oさんが私に語ってくれた大負けしない秘訣です。
そのためにこそ、Oさんは茶果や酒肴まで用意して自宅を賭場に開放していたのです。自宅でなければ勝手に引っ込んで寝たりできませんものね。もっとも切り上げ時を計れるというのも、Oさんの博才のうちだったとはいえます。
Oさんの店に着くとやはり張り紙があります。勝手知ったる他人の家で、裏口から声をかけてみましたがまったく反応がありません。それのみか、ある種の生活反応すらないのが気がかりです。
こんな時に頼りになるのは隣のおばさんです。それに多少の顔見知りでもあったのです。というのはその頃は路上駐車は当たり前で、Oさんのところへ来た折はやはり路駐でしかも混み合っている折には隣家にまではみ出し、「おばさん、ごめんね」と声をかけていたからです。
おばさんもまったくの不審顔です。
「いえね、朝からまったく人の気配がないのよ。それに番頭さんたちも出てこないし」
番頭さんというのは幹部社員で、ほかに2、3人の従業員さんもいました。
「でも娘さんたち、学校があるでしょう」
と私。
そうなんです。このOさんには当時中学生と小学生高学年の女の子がいて、子煩悩なOさんにとっては可愛くて仕方がない娘たちだったのです。
よく出入りしていた私も、当然その子たちと仲良くなり、他社の担当者に比べ若かったこともあり、親しく口を利く間柄でした。
そんなある時、上の娘がポロリと、「今度、◯日が誕生日なの」いったのでした。私は当日、彼女に可愛い花柄の万年筆(当時は中学生も万年筆を使っていたのです)と、その妹には同じく花柄のボールペンをプレゼントしました。
当然、娘たちは喜んでくれましたが、それ以上に喜んでくれたのがOさんです。とりわけ彼は、妹への配慮を忘れなかった私をいたく評価してくれました。Oさんが預金残高を見せるほどに、また、自分が麻雀で負けない秘訣などをも教えてくれるほどに信頼してくれたのはこんなことがあったからでしょう。
そんなわけで、私の心配はその担当者たる私の立場を離れて、その一家の命運に関するものでした。ついでながら、幾分バタ臭い顔をした奥さんも私をとても可愛がってくれていました。
すでに見てきたように、古典的な守銭奴で、しっかり者のOさんでしたが、そこにこそまさに、彼が稼いだカネを資本に転用し得ない限界、そしてある日、突然姿をくらまさねばならない原因があったのです。
あ、またしても長くなりすぎました。
Oさんが、倒産でもなく、行方をくらました経緯については次回また述べます。
え?「ガマの油売り」の手法に似てきたって?
そんなつもりはありません。
(といいながら、次回には振込口座が添えられていたりして)
話は私がサラリーマン時代(半世紀前です)、休日に私が担当していた代理店の前を通りかかったら、そこの社長夫妻が、在庫(私のいわゆるガラクタ)をトラックに積み上げているのを目撃したというところまででした。
翌日、普通に私は出社しました。私の住まいもその代理店も岐阜でしたが、勤務先は名古屋でした(本社は東京)。
午前の勤務が終わろうとする頃、岐阜の別の代理店から私宛に電話がありました。
「六君、いま用事があってOさんのところへ行ったら《都合により臨時休業します》という紙が貼ってあったが、君、なんか知ってるか」
とのことです。
Oさんというのは昨日述べた、トラックに荷物を積み込んでいたあの代理店です。電話をかけてきたのは、Oさんちの週末麻雀会の主要メンバーのひとりです。
「ん~、そうなのか」という思いもありましたが、そこはひとまず、
「そんな、あなたがご存じないものを私が知ってるはずはないでしょう」
と電話を切りました。
そして午後、一番にOさんのところへ駆けつけました。
ここまで読まれた方は当然、倒産、夜逃げを連想されますよね。しかし私は、それだけは絶対にないと信じていました。
私は彼の経営の内情を熟知していたのです。あるときなど、預金通帳の残高迄見せてくれました。私の家計の四桁か五桁は上でした。
利益分を何かに投資をして損失を被ったなどということも考えられません。なにせ彼は、現金以外は小切手すらも透かしてみなけれが信用しないという古典的な守銭奴だったからです。それに当時は、稼いだ金を簡単に信用投資するような時代でもありませんでした。
博打で擦るとということも決してありえません。前回述べたように車で来たやつを歩いて返すようなことはあっても、彼が大負けをしたという話は聞いたことがなかったからです。
でも負けが込むこともあるのは事実でしょうが、「そういう時は、疲れたといって寝るのだよ」というのが、Oさんが私に語ってくれた大負けしない秘訣です。
そのためにこそ、Oさんは茶果や酒肴まで用意して自宅を賭場に開放していたのです。自宅でなければ勝手に引っ込んで寝たりできませんものね。もっとも切り上げ時を計れるというのも、Oさんの博才のうちだったとはいえます。
Oさんの店に着くとやはり張り紙があります。勝手知ったる他人の家で、裏口から声をかけてみましたがまったく反応がありません。それのみか、ある種の生活反応すらないのが気がかりです。
こんな時に頼りになるのは隣のおばさんです。それに多少の顔見知りでもあったのです。というのはその頃は路上駐車は当たり前で、Oさんのところへ来た折はやはり路駐でしかも混み合っている折には隣家にまではみ出し、「おばさん、ごめんね」と声をかけていたからです。
おばさんもまったくの不審顔です。
「いえね、朝からまったく人の気配がないのよ。それに番頭さんたちも出てこないし」
番頭さんというのは幹部社員で、ほかに2、3人の従業員さんもいました。
「でも娘さんたち、学校があるでしょう」
と私。
そうなんです。このOさんには当時中学生と小学生高学年の女の子がいて、子煩悩なOさんにとっては可愛くて仕方がない娘たちだったのです。
よく出入りしていた私も、当然その子たちと仲良くなり、他社の担当者に比べ若かったこともあり、親しく口を利く間柄でした。
そんなある時、上の娘がポロリと、「今度、◯日が誕生日なの」いったのでした。私は当日、彼女に可愛い花柄の万年筆(当時は中学生も万年筆を使っていたのです)と、その妹には同じく花柄のボールペンをプレゼントしました。
当然、娘たちは喜んでくれましたが、それ以上に喜んでくれたのがOさんです。とりわけ彼は、妹への配慮を忘れなかった私をいたく評価してくれました。Oさんが預金残高を見せるほどに、また、自分が麻雀で負けない秘訣などをも教えてくれるほどに信頼してくれたのはこんなことがあったからでしょう。
そんなわけで、私の心配はその担当者たる私の立場を離れて、その一家の命運に関するものでした。ついでながら、幾分バタ臭い顔をした奥さんも私をとても可愛がってくれていました。
すでに見てきたように、古典的な守銭奴で、しっかり者のOさんでしたが、そこにこそまさに、彼が稼いだカネを資本に転用し得ない限界、そしてある日、突然姿をくらまさねばならない原因があったのです。
あ、またしても長くなりすぎました。
Oさんが、倒産でもなく、行方をくらました経緯については次回また述べます。
え?「ガマの油売り」の手法に似てきたって?
そんなつもりはありません。
(といいながら、次回には振込口座が添えられていたりして)