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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

戦争とガラクタ(4) 戦争の決着と馬小屋の・・・・

2012-07-25 01:31:55 | 想い出を掘り起こす
 新しい写真などを用意する余裕がありませんでしたので、すでに掲載したことのあるイラストなどの手抜きでごまかしました。

(承前)前回まででOさんが行方をくらましたいきさつはお話しました。
 しかし、そんなことで国税局との戦争に決着がつくのか、あるいはまた、Oさん一家はその後どうなったのかという問題が残っていますね。

 結論を先にいますと、Oさんはやがて姿を表し、国税当局に「自首」しました。もちろん、ホームレス(当時はそんな言葉はありませんでした。しばらく後に「蒸発」という言葉が生まれ、それが今日のホームレスの系譜につながるのでしょうが)にでもならない限り逃げきれるものではありませんし、子供を抱えていてはそれもままならなかったことでしょう。その兄などの説得にあたったものと思われます。

 国税当局の措置は厳しいものでした。追徴課税の中でももっとも重い、意図的な脱税に課せられる重加算税が適応されたようなのです。具体的にいくらとられたのかは知りませんが、この局面ではOさんの敗北は誰の眼にも明らかでした。

            

 しかし、Oさんは本当に全面的に敗北したのでしょうか?
 私はそうではない方に賭けます。

 税務当局は推定される利益に対して課税します。最高40%という高率の重加算税でも、その根拠はOさんはこれぐらいの利益を上げていただろうという数字に基づきます。
 簿記や会計をされた方はご存知のように、利益の計算は仕入れと売上、並びに期首と期末の在庫によって計算されます。
 税務当局は、いろいろ調べて知り得た数字をもとにして税額を計算したに違いありません。

 しかしです、焼け跡から拾ってきた焼けマシンは仕入帳に載っていたでしょうか?それをろくすっぽ領収書も出さない現金売りで処理したものは売上に計上されていたでしょうか?期首や期末の棚卸にそのガラクタは在庫として計上されていたでしょうか?
 Oさんと一緒に消えたガラクタ(と私はいっていますが、もちろん価値あるものもたくさん含まれていました)はついに税務当局には発見できなかったというか、それを隠匿した事実すらも掴んでいなかったのではないかと思います。
 第一回で述べましたように、それを知っていたのはたまたまそれを目撃した私だけなのです。Oさんが「見なかったことにしてくれ」と頼み、その奥さんが拝むようにしていたのがそのガラクタの搬出だったのです。

            

 私のその折の目撃の記憶から言っても、私どものようなメーカーから仕入れた新品のものはその隠匿品には含まれてはいませんでした。したがって税務当局は、メーカーからOさん、Oさんからエンド・ユーザーという商品の流れを追いかけて、そこで上がったはずの利益を想定し、それに課税をしたにとどまっていたのではないでしょうか。

 Oさんが税務当局にいくらとられたのかはともかく、それはおそらくOさんの「想定内」だったと思うのです。姿を消している間に、Oさんのメモにのみあったガラクタの収集(仕入れ?)と売上の記録は完全に消去され、物的証拠のガラクタは行方知れずというか、それがあったことすら税務当局は掌握していなかったのです。
 ですから、無謀とも言えるOさんのトンズラ作戦は証拠隠滅を完成させるための時間稼ぎという点で大いに意味があったのです。
 さらにはOさんのことですから、逃亡中も無為に過ごしたはずはなく、手なずけておいた所轄の署員などから情報を収集し、その着地点やタイミングを見計らった上で「自首」した可能性が大なのです。

            

 Oさんとその家族は岐阜の三階建てのビルに戻って来ました。ただし、看板は変わって、その兄が名古屋でやっている会社の岐阜支店になっていました。Oさんは取締役岐阜支店長です。
 私はその後もそこへ行っていましたが、ことのいきさつはあまり詮索しませんでした。
 しかし、ある時、二人だけになった時に訊きました。
 「支社長、ところであのガラクタはどこへやったの?」
 「バカ、あれはガラクタではなくて未だに宝の山だ」
 という答えが帰って来ました。
 どうやら、それが必要な顧客がいると、こっそり取り出してきて、会社の商売とは別に自分の売上にしてポッポに入れているようなのです。

 そしてOさんはそのありかも教えてくれました。それによると、岐阜郊外にある彼の実家の馬小屋にわらにまみれて保管されているというのです。彼の実家は農家で、しばらく前までは耕作用の馬を飼っていたのですが今はもう馬はいないのです。
 馬小屋のキリストならぬ馬小屋のガラクタです。
 「誰にもいうなよ」といたずらっぽくいうOさんの表情は少年のようでした。
 おそらくそれがOさんとの最後の会話でした。
 というのも、事情があってそのすぐ後、私は会社を辞めたからです。

            

 私の長いお話はこれで終りです。
 エピローグとして、先日、その前を通りかかった折のことを書きましょう。
 その三階建ての建物はその場にありましたが、もう看板もなく、平日にもかかわらずシャッターが下りていました。しかし、二階には明かりが灯り、何か仕事場のような雰囲気がありました。
 そしてその二階こそ、Oさんのあの麻雀ルームだったのです。

 その頃の土曜日の夕方(週休2日ではない時代です)、所要で訪れると番頭さんが社長はもう二階だよとのことで、階段を上がってゆきました。すでに二卓ほどに同業者や取引先の面々が取り付いています。しかし始まったばかりで和気あいあいとした雰囲気でした。
 用件を済ませて帰ろうとすると、「どうだ、六君もやってゆかないか」とのお誘いです。しかし、私にはもう一軒行かねばならないところがありましたのでそれを告げて辞退いたしました。

 次の週の月曜日です。やはりOさんのところへ行く急な用件ができ、出社する前にそこへ直行しました。もう出勤していた番頭さんが二階を指差すので上がってゆきました。
 なんと、土曜日の夕方見たメンバーとほとんど変わらない人たちがまだ卓を囲んでいるのです。そして土曜日の夕方とは雰囲気がガラリと変わり、煙草の煙がもうもうとたち込め、すえた臭いがするなか、男たちが血走った眼で牌をやり取りしていたのです。
 そんな中、Oさんのみが悠然としていました。おそらく自分の家の特権を生かして、しかるべく休養はとったのでしょう。
 それにしても通算40時間のロングラン、本当に信じられない光景でした。

            

 もうひとつ、これは内緒ですが、点棒を数えるのが面倒だというので現金の麻雀を見たことがあります。全ては百円札(今の千円の価値)です。リーチも百円札が卓上に投げられ、一翻が百円、万貫や役満になれば千円前後が直接行き来します。私の給与が数万円あったかどうかの時代ですよ。
 勝った人は無造作にそれを座っている座布団の下に突っ込みます。勝ちが重なると座布団が不安定になって座っている人の体が傾くのです。

 そんなことを思いだしながら、その家の前を通り過ぎました。
 時は第一次高度成長時代、岐阜は繊維二次加工(布地を服にする)の街として、駅前の繊維問屋街を中心にたいそう賑わっていました。
 繊維機械業もそれに付随してとても元気だった時代です。

 その後、繊維製品のように単価が安く、しかも労働集約型の産業はどんどん工賃の安い諸外国に仕事を取られ、今や問屋街も閑散としています。
 Oさんのガラクタ商法ももはや付け入る隙はありません。
 可能性があるとしたらネットオークションでしょうか。
 もっともOさんは大正元年生まれですから、健在ならば100歳ですね。

 長い間お読みいただき、ありがとうございました。




コメント
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