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六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

虫たちの訪問帳 

2012-07-14 23:55:27 | よしなしごと
 眼下(私は二階に追いやられた住人)にムクゲが咲き出してから、梅雨の晴れ間を狙うかのように、いろいろな虫たちが訪れるようになりました。

 つい先般まで、桑の実がついていたときは、スズメ、ムクドリ、それにあのけたたましいヒヨドリがわがもの顔に実をついばみにきていたものです。
 一度など、私が桑の実を採りにでたら、「ギャギャギャ~ッ」とムクドリに怒鳴りつけられました。
 なんという図々しさでしょう。鳥たちが食べるのを妨害しようとは決して思いませんし、それどころか、私自身は自分の手の届く範囲のみでおとなしく採っているのです。
 いったい、これだけの実がなるまで、丹誠込めて育てたのは誰だと思っているのでしょうね。
 まあ、いまさらムクドリとの喧嘩を蒸し返しても仕方がありません。それにもう、その季節は終わったのですから。

 あ、そうそう、虫たちのことでしたね。
 窓に面した机に座っていると、なにか目の前をチラチラするものがあるのです。ちょっと集中していたことがあったので、しばらくしてから眼を上げると、珍しく大振りなクロアゲハが舞っていました。
 慌ててカメラを用意してまず一枚を撮し、さあ、これからという時にふと飛び立ってそのまま視界から消えてしまったのです。

            

 私がカメラを向けたのに驚いたのか、あるいはもうこの辺ではさんざん蜜を吸ったから去っていったのか、どちらかは分かりませんが、ちょっと残念なことをしました。そんなわけで、その勇姿は一枚しか捉えることができませんでした。

 なお、このアゲハ、「カラスアゲハかな」とも思ったのですが、とった写真をネットの図鑑と比べてクロアゲハだと判断しました。カラスアゲハの方は、翅に青や紫などのグラデーションがかかっているのです。

            

 続いてやってきたのはムギワラトンボでです。7月10日に羽化したばかりと思われるものを写真に収め、ここでも紹介したのですが、たぶん、それと同じのだと思います。もっとも、トンボの個体を識別する方法などは知りませんから、確信は持てませんが、カメラを構えたとき、ギロリとこちらを見た目付きが、「やあ、おっさん、またきたぜ」といっているように思えたのです。
 後ろに、小さなシジミチョウかなんかの仲間を引き連れているのもご愛嬌ですね。

                    

 しかし、なんといっても今日の主賓はクマンバチですね。
 リムスキー=コルサコフの軽快なリズムをBGMとしてずーっと遊んでゆきました。一つの花にちょっと首を突っ込んだかと思うとまた次の花へと、なかなか落ち着かないのですが、その飛行にはほぼ一定の航路があるようで、私の前を楕円形に時計回りで飛んでいるようなのです。
 そのうち、二度ほどは私の顔のすぐ前、30~40センチほどでホバリングをしながら、「お前は誰じゃい」といった感じで値踏みをしていったのですが、三度目からはもう完全に虫、ではなかった無視です。私のことを人畜無害(?)と判断したのでしょう。

            

 しかし、じつに旺盛な活動力ですね。体や足の辺りにはムクゲの花粉が金粉をまぶしたように光って、その奮闘ぶりが伺えます。しばらくその金粉ショーを観ていましたが、とにかく動きがめまぐるしくて疲れます。
 やりかけの仕事もありましたので、「ゆっくり遊んでおゆき」と言い残してその場を去りました。

            

 日頃から、身辺の小動物が減ったのではないかと危惧しているのですが、今日のようにこれだけ訪問者があると、なんだかホッとします。
 それにしてもあのクロアゲハ、もっとじっくり観て、いい写真を撮りたかったなぁ。


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誰がいじめているのか?

2012-07-14 00:47:45 | 社会評論

            

 あるSNSに皇子山中学のコミュがあって覗いてみたら、いじめたとされる側の子の本名からその家族や親族の名前や職業まで晒しものになっている。その批判や罵倒は次第にエスカレートし、結局は、在日と被差別、それにサヨクが絡んだ事件というのがほぼ幅を利かせるに至っている。

            

 ところが、そこから辿っていった2chには「勝手に死んだ奴より加害者とされる前途ある中学生を守れ」というスレもあり、それによれば今度は、被害を言い立てる一家の側が在日で被差別でサヨク絡みだということなのだ。まるで合わせ鏡のように瓜二つの論理展開というべきだろう。

            

 ここから言えることは、いずれにせよこの人達、いじめをどう無くすかなどはまじめに考えたこともなく、ただただ、それを自分が思いつく諸悪の根源と短絡的に結びつけてウップンを晴らしているに過ぎないこということである。しかし、この事実以上に、ここにはさらに重要な問題がある。

            

 それは、彼らのように憎悪や揶揄の対象を見出しそれを叩き続けるということ自体が「いじめ」の論理そのものであるということである。そしてさらに不幸でかつ喜劇的なのは、彼らが自分たちの論理がいじめと相似形であることにまったく気づいていないことにある。

 真に怖いのは正義という名の退廃なのだ。


 

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