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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ガラクタと戦争 戦争が身近だった頃

2012-07-20 17:20:34 | 想い出を掘り起こす
 昨日のことです。二つの用件があり暑いさなかに久々に車で外出しました。
 しばらく前まで体調が優れず、行きつけのクリニックでは「血圧が高いですよ」と指摘されていましたから、短時間の買い物などは別として、半日単位の外出は久々です。

 まず一つ目の用件。相手に会い、さてこれから話をという段階で先方に急用の発生、先方の「すみません、すみません」の言葉を背後にそうそうに辞去しました。
 さて困りました。二つ目の約束までにはまだまだ時間があります。
 自宅へ戻っても、ちょっと休んですぐ出かけなければなりません。

 車を転がしているうちに、とんでもない事が頭に浮かびました。
 ちょうど半世紀前、仕事でよく行ったところがどうなっているか見たくなったのです。


            

 当時私は繊維機械(繊維二次加工用品・工業用ミシンなど)の会社の営業マンでした。
 で、思い出してみたくなったというのは、当時私が担当していた代理店で、大正生まれの頑固なワンマン経営者が君臨し、けっこう経営には辣腕(えげつなことも含めて)を振るい、当初、木造平屋の店舗を鉄筋三階建にしたようなその業界では儲け頭でした。
 1960年から70年(=昭和30年代の後半から40年代)にかけてのことです。

 一度言い出したら聞かない人で、どこの社の営業マンも応対に苦労していたようですが、何故か当時一番若かった私をかわいがってくれました。
 そのかわり、徹夜の麻雀などにも付き合わされました。
 その麻雀たるやとてもレートの高いもので、車で出かけた人が(当時の車は高かったのですよ)帰りには歩いて帰ったという実話もあったほどなのです。
 そんなのにまともに付き合っていたら給料の何ヶ月分も飛んでしまうので、最初のレートの安い時間帯だけ付き合い、同業者たちの眼が血走るような段階ではもっぱら見学と、灰皿の取り替えなど裏方のサービスに務めるのでした。もちろん残業手当は付きません。

 あるとき所要で訪れると倉庫の整理をしているので見に来いといいます。裏の倉庫に入ったのはその時はじめてですが驚きました。
 実に多くの、私にはガラクタとしか思えない中古のマシン、中には、戦後焼け跡から拾ってきたのに違いないようなものが山と積まれていたのです。

 目を丸くしている私の機先を制するように彼はいいました。
 「君にはな、これらがガラクタに思えるだろう。だがな、一旦戦争が起きたらこれは金の山になるのだ」

            

 戦争というもの、今の想像力を動員してもどこか遠くのことに思われるでしょうね。でもまだ、そのころには身近な問題としてあったのです。
 1945(昭20)年の敗戦は、まだついしばらく前のことでした。
 それに次ぐ朝鮮戦争1950(昭25)年は、下手をすれば日本にも及ぶのではといわれながら、実際には米軍の後方物資の供給地として未曾有の好況を生み出し、それが戦後日本資本主義のテイクオフに大きな作用をしたのでした。

 いわゆる60年安保をめぐる闘争を70年のそれと分かつ最大のものは、前者には日本の外交やその理念に対するものというより、若者たちに、またあの戦火に自分たちがさらされるのではないかという現実的な不安が多分にあったということではないかと思います。

 ついでながら当時は、戦争に対する忌避の念も強かった反面、それへの期待論もおおっぴらに語られました。ちょっと景気が悪くなると、「ここで戦争でも一発起こればなぁ」といった具合です。
 今でこそそれをおおっぴらに言う人はいませんが、原発賛成論のひとの中には潜在的にそれがあります。「国際競争力」こそが錦の御旗なのです。さらに彼らは、戦争は経済の延長であることをよく心得ていて、原発の運用の中に「安全保障上の」問題、つまり、核武装への布石を忍び込ませたりします。

            

 話がそれました。彼の倉庫の話でしたね。
 彼は戦後、いわゆる焼けマシンを二束三文で買い集め、それを再生してしこたま儲けたのでした。そして、朝鮮戦争でも彼の鉄くずがものを言いました。
 ですから彼の確信は、鉄くずであろうがなんだろうがものさえあれば、そして、それに加えて、戦争が起こればというものでした。
 しかし、世は次第にものから資本へと移り行きつつある頃でした。
 加えて急速な技術革新の時代にあっては、彼の持っているような鉄くずは、本当に鉄くずになりつつあったのです。

 ある休日のことです。私は子どもたちを、彼の店の近くにある公園に遊びに連れてゆきました。そこへ行くには彼の店の前を通ることになります。
 休日だからシャッターが閉まっていて誰も居ないだろうと思ってその前を通りかかったら、どうもそうでもありません。

            

 店の前にはトラックがでんと構え、社長や奥さんが懸命に例の「ガラクタ」を積み込んでいるのです。休日とはいえ、無視して通り過ぎるわけにはゆきません。
 一応車を降り、「休日なのにお精が出ますね」と声をかけました。
 その時です、社長の顔色がさっと変わったのです。
 しばらくの間私の顔を睨みつけるように凝視していました。
 やがてそれは懇願するような表情に変わりました。
 「六君、頼むから今日ここで見たことは忘れてくれ。決してあんたの迷惑になるようなことにはしないから」
 というのです。
 奥さんの顔を見たら、やはり手を合わさんばかりにしています。

            

 狐に化かされたような気持ちで、とにかくは子どもたちを公園に連れて行って遊ばせました。どれくらい経ったでしょうか、子どもたちが遊び疲れるのを待って帰途につきました。
 もうその社長の店の前は通るまいとしたのですが、交差点を横切るとき、そちらがチラッと見えました。まだトラックは止まっていましたが、先程より荷物は少なく、どうやら、一度どこかへ運んでもう一度取りに来たかのようでした。

 それっきりそれは忘れて休日の夜を過ごしたのでした。
 しかし、それがとんでもない事態の幕開けだとはまったく知る由もなかったのです。

            

 話が長くなりますのでこの続きは次回とします。
 写真は、その折り子どもたちを連れて行った公園の半世紀後の姿です。
 いわゆる岐阜公園が、長良川の近くの金華山麓あって表玄関のような公園だとしたら、こちらはその裏山筋に当たるところの公園です。
 ご覧のような猛暑日の午後、ほとんど人影はありません。

 こんなところで写真を撮っていると、まるで熱中症の予行演習のようですね。



 
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