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【玉砕・2】 死してなお残るもの?

2008-08-15 02:23:45 | 現代思想
 前回、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という「玉砕」の思想により、すぐる戦争の死者が増加した事実を述べてきましました。そしてそれが、ポツダム宣言受諾に反対する東条英機らにより、本土決戦、一億総玉砕にまで拡張されて主張されていたことを述べました。
 実際のところ、その主張が実現していたら、今日の私たちはなかったわけです。

 そうした主張の根拠は、「国体」を護持するためとのことだったのですが、一億総玉砕をも辞せず「国体」を護持すべきだというこの東条英機の思想はいったいなんでしょう。すべてが死に果てた末に、なおかつ護持されるべき国体とはいったいなんでしょう?

 
          飛び立ちてキチキチバッタ自己主張
 
 ここには、ある種、超越的とも言える狂気があります。
 というのは、一般的に言って戦争とは、政治や経済の延長といわれ、その国家や民族の主張や権益が犯されるという危機に直面してそれへの対応を力でもってなそうとしたり、あるいはその主張や権益の拡大を力でもってなそうとするところに起こります。
 とりわけ、近代における戦争はそうしたエコノミーの延長に他なりません。

 しかし、東条英機の戦争は、こうしたエコノミーの論理を超越してしまっているのです。どうしてかといえば、その主張や権益の基盤である国や民族をなげうち、最後にはその消滅をも意志してしまうのですから。
 その戦争を決断した当初の目的意識すらもはるかに越えて、戦争そのものをある種のカタルシスへと、あるいはナルシスティックな領域へと至らしめているからです。曰く「聖戦」。

 
           秋や立つ路上に仰臥セミコロン

 この聖戦とは何でしょうか。エコノミーの論理を越えること(越えたと幻想すること)によって、ある種のロマン派的要素への通路が開けているようです。
 それは、戦前の日本の文学者や哲学者が西欧の論理に対抗して打ち出した「近代の超克」とも通じるものでした。また、三島由紀夫をして、「遅れてきた青年」と言わしめたものでもありました。エコノミーの論理を超えた領域での聖なる生と戦い!

 確かに、ヨーロッパ近代が推し進めてきた近代合理主義=エコノミーの論理には、いわば銭もうけのいやらしさのようなものが付きまといます。
 しかし、それを超えると公言する考え方にも常に「いびつなもの」、あるいは狂気にも似たあるパッションが混入してしまうのです。
 上に見た日本の当時の言説もそうですが、同様にそれを越えると明言したソ連でのスターリニズム、ドイツでのナチズムにおいても、それらのいびつなパッションが混入し、結果としてより大きな悲惨を生み出してきたのは歴史の教えるところです。

 
          詐欺師ではないアオサギの目の配り

 しかしながら、ここでひとつの疑いを差し挟む余地があります。
 ナチズムやスターリニズム、そして日本の近代の超克派を含めてですが、それらは本当に西洋の近代合理主義に抵抗する思想だったのでしょうか。
 逆に、それら「いびつなもの」こそ、西洋合理主義をある方向へと極限にまで推し進めたところに発生したものものではないかという疑念すらあるのです。

 その疑いの根拠は次の点にあります。
 要するに、世界には私たちが目にしたり経験したりすること(現象)を越えた真実があり、それこそが「真理」であり、それをこそ重んずべきだという思想の存在です。現に私たちがあるあり方は間違いなのであり、それを越えた真理へと至るべきだというのです。
 現象を越えた真理が存在し、それに殉ずべきだという思想は、いささか単純化していえば、プラトンを嚆矢として、延々、西洋の理念を形作ってきた核心にあったものではないでしょうか(これはキリスト教とも関連するのですが、煩雑を避けるためそれには触れません)。

 この考え方のある極限こそが、ナチズムやスターリニズム、そして日本の近代の超克派を規定していたのではないかと思われるのです。唯一の真理、唯一の正義、それに裏打ちされた共同体への憧憬。

 ナチズムもスターリニズムも、そして日本の軍国主義も、真理や正義はわが方にあることを信じて疑いませんでした。そして、そのためには、相手を殺しても、自分が死んでもかまわないとしたのです。
 だからこそ、一億総玉砕という信じられない方針が出てくるのです。要するに、一億の民が死のうが真理や正義は残るということです。
 現象(具体的にこうであること)を越えた真理や正義が残るというのです。
 しかし、人が死に絶えても残る真理や正義とは何でしょうか?

    
            わが庵は栄枯を映す城の堀

 私たちは、そのカリカチュア(戯画化)をいろいろなところで見出します。
 例えば、ある意味でちょっと心痛むのですが、連合赤軍の事件もそうでした。そのもっと戯画化したものとしてオウム真理教事件を挙げてもいいでしょう。
 一見、西洋合理主義を批判したと称するものが、その実、その拡大再生産か、あるいはカリカチュアライズでしかないことは肝に銘じておくべきでしょう。

 そういえば、最近の無差別殺人の背景にある、自分の「本当の」居場所が見いだせない、従って、そうした状況を作り出している周辺や世の中に復讐し、それによって自分が死刑などの刑に処せられても致し方ない、という考え方も、一億総玉砕の思考に似ているかも知れません。

 そうしたいびつさが、西洋合理主義の必然的に行き着く先だとはいいませんが、少なくともその反対物ではなく、むしろその鬼子であるように思われるのです。
 そうだとすれば、その正嫡子は、今日のレッセフェール(自由放任=やりたいようにおやりなさい。ただし自己責任でね)に基づく新自由主義の世界なのでしょうか。しかし、それが格差社会という新たな閉塞を生み出すものであることは今日つとに語られているところです。
 
 一億総玉砕という閉塞、あるいは一見、寛容な包摂のなかにあるかにみえながら、その実、厳しい排除が見え隠れする格差社会という閉塞、これらのみが、私たちに与えられた自然なありようなのでしょうか?

 
         なんじゃいと言われひねもす立ちつくす
 
 私はもちろん、それに答える術を持ち合わせてはいまません。 
 また、むやみやたらの希望も持ちませんが、絶望もしません。

 何はともあれ、一億総玉砕という六三年前の危機を脱して生き延びてきたのですから、この命を正義や真理の犠牲になど供することなく、周りを見続け、考え続けてゆきたいと思うのです。

 もう一度いいます。
 もし、六三年前のあの一億総玉砕の東条英機の上奏が採用され、戦争が継続されていたならば、ちょうどその年の今日(8月15日)辺りから、原爆をはじめとする重火器による本土焦土化作戦は一段と激しさを増し、日本中を焼き尽くすまで継続されたことでしょう。

 その場合には、私はもちろん永らえることはなかったでしょうし、そして、何をじじいが寝ぼけたことを書いているかと思いながらこれを読んでいるあなた、あなたもこの世に存在してはいないはずなのですよ。









コメント (2)
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