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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【玉砕・1】 鬼太郎と東条英機

2008-08-13 17:56:12 | インポート
 戦争は悲惨なものです。これは何度言っても言い足りません。
 幼年期に私もその端くれを体験しました。戦後の混乱期も体験しました。
 身近で言えば、実父はビルマ(現ミャンマー)で戦死し、養父はハルビン郊外でソ連軍の捕虜となり、シベリア送りの後、九死に一生を得て帰還しました。

 戦争による悲惨は各方面にわたりますが、その最たるものは大勢の人が死ぬと言うことでしょう。直接の戦闘員に限らずです。
 以下に掲げるのは、第二次世界大戦における主要各国の死者数のグラフです。
 これ以外の国でも相当数の死者が出ていますが、それらを除いたこの表のみから計算しても、その総数は3,800万人ほどに達します。
 日本についていえば、戦闘員と民間の死者との合計は310万人ほどになりますが、日本が参戦することによって生じた死者は、自国並びにこの表に載っていない東南アジア諸国のものも合わせると、2,000万人に達するといわれています。

 
 
(表以外では、例えば ・インド 350万人うち餓死310万人余 ・ベトナム 200万人(餓死) ・インドネシア 400万人  ・フィリピン  111万1938人  ・朝鮮 20万人以上 ・ビルマ  5万人  ・シンガポール   5千人(虐殺) ・モルジブ 数千人(餓死)  ・ニュージランド  1万1625人 ・オーストラリア   2万3365人  他にタイ・ラオスなど)

 グラフで目を引くのは、ポーランドと中国では戦闘員より民間人の死者が圧倒的に多いと言うことです。
 ポーランドについては、ナチスによるユダヤ人殲滅作戦のによるものですし、中国においては当時、その地に展開していた相手国(どこか分かりますね)によると思われますが、ここでは敢えてそれを言い立てません。

 それから、日本よりはるかに多くの死者を出した国々には申し訳ないのですが、ここではもっぱら日本の死者について論じてみたいと思います。
 というのは、彼我の戦力からみてもともと無謀な開戦であったこと、その作戦面での幼稚さ(もっぱら精神主義による)などが死者を増やした要因であることはつとに知られていますが、今ひとつ、いたずらに死者を拡大した要因があるのです。

 以下は、右翼の街宣車などが定番としていて、「敵は幾万ありとてもすべて烏合(うごう)の勢(せい)なるぞ」で始まる 『敵は幾万』(山田美妙斎作詞・小山作之助作曲)という軍歌の三番です。

   敗れて逃ぐるは国の恥  進みて死ぬるは身の誉れ
   瓦となりて残るより  玉となりつつ砕けよや
   畳の上にて死ぬことは  武士の為すべき道ならず
   骸(むくろ)を馬蹄(ばてい)にかけられつ
   身を野晒(のざらし)になしてこそ 世に武士(もののふ)の義といわめ
   などて恐るる事やある などてたゆとう事やある


 この勇壮な歌詞に見られるように、どんなに軍事的に不利で絶望的であっても、決して降伏しなかったのが日本軍だったのです。
 しかもそれは、上の歌のような情緒的なものとして鼓舞されていたのみではなく、ちゃんとした決まりとしてあったのです。

 それは1941年1月に当時の陸軍大臣・東條英機が示達した訓令、いわゆる「戦陣訓」で、その第八には、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と明記されています。
 そしてそれが、降伏、投降を否定し非難する根拠として用いられ、先に引いた軍歌の「玉となりつつ砕けよや」という「玉砕」の強要として働いたのです。

 そんな中で、圧倒的に不利な状況下、武器弾薬をろくに持たないまま突撃を敢行し、相手の豊潤な火器の前にその身を晒し、いたずらに死骸を積み重ねる事態が続出したのです。 
 NHK名古屋局が昨年制作し、今年再放送された、「鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争~」はその間の経緯をセミドキュメントの方式で描いた優れたドラマでした。
 この舞台はバブアニューギニアなのですが、玉砕はここに止まりません。

 ざっと見ただけで、以下の箇所で、玉砕ないしはそれに似た事態が実際に起こったのです。そしてそのすべての場合において、もし、全員突撃の寸前で降伏さえしていれば、多くの人命が助かったのです。
 サイパンなどでは、戦闘員ではない女性や子供までスーサイドクリフ(標高約250メートルの山上の断崖)やバンザイクリフと呼ばれるところから、まずは我が子を突き落とし、やがて自らも「天皇陛下バンザ~イ」と叫びながら、次々と身を投げたのでした。

       
        米軍によりスーサイドクリフと呼ばれた断崖

* 1942年8月7日:ツラギにて日本軍玉砕。
* 1943年5月29日:アッツ島守備隊玉砕  2650
* 1943年11月22日:ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊玉砕 5千数百
* 1944年2月5日:マーシャル諸島クェゼリン環礁守備隊玉砕
* 1944年2月23日:マーシャル諸島ブラウン環礁守備隊玉砕
* 1944年7月3日:ビアク島守備隊玉砕
* 1944年7月7日:サイパン島守備隊玉砕  約2万
* 1944年8月3日:テニアン島守備隊玉砕
* 1944年8月11日:グァム守備隊玉砕  約2万
* 1944年9月7日:拉孟守備隊玉砕
* 1944年9月13日:騰越守備隊玉砕
* 1944年9月19日:アンガウル島守備隊玉砕
* 1944年11月24日:ペリリュー島守備隊玉砕
* 1945年3月17日:硫黄島守備隊玉砕  2万人
* 1945年6月23日:沖縄守備隊玉砕  19万うち94,000は民間人


 そしてついには、「次は本土決戦だ! 一億総玉砕だ!」などといわれたものでした。でもそれに至ることなく、「玉音放送」をもって敗戦は確定しました。
 単純な軍国少年だった私は、「何だ、本土決戦なんかないじゃないか」と虚しい思いをしたものも、やがて、戦後のどさくさと、怒涛のごとく押し寄せる進駐軍文化の喧噪の中で、そんなスローガンがあったことすらも忘れてしまったのでした。

 しかしです、一億総玉砕のプランは実際にあったのです。
 八月十二日の各紙が伝えるところに依りますと、先の「戦陣訓」で見た東条英機は、ポツダム宣言受諾を決めた御前会議に抗して、戦争の継続を主張し、「一億一人となるを(も?)敢然戦うべき」と上奏したというのです。

 もし、これが受け入れられていたとしたら、本土決戦と玉砕が敢行され、日本という国はとっくに壊滅していたでしょうし、私もまたこうして生きてはいなかったでしょう。
 これを読んでくれているあなたもですよ。
 本土決戦などというと、アメリカ軍が上陸してそれとドンパチやり合うというイメージですが、日本には既にそんな兵器も食糧もなかったし、またアメリカ軍も、わざわざ危険を冒して上陸する必要もなく、広島、長崎に落としたと同じものを各地に拡張すれば、日本という国はとっくに壊滅していたのです。

    
        突撃のあとで・・これが玉砕 (米軍撮影)

 私は改めて戦慄しました。
 そして、これを伝える同じ新聞が、「追憶の風景」と称して、水木しげる氏のパブアニューギニアでの状況を述べた記事(「朝日」12・8夕刊)を偶然、載せているのを見て、改めて感じました。
 パブアニューギニアでの玉砕命令の中で生き残った水木氏は幸運だと思っていたのですが、考えれば、一億総玉砕の瀬戸際で生き残った私も幸運なのかも知れないと・・。

 私は玉砕の思想を憎みます。
 それについての考察は次回に譲ります。

 




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