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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

夕日の煌めき 滅びの美学ではなく

2008-08-04 15:30:37 | フォトエッセイ
 下手なくせによく写真を撮ります。マニュアルでも撮りますがたいていはデジカメです。

    
      岐阜駅南口のペンシルビル(この名前は私の勝手な命名)

 何でもかんでも撮してしまうのですが、あるとき、そうしたものの中に面白い輝きを持つ写真があることに気づきました。面白いといっても私の撮影技術の問題ではありません。いわば偶然にそんなものがあったのです。
 自分でも何となく気に入って眺めていたのですが、それらの共通点に気づきました。

 
            愛知県芸術文化センター

 それらの写真はほとんど夕日を浴びた黄昏時前のものなのです。
 この時間帯、対象に当たる光の角度が違うため、太陽が天上にあり、あまねく光がゆきわたる真昼の光や色彩とは違った様相の光景が与えられるのです。
 おそらくそれは、夕日のみではなく、朝日に照らされたものも同様なのでしょうが、朝寝坊の私は、それを確認すべくもないのです。

    
         夕日を背に浴びて帰る人 名古屋市中区

 従って、ここに掲げたものは、すべて、この時期の午後5時以降の光景です。
 いかがでしょうか?
 夕日の光を感じていただけたでしょうか?

 え? 何も感じられない?
 あ、それはあなたの感受性の問題ではなく、私の写真が稚拙なために他なりません。
 
 
     ノリタケ・チャイナのウインドウ 夕日に陶器が輝く

 真横から射す夕日の力強さ。それは強烈で美しいと思います。
 しかしそれを、やがて黄昏に向かい、夜の闇の中に落ち込むがゆえの「消えゆく美しさ」として類型化はしたくはありません。
 なぜなら、その美しさは、そうした「滅びの美学」に意味づけられたり、そこへの過程として美しいのではなく、それ自身が美しいのです。
 滅びの美学は、往々にして滅び行くものの過渡としてしか対象を捉えることが出来ず、そんな人為的な物語とはまったく無縁な、それ自身がもつ美しさを取り逃がすように思います。

    
          建造物の煌めき 名古屋市千種区

 真昼の陽光からの逸脱でもなく、黄昏のプレリュードでもなく、夕日を一身に浴びたそれ自身の風景が好きです。







コメント (1)
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