六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「ぼく知らないもんね」の体系

2007-08-14 01:49:49 | 歴史を考える
 NHKスペシャル「A級戦犯は何を語ったのか~東京裁判・尋問調書より」を観てのとりあえずのメモです。

1)処刑された7人のうち、自分の罪を認めたのは、唯一の文民であった広田弘毅のみであったこと。

         
              広田弘毅
 
2)悪名高い『戦陣訓』で、「死して虜囚の辱めを受かるなかれ」と書き、多くの軍人と一般市民に降伏の機会を与えず、無為に殺した東条英機は、自らは自決に失敗し、その取り調べの中で、自分にも天皇にも戦争責任はないと語っていること。
 では、誰に責任があったかということについては、日本の海外進出を阻止した連合軍や、それに抵抗した中国の人たちにあったと広言してはばからないこと。
 真珠湾奇襲攻撃については、宣戦布告が届いているはずだったと言い訳をしていること。


         
               東条英機

3)南京の残虐事件については、当時の日本の外務省の文書にも現地からの報告としてあり、それによれば、あまりにも酷いのでやめさせるようにとのことで、広田外務大臣から陸軍大臣への申し入れがなされたこと。

4)判決への少数意見として、インドの判事が無罪を主張したが、それは共同謀議が成立するかのどうかの問題であって、その判事自体が南京での虐殺は許し難いと述べていること。

5)もうひとつの少数意見として、オーストラリアの判事が、前記の広田について無罪を主張しているが、その根拠は、当時の統帥権のありよう(後述)からして、広田は一連の軍部独走を阻止できる手段がなかったと主張していること。
 なお、判事ではないが、オーストラリアの検事は、昭和天皇裕仁を被告とすべきことを主張している。


6)先に触れた統帥権についてであるが、戦前の明治憲法下においても、一応、司法、行政、立法の三権分位があるように見えながら、それらを超越したものとして、天皇を大元帥とした統帥権の体系があり、閣議たりといえどもそれに言及することは出来ず、天皇の御意を掲げた軍部の独走を許したこと。

 私は、子どもの頃東京裁判があったことは知っていましたが、その詳細は知らず、こんなに沢山の人間が死んだのだから、誰かが責任をとるべきだろうぐらいに考えていました。
 今回、この番組を観て、この無責任な体制下において、日本人三百万人余、そして近隣諸国一千万人が死ななければならなかったのかと改めて憮然とした思いに駆られました。
 以上、とりあえずのメモです。





 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

六の時事川柳と朝青龍

2007-08-12 17:05:59 | 川柳日記
<今週の川柳もどき> 07.8.12

 衣装より中味を吟味して欲しい
  (国会でクールビズ論争)

 それでもまだ三分の二が納めてる
  (昨年の国民年金納付率66.3%)

 当分は九段坂にも近寄れず
  (8・15閣僚参拝取りやめ

 靖国にあらず御霊は千の風

 いろいろと取りざたされる岐阜一区
  (野田議員事務所御難、私の地元)

 アメリカで何やら派手な大はしゃぎ
  (小池防衛相、次期首相?)

 親方も精神治療いる気配
  (高砂親方、何となく不安定


          

朝青龍問題に思う
 
 朝青龍は軽率だったし、その責任も負うべきです。ただし、マスコミの常だが、尻馬に乗ったバッシングがいささかひどすぎるのではないでしょうか。

 モンゴルでサッカーに興じていたとのことですが、JANJANネット新聞によれば、その真相は以下のようなものです。
 
 サッカーの試合に出たわけではない。どうやらモンゴル政府主催のチャリティ・イベントが開催され、その主役は中田英寿だった。朝青龍が帰国しているということをモンゴル政府が知り、出場を要請。了承した朝青龍がイベントに顔を見せ、10分余り中田とともにサッカーをやる格好をしただけのようだ。
 その後朝青龍は、「朝青龍基金」からのプレゼントを子供たちに配った。「基金」はモンゴルでのチャリティ活動のため、朝青龍が設立していたものである。立派な社会貢献ではないか。
(引用ここまで)

 にもかかわらず、これがこんなに大騒ぎになったのは、朝青龍のこれまでの挙動などが累積された処罰なのでしょう。それはそれで仕方のない面があると思います。

 ただし、以下の件は心すべきであろうと思うのです。

1)この問題は、朝青龍問題であると同時に「日本相撲協会問題」でもあります。
 それをないがしろにし、横綱のスペアーが出来たからといっていきなり高飛車になるのはいかがなものでしょうか?協会のこれまでのだらしなさは問われなくていいのでしょうか?

2)朝青龍が外国人力士であり、しかもアジアの小国の出であることでバッシングが強まってはいないでしょうか?
 その背後に、民族差別やショービニズムが隠れていはしないでしょうか?

3)今なお、角界随一の実力者に対するいわれなきうっぷん晴らしがありはしないでしょうか?
 現在の北の湖理事長が現役時代、あまりの強さにいわれなき悪役として扱われたことがあったのを思い起こすべきでしょう。

4)国技とか相撲道とかいったスポーツ本来からいささか逸脱した倫理観に縛られすぎてはいなでしょうか?スポーツである以上、スポーツマンシップが尊重されるべきことは当然としても、それ以上の何か神秘的な価値に引きずられてはいないかと思うのです?

 私は、朝青龍がこの間の挙動を反省し、裁定を無事クリアーした上で、再び強い横綱として土俵に姿を見せることを望みます
 また、相撲協会は、変な外人枠や、余計な倫理観を取り除き、さらに開かれた道を進む以外に生き残る道がないことを知るべきだとも思います。名古屋場所での新人検査が遂に0人であったことをどう受け止めているのでしょうか

 私のいう開かれた道の先には、オリンピック競技への展望があるかもしれないと思うのです。

 念のために申し添えますが、私は朝青龍のファンではありません
 その朝青龍に、完膚無きまでに負け続けている琴光喜のファンなのです(お前、27回も同じ相手に負けるなよ!)。
 ただし、この数年間、だらしのない大関陣を尻目に、一人で角界を背負ってきた朝青龍に感謝していることは事実です。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんな紙切れを拾いました。

2007-08-11 15:41:31 | よしなしごと
     
       
           欠 席 届

 来る八月十五日の件ですが、せっかくご招待頂き、私もこの地位を得ましてからのはじめての昇殿参拝を楽しみに致しておりましたが、諸般の事情により、欠席を余儀なくされました
 これも、私めの不徳の致すところ、まことにもって申し訳なく存ずる次第です。

 しかし、捲土重来、今月末の人事一新など着々と復権を図っておりますので、それらが成功し、再び支持率が50%を越え、「美しい国」や「戦後レジームの解消」などと叫ぶことが出来ますような暁には、必ずや堂々と昇殿の上、参拝させて頂く所存ですので、なにとぞそれまでご猶予を頂きますよう、この段、お詫び旁々ご報告致します。

     

 そちらに合祀されていらっしゃるA級戦犯の方々はじめ、英霊の皆さんにくれぐれもよろしくお伝え下さい。
 その御霊前に、新たな憲法をお供えするため、粉骨砕身の努力を惜しまないものであることも、併せてお伝え下さい。

 追伸 これは大きな声では言えませんが、人の噂も75日とやら、マスコミなどに踊らされやすい愚民のこと、やがてはさまざまな批判などすっかり忘れ、寄らば大樹とばかり、わが党、並びに私めの所へ身をすり寄せてくるものと存じます。
 それまではひたすら低姿勢で耐える所存です(今に見ていろ馬鹿国民めが!)。

    靖国神社 御中
  
                    内閣掃除大臣
                       亞 辺 疹 憎



http://www3.nhk.or.jp/news/2007/08/11/d20070810000123.html





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テラ(地球)での寝心地はいかがですか?

2007-08-09 20:24:24 | よしなしごと
 皆さん、寝心地はいかがですか? 
 この暑さでさぞかし寝苦しいでしょうと思い、それを訊ねているのではありません。私はそれほど親切な人間ではありません

 実は皆さんのおやすみになっている布団の下には、皆さんの命を虎視眈々と狙うものが敷き詰められているのです。
 これは夏の夜の怪談、ホラーではありません。本当の話です。

 私たちは、こうした異常な状況にもはや半世紀にわたって住んでいるため、今や、その事実に鈍感になっています。若い人にとっては、生まれたときからそうですから、それは自然な条件のようなものにすら思われることでしょう。
 しかし、これは、実は人類史上、極めてまれな、ゾッとするような事態なのです。

 何のことかお分かりになったでしょうか?ヒントは、八月六日八月九日です。
 そうです、これは、広島と長崎に原爆が落とされた日です。
 これを契機に、世界は核の時代へと入りました。
 一見、平和に見えるこの世界のあちこちにはあの核兵器が厳然として存在しているのです。

 最初に、皆さんの寝心地を尋ね、布団の下にあるものを示唆しましたね。
 そうなんです、私たちは毎日、人類を五〇回以上にわたって絶滅できる兵器群が敷き詰められた上で生活し、そして眠っているのです。

 <photo src="1600912:4067007184">  
 広島に落とされたリトルボーイ    長崎に落とされたファットマン


 閑話休題、私の核体験について話しましょう。
 広島にも、長崎にもいなかった私は、直接の被害は受けなかったのですが、こんな体験を覚えています。

 天皇陛下のためにこの身を捧げ、華々しく散ることが人として生まれた者の使命だと思っていた小国民の頃でした。むろん、死が何たるかも知らず、そう教育され、ただただ観念的にそう信じていただけです。1945年頃のことでした。

 とはいえ、現実には、地方都市からより閉鎖的な田舎への疎開者にしか過ぎませんでした。
 当時、疎開者は幾分、その地では見下されていたように思います。
 それは多分、田舎から都市へと移住し、相対的に田舎にまさる生活を送っていた連中でも、結局はいざとなると田舎に頼らざるを得ないではないかという、ある種のルサンチマンを含んだものであったかも知れません。

 天皇を支えるという自負に満ちた私ではありましたが、やはり疎開者としての肩身の狭い思いをしていました。
 私の高潔な志にもかかわらず、実際には、米軍偵察機の嘲笑うような機銃掃射に逃げまどい、空襲警報が鳴る度に防空壕に逃げ込む毎日でしかありませんでした。

 そんなある日、広島に特殊爆弾が投下されたという情報が大人たちの間に飛び交いました。それは、これまでの焼夷弾でもなく、一トン爆弾でもなく、とてつもない範囲に被害をもたらす特殊な爆弾だというのです。

    
         これは長崎でのキノコ雲です。
         この下で何万もの人が・・。


 大人たちの間で、議論が沸騰しました。
 ある一派は、伝えられるところによれば、それはどうも光線爆弾だから、それを避けるために白いシーツなどをまとって防空壕まで逃げるべきだと主張しました。
 反対派は、白いものなど身につけたらそれこそ敵の標的になるようなものだと言い張ります。
 灯火管制で真っ暗闇こそが求められていた時代でした。
 両派の間で激しい論争が続きました。

 後から考えると、白かろうが黒かろうが原爆の威力の前にはほとんど変わりがないのですが、しかし、この論争は、まさに生死を賭けたものであり、今の時点でもこの論争のナンセンスさを笑うことは出来ないと思うのです。

 この特殊爆弾、光線爆弾こそ、原子爆弾でした。
 この兵器の出現は明らかにこれまでの兵器の持つ限界を越えるものでした。

 そのひとつは、それが使用された場合のその量的な被害が膨大で避けがたいことにあります。私たち一人一人がその前には無力です。一部の金持ちが、シェルターなどを用意しうるとしても、それは限られた層であり、しかも彼等が本当に生き延びる保証はないのです。

 もうひとつは、その残留効果の持続性にあります。残留放射能は、直接の被害を免れたものを容赦しません。それは時間に打ち込まれた楔として人を蝕み続けるのです。

      
         衛星から見たチェルノブイリ付近
 
 チェルノブイリの原発事故では、爆発時、およびその後で、周辺十一万の住民のうち四万人の死者(当時の閉鎖的なソビエト当局の発表)といわれましたが、その後、その処理に当たった延べ八〇万人の労働者うち五万人が放射能障害で死亡ともいわれる惨状を示し、事故後二十一年を経過した今でも、残留放射能などにより人が住める状態とはほど遠い有様です。
 
 この事故の要因は、設計上の問題、操作技術の問題など未だ確定されていませんが、その原因のひとつに、直下型地震があったというものもあり、先の柏崎刈羽原発のケースとの関連も懸念されます。

 人を殺傷する目的ではない原発の事故においてすらこの惨状ですから、それを直接の目的とした兵器としての核の爆発がいかに悲惨かは想像を絶するものがあります。
 
       
           説明は不要ですね。

 もうひとつは、現状の核保有が約10ヶ国の核保有国によるバランスオブパワーのもとにあり、その一角が崩れた折には、それらは連鎖反応を起こし、世界が核の炸裂下に置かれるという可能性が常にあるということです。その能力の総和は、既に延べたように、世界の人口を50回皆殺しに出来る機能を備えているといわれていますから、私たちの生き長らえる確率は極めて希少です。

 現実の核保有は、バランスオブパワーの元にあるからこそ、そのために平和が確保されているという主張があります。現実の政治過程の上で、そうした作用が全くないとはいえません。
 しかし、長期的にはそれは間違っています。道具というのは所詮使うために作られたものであり、使わないための道具というのはある種の言語矛盾なのです。
 少なくとも、いつかは使われる可能性を常に秘めているのです。

 要するに私たちのこの仮象の平和は、人類を何度も絶滅できる核の潜在力の上にそびえる砂上の楼閣にしか過ぎません。
 冒頭に述べましたように、私たちの歴史は、そうした核に敷き詰められた上に乗っかって既に半世紀を経過しています。そしてそれは、まるで今日の人間が生きる自然な条件であるかのように固定化されています

 核兵器は、これまでの兵器を超越し、人類の存否をも規定するものなのに、人々はすっかりそうした状況に馴染み、それを親しみやすい現実としてこれからも生きて行くのでしょうか。

 どうでしょう、今夜おやすみになる前に、この話を思い出して頂ければ、少しは涼しくおやすみ頂けるのではないでしょうか。
 ただし、おやすみになっている間に核戦争などが始まり、永遠におやすみになれる可能性もあるわけですが・・。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ナツメが実る村から」・・大野のり子の仕事

2007-08-08 04:01:13 | 催しへのお誘い
 2003年、北京に住む日本人女性が中国各地をめぐる旅をしていました。
 彼女が乗り合わせたバスが土砂崩れのため迂回して辿り着いた紅棗(ナツメ)が実る村、その村との出会いこそ、彼女にとって、またその記録を見る機会を得た私たちにとって、得難い歴史の実像を語る出会いとなるものでした。

 その出会いには二つの驚異があります。
 そのひとつは、戦後約60年、彼女がはじめてその村を訪れた日本人であったということです。
 もうひとつの驚異は、にもかかわらず、彼女がその村を訪れた最初の日本人ではなく、日中戦争の4年間にわたって、その村は日本軍の三光作戦(奪い尽くす、焼き尽くす、殺し尽くす)の対象であり、多くの死者や犠牲を被った村であったということです。

 こんな中、彼女に最初に話しかけた老婦人が、彼女が日本人であることを知るや、憤怒や憎悪をもって迎えたことは当然といえば当然です。

 しかし、彼女はめげませんでした。翌年には、戦争の実像をほとんど知らない若者たちと共に再びその村を訪れ、長老たちの戦争体験を聞いて回ったのです。こうした姿勢が村人たちの態度を和らげ、戦時体験を語る言葉が口をついて出るようになりました。

 そしてその翌2005年、なんと彼女はその村へ転居してしまうのです。
 決して生活して行く上で快適な村ではありません。「国家級貧困地区」に指定されているような場所です。
 私たちが今日聞く中国の大躍進からも取り残されているような場所です。

    

 そこで彼女は、もはや旅行者としてではなく、そこの住人として村人と生活を共にしながら、写真を撮り、村人の証言を聞き取ります。二年間にわたるそれは、写真、ヴィデオ、録音等、膨大な量だといいます。

 今回の「中国黄土高原紅棗(ナツメ)が実る村から」と題された写真展はその一部、写真と証言をコラボレイトしたものです。
 その証言内容は、そうした事実をすでにかなり知っている私にとっても衝撃的なものを含みます。
 
 しかし、私にとって感動的だったのは、それらを語る古老たちの表情でした。
 それは残念ながら私たちの住む日本では、孤島か僻地に僅かに残されているかもしれないというものでした。
 そして、ご当地中国においても、次世代はおそらくそうした表情を持ち得ないであろうような素晴らしい表情なのです。

 三光作戦で身内を失い、自身が危機にさらされ、そして今なお決して裕福ではない彼等の表情は、にもかかわらず、本当に生に根ざして精彩を放っているのです。

 こうした彼等の豊かな表情と、その証言内容の過酷さとの落差はある種の目眩を感じさせるようなものですが、これが間違いなく歴史なのです。
 そしてそれを引き出せたのが、通りすがりの旅行者や報道目的のジャーナリストではなく、かの地で共に生活をしている大野のり子なのでした。

    

 私はすべての人にこの展示に足を運ばれることをお勧めします。
 辛気くさい証言などいまさらという人は、それを読まなくても結構です。
 そこに撮された人々の表情を見てください。
 彼等は、私たちのこのこまごまとした時間と空間の呪縛を離れたところで生きているのです。
 癒し系?結構でしょう。彼等の表情には、商品化された癒しではない本物の癒しがあります。

 私は人に何か(映画や音楽や本など)を勧めることはあまりしないのですが、この写真展はお勧めです。

哲学的補足
 
 20世紀フランスの哲学者、レヴィナスは、人の顔(ヴィサージュ)という絶対的な他性の中に私たちの倫理の基盤を見いだします。
 それは、伝統的な西洋形而上学を越えるばかりか、それを批判したハイデガーの存在論をも越えようとするものでした。
 顔が語る「汝、殺すなかれ」は、あらゆる存在論的な規定に先立つ出発点にされたのでした。
 ここにはそうした顔があります。

感想ノートに関する補足

 会場には、これまでの会場のものも含めた「感想ノート」があります。
 大半は、そうした事実に遭遇した人の驚きと、それを明らかにした彼女への感謝と賛美ですが、それに混じって、果たせるかな、歴史修正主義的な人の書き込みが若干ありました。
 三光作戦自体が「なかったこと」であり、中国のプロパガンダに過ぎないという主張ですが、会場に展示された写真の顔たちは、そうした狭小なイデオロギーや国家間の利害などを越えたところで語っているのであり、そうした歴然とした事実に気圧されたのか、その筆は萎縮していました。

 はっきり言って、ここで描かれているものは日中の国益とか、現在の中国が抱えている様々な問題とは異なる次元における、そしてそれらを越えた人間のありように関する歴史の痕跡なのです。

大野のり子と六文錢の関係

 もう30年以上前から知り合いという怪しい関係です。もっというと、最初に知ったのは彼女の父親でした。
 さまざまな面で交流がありましたが、彼女はいつも毅然としていて、年齢差とは逆に、姉さん面した彼女からよく諫められたものでした。
 彼女が中国へ行ってからは淋しい思いをしているのですが、でも、こんないい仕事をして時折帰ってくる彼女は素敵だと思います

この写真展に関する今後の日程
  
  *8.7~8.12 名古屋中区役所 7階 市民ギャラリー
  *8.28~9.3 寝屋川市立ふれあいプラザ香里
  *9.8~16  埼玉県富士見市立中央図書館展示ロビー
  *11.1~11  松本市Mウイング 2F展示場
  *11.13~19 長野もんぜんぷら座 2Fギャラリー
  *11.22~25 京都大学11月祭 






コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

六の時事川柳 07.8.5

2007-08-05 17:25:06 | 川柳日記
<今週の川柳もどき> 07.8.5

選挙と安倍首相
 
 反省という言葉だけ空回り
  (何を反省か中味不明)
 絆創膏やっと一枚だけ剥がす
  (赤城氏更迭)
 火中の栗拾う者なくお日和見
  (ぶつぶつ言うが続投承認)
 仲良しは駄目と派閥がしゃしゃり出る
  (改造人事に向けて)
 後がない朝青龍安倍首相
  (著しい転落)

その他

 から字のオーナーに変わる
  (林野庁の緑のオーナー破綻)

 コシヒカリ幾分混じるコシノヤミ
  (ブランド米に異品種混入)

 石橋はやはり叩いて渡るもの
  (米で崩落)

 スペアーが出来て横綱疎まれる
  (朝青龍に厳罰)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「うれいはふかし」に残る違和感

2007-08-05 15:52:35 | 社会評論
    この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし

 これは1986年に昭和天皇が詠んだ歌で、靖国へのA級戦犯の合祀を天皇が嘆いた歌だと、8月4日付の各紙が伝えています。
 しばらく前にも、天皇がA級戦犯の合祀に不快感を表明したという側近の証言が報道されたことがあります。

 これらの史実は、確かにA級戦犯を擁護する右翼の人たちや、先の大戦を合理化する歴史修正主義者への牽制にはなるでしょう。
 その意味で、昭和天皇の「うれい」にある種の理解を持つとしても、そしてそのA級戦犯の合祀に反対する見解に賛同するとしても、なおかつぬぐいきれない違和感を持つのです。

       

 昭和天皇はA級戦犯を批判できる地点をどこに見いだしているのでしょうか。
 はっきり言って、この天皇のために命を捧げようと一度は誓った往時の小国民の私としては全く納得できません。

 確かに、日本の天皇制は、「無の焦点」などと抽象化されますが、その実体は、常に現実の支配者、蘇我氏であったり藤原氏であったり、平家であったり将軍であったりした者たちが、自らを神格化することなく、天皇の超越的な名辞を利用してこの国を統治してきたという事実のうちにあります。

 先の大戦においても、日本の実質的な支配者であるブルジョアジーと軍部によって天皇の神格化は余すところなく利用されました。しかし、利用された彼は本当に無罪なのでしょうか

 歴史上の支配者は、常にある階層や階級の利害関係のの象徴としてのみ人民の上に君臨します
 フランス革命のおいてのルイ王朝もそうでした。
 しかし、それ故に彼等は処刑されました。
 彼等を処刑することが、アンシャンレジームとの決別の行為だったのです。

        

 それに反し、昭和天皇は現人神から人間へという若干の手直しの後、現憲法が規定するような象徴として生き長らえました。その不徹底さが今日まで至る戦争責任追求の曖昧さや、歴史修正主義の台頭にまで繋がる事態をうみだしているのだと思います。アンシャンレジームとの決別の不徹底です。

 昭和天皇を処刑せよというのではありません。
 しかし、少なくとも彼は無罪ではありませんでした
 絶対王制の名においてルイやアントワネットが処刑されたほどには有罪でした。

 彼が生き延びたのは、来るべき冷戦における日本の戦略的位置に関するアメリカのプラグマティックな対応であることは今日常識といえるでしょう。

      

 右翼的な人々は、昭和天皇の人格に感心したマッカーサーがその延命を決定したというような伝説を流布しています。
 しかし、事態は全く逆で、昭和天皇がモーニング姿でマッカーサーの軍司令本部を表敬訪問した歴史的な写真があるのですが、その彼我の貫禄の相違、表情の精彩の有無を見て日本人の大半は、敗戦を実感し、天皇は神ではなかったことを知ったのでした。

 せめてこの時点で退位することがあって然るべきだったと思います。

 従って、既に述べたように、彼がA級戦犯をどのような立場から忌避するのかがよく分からないのです。多くの兵士や市民が、天皇の名において死に追いやられたにもかかわらずです。
 私には、天皇のA級戦犯非難の見解は、それ自身は正当であるとしても、ある種彼自身の自己正当化に聞こえてしまうのです。

     

 そして、あるシーンを連想するのです。
 それは、1956年のソビエト同盟の第20回大会でのフルシチョフの秘密報告の場面です。
 この秘密報告で、スターリンの過ちと抑圧的なありようがが完膚無きまであからさまにされるのですが、とりわけ衝撃的なのは、中央委員の総数の三分の二以上が、さまざまな理由で処刑されていたという事実でした。

 彼等はスターリンの政策に批判的であったり、あるいはそうでなくとも「人民の敵」といういわれなき嫌疑でいわば見せしめ的に処刑されていたのでした。

 それらの報告の後、ある代議員が質問をしました。
 「同志フルシチョフ、そのときあなたはどこにいましたか?」

                         広島原爆忌の前日に・・。


           
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私という鏡と乱反射

2007-08-04 15:48:22 | フォトエッセイ
 反射(reflection)は実物の影であり、副次的なものとされてきました。
 実物、実像のようなものがまずあって、反射で得られた像はその模写、あるいは、反射という作用によっていくぶん歪められた仮の像、写しでしかないように思われて来ました。

 むろんそれはその通りで、反射は何ものかの写しでしかありません。

 

 しかし、写しではないものというのは果たしてあるのでしょうか?
 実物とか実像といわれるもの自身が、私という鏡に写し出されたひとつの像にすぎないのではないでしょうか。

 そうすると、実像と仮象との違い、その確からしさの違いは、私の確からしさの問題ということになります。

 

 私という鏡の写し出しが確かだという保証はどこにあるのでしょう。
 私が私だからというのでは堂々巡りですね。
 しかし、その堂々巡りを一応認めましょう。その上でさらにこう問うことが出来ます。
 私は本当に私なのかと。

 私という鏡自体が作られたもの、つまり「私」以外の要因によって作られている可能性は充分あります。
 私の肉体的な特徴は、遺伝子とその後の生育環境によってるくられています。
 私の感性も歴史的、社会的に作られてきました。
 知性などというものも、教育や、先達からの学びによって得られたものです。

 私はそれらの結び目のようなものです。要するに、私は私ではないものによって作られています。
 私は、私であると同時に私ではありません

 

 そうすると、私に写ったものと、私以外のものに写ったものとの確からしさの違いは曖昧になってきます。
 私という鏡に映ったもののみが正しい反射、唯一の反射という根拠はなくなってきます。
 
 私たちはさまざまな反射からある反射をその都度、選択しているにすぎないのではないでしょうか。そして、むしろ、その選択の中で私たちが作られているのではないでしょうか。

 だから、自分がオリジナルな実物や実像の近くにいるというのはきっと幻想なのでしょう。
 そうしたオリジナルそのものは、もともと不在なのであり、私たちはそれぞれその痕跡のうちにあるのかも知れません。

    
 それはまた、私がさまざまな反射を見渡せる地点にいるということではなく、私自身がそうした反射のひとつでしかないということをも意味しているようです。
 
 私は今、乱反射しています
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

去りゆく人へのオマージュ

2007-08-02 16:30:30 | ラブレター
 赤城農林水産大臣様のご辞任、まことにもって残念です。
 
 あなたは、安倍内閣でもっとも秀でたエンターティナーであり、その豊かなパフォーマンスをもって、私たちに数々の笑いを提供し、あまつさえ、政治という場で何がリアルなのかをさりげなく示すという優れた技量を発揮されました。

 事務所費の問題はもとより、ハンカチ王子の向こうをはった絆創膏とガーゼの複合効果、領収書の複写による量産という誰もがなし得なかった資源の再利用に関する創意工夫、北京へ日本米の宣伝に行かれ、日本食のパーティの後、激しい下痢に襲われるという、まるで、「日本米を食べると・・」といわんばかりの宣伝効果・・。

 
 こうしてあなたのご功績を回顧するとき、私たちが、まだまだ今後とも面白いパフォーマンスにお目にかかれそうだと期待することはご理解頂けるでしょう。

 例えば、今度はマルガリータに眼帯で現れるとか、予定していらっしゃった渡米の歓迎パーティで、アメリカ牛を食した途端ひきつけを起こされるとか、私たちの期待はいや増しに膨らむのでございました。

 にもかかわらず、今回のご辞任、まことにもって残念です。
 松岡氏が鬼籍に入り、久間氏も去った今、エンターティメント性豊かな大臣としては「アルツハイマー発言」の麻生様のみとはまことに淋しい限りです。

 それにしても、赤城様は、その去り際に際しても、自らのご辞任を、首相との間の「阿吽の呼吸」と形容され、私たちの笑いを誘うなど、徹頭徹尾サービスに努められたのはご立派というほかありません。

 ご苦労様でした。安らかにおやすみ下さい。

 


安倍総理大臣殿
 
 来るべき改造人事に当たっては、赤城氏にまさるとも劣らぬエンターティナーを入閣させて頂きますよう、切にお願いするものです。
 
 あなたの政策やご手腕に、もはや見るべきものがない以上、その閣僚の方々のパフォーマンスやエンターティナーぶりのみが私ども国民にとっての唯一の楽しみであり、慰めであります。

 私どもは、それらを拝見させて頂きながら、来るべき衆議院選挙までの実質的な政治の空白期間を耐えて参る所存です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

季節?そこで生きているのか?私たちは?

2007-08-01 15:38:22 | フォトエッセイ
写真の説明以下のものは、すべて、私の家から半径三百メートル以内で、この時期、実を結びつつあるさまざまな果実です。
 他にも、ナス、キュウリ、トマト、インゲン、などなどがあるのですが、これらはすべて、いわゆる露地物です。


 ============================

 ちょっと変な話ですが、人間のみが季節感を持つということについて考えてみます。

 異論があるかもしれません。人間より、自然の方が季節に敏感なのではないかと。
 それはそうだと思います。しかし、自然は季節感を持つから季節に対応するのではないと思います。
 なぜなら、自然の変転そのものが即、季節なのですから。

 
        椿の実です。硬そうですね。

 その意味では、人間のみが季節感というものの仲立ちの中で季節を感じ、それに対応するのではないでしょうか。
 暑くなったなとか、寒くなったなとか、もうこんな花がとかいった具合にです。
 こうして人間はその季節に対応するのですが、その仕方には二通りがあるように思われます。

 
       鬼灯(ほおずき)。これから活躍。

 そのひとつは、その季節のありように自分を調和させる方向です。
 暑ければ汗をかき、裸になり、水を浴びたりするといったことです。
 寒ければふるえ、せいぜい重ね着をします。
 こうして、その暑さや寒さに身を任せたり、あるいは、楽しんだりします。

 
        ザクロ。まだ子どもです。

 もうひとつは、その季節に逆らい、季節間の違いを薄めたり、なくしたりする方向での対応です。
 典型的で分かりやすいのは冷暖房ですが、他にも、季節の旬を無視した野菜や花などの栽培と流通があります。
 工場生産として作られ、年中市場に出回る野菜たちの本来の収穫時は、もう、すっかり分からなくなってしまいました。
 世界中から掻き集められるとなおさら分からなくなります。
 もう松茸すらでているのですから(子どもの頃から「まったけ」といっていたので、ついそれでタイピングするのだが「松茸」とは出てこない)。

 
  近くに畑の持ち主らしいおばちゃんがいたので、「西瓜は盗らんよ。写真撮るだけだから」といったら、「写真なら減らへんで、いっくらでも撮っていきんさい」とバリバリの岐阜弁!

 魚にしたってそうです。
 昔は日本の沿岸に接近した時期に獲ったのですが、今はこちらから出迎えて獲ってしまうので、どんどん時期が先行します。

 カツオなどもその例です。

    目には青葉山ほととぎす初鰹(素堂)

 などとかつては詠まれたのですが、今は青葉どころか桜の前に、しかも一月や二月に、初物が入荷します。
 サンマもそうです。秋の味覚の筈が、七月半ばにはもう新物が出てきます。
 ですから、肝心のには、もう飽きが来てしまう有様です(ここんところ洒落ですからそのつもりで読んでね)。

 これに、冷凍ものや養殖もの、輸入ものを加えると、もはや魚介類からも季節を云々することはほとんど不可能となります。

 
      西瓜のすぐ南側にあって、こちらは南瓜。

 こうした季節の間の違いをなくして行く方向はどんどん強まるでしょう。
 そしてそれは、最初に述べた、人間のみが季節感を持ち、それぞれの季節に対応するということ自体が怪しくなってきていることを意味します。
 何かの危機状態で人工的なインフラが取り払われ、裸で季節と向かい合わねばならないとき、私たちのどれだけが生き残れることでしょう。

    
            トンモロコシ

 人間は、次第に、季節の変化とは関わりのない無機的な時間を生きるようになってきたことは確かです。
 こうした季節の平準化は、同時に、人々の感性の、そして人間そのものの平準化をも意味するのではないでしょうか。
 なんてことを、炎天下を歩いた後で、冷房の効いた建造物に辿り着いて考えたのでした。

    
       珊瑚樹の実。珊瑚の玉のようだから。

 そして同時に、昔、好きだった泉谷しげるの『春夏秋冬』という歌を思い出したのでした。

    季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち  
    夢のない家を出て、愛のない人に逢う
    人のために良かれと思い、西から東へかけずり回る  
    やっと見つけた優しさは、いともたやすくしなびた
    春を眺める余裕もなく、夏を乗り切る力もなく  
    秋の枯れ葉に身を包み、冬に骨身をさらけ出す
    今日で全てが終わるさ、今日で全てが変わる  
    今日で全てが報われる、今日で全てが始まるさ

                   (以下略)

 
 
        その珊瑚樹全体を見渡すと・・。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする