皆さん、寝心地はいかがですか?
この暑さでさぞかし寝苦しいでしょうと思い、それを訊ねているのではありません。私はそれほど親切な人間ではありません。
実は皆さんのおやすみになっている布団の下には、皆さんの命を虎視眈々と狙うものが敷き詰められているのです。
これは夏の夜の怪談、ホラーではありません。本当の話です。
私たちは、こうした異常な状況にもはや半世紀にわたって住んでいるため、今や、その事実に鈍感になっています。若い人にとっては、生まれたときからそうですから、それは自然な条件のようなものにすら思われることでしょう。
しかし、これは、実は人類史上、極めてまれな、ゾッとするような事態なのです。
何のことかお分かりになったでしょうか?ヒントは、八月六日と八月九日です。
そうです、これは、広島と長崎に原爆が落とされた日です。
これを契機に、世界は核の時代へと入りました。
一見、平和に見えるこの世界のあちこちにはあの核兵器が厳然として存在しているのです。
最初に、皆さんの寝心地を尋ね、布団の下にあるものを示唆しましたね。
そうなんです、私たちは毎日、人類を五〇回以上にわたって絶滅できる兵器群が敷き詰められた上で生活し、そして眠っているのです。
<photo src="1600912:4067007184">
広島に落とされたリトルボーイ 長崎に落とされたファットマン
閑話休題、私の核体験について話しましょう。
広島にも、長崎にもいなかった私は、直接の被害は受けなかったのですが、こんな体験を覚えています。
天皇陛下のためにこの身を捧げ、華々しく散ることが人として生まれた者の使命だと思っていた小国民の頃でした。むろん、死が何たるかも知らず、そう教育され、ただただ観念的にそう信じていただけです。1945年頃のことでした。
とはいえ、現実には、地方都市からより閉鎖的な田舎への疎開者にしか過ぎませんでした。
当時、疎開者は幾分、その地では見下されていたように思います。
それは多分、田舎から都市へと移住し、相対的に田舎にまさる生活を送っていた連中でも、結局はいざとなると田舎に頼らざるを得ないではないかという、ある種のルサンチマンを含んだものであったかも知れません。
天皇を支えるという自負に満ちた私ではありましたが、やはり疎開者としての肩身の狭い思いをしていました。
私の高潔な志にもかかわらず、実際には、米軍偵察機の嘲笑うような機銃掃射に逃げまどい、空襲警報が鳴る度に防空壕に逃げ込む毎日でしかありませんでした。
そんなある日、広島に特殊爆弾が投下されたという情報が大人たちの間に飛び交いました。それは、これまでの焼夷弾でもなく、一トン爆弾でもなく、とてつもない範囲に被害をもたらす特殊な爆弾だというのです。
これは長崎でのキノコ雲です。
この下で何万もの人が・・。
大人たちの間で、議論が沸騰しました。
ある一派は、伝えられるところによれば、それはどうも光線爆弾だから、それを避けるために白いシーツなどをまとって防空壕まで逃げるべきだと主張しました。
反対派は、白いものなど身につけたらそれこそ敵の標的になるようなものだと言い張ります。
灯火管制で真っ暗闇こそが求められていた時代でした。
両派の間で激しい論争が続きました。
後から考えると、白かろうが黒かろうが原爆の威力の前にはほとんど変わりがないのですが、しかし、この論争は、まさに生死を賭けたものであり、今の時点でもこの論争のナンセンスさを笑うことは出来ないと思うのです。
この特殊爆弾、光線爆弾こそ、原子爆弾でした。
この兵器の出現は明らかにこれまでの兵器の持つ限界を越えるものでした。
そのひとつは、それが使用された場合のその量的な被害が膨大で避けがたいことにあります。私たち一人一人がその前には無力です。一部の金持ちが、シェルターなどを用意しうるとしても、それは限られた層であり、しかも彼等が本当に生き延びる保証はないのです。
もうひとつは、その残留効果の持続性にあります。残留放射能は、直接の被害を免れたものを容赦しません。それは時間に打ち込まれた楔として人を蝕み続けるのです。
衛星から見たチェルノブイリ付近
チェルノブイリの原発事故では、爆発時、およびその後で、周辺十一万の住民のうち四万人の死者(当時の閉鎖的なソビエト当局の発表)といわれましたが、その後、その処理に当たった延べ八〇万人の労働者うち五万人が放射能障害で死亡ともいわれる惨状を示し、事故後二十一年を経過した今でも、残留放射能などにより人が住める状態とはほど遠い有様です。
この事故の要因は、設計上の問題、操作技術の問題など未だ確定されていませんが、その原因のひとつに、直下型地震があったというものもあり、先の柏崎刈羽原発のケースとの関連も懸念されます。
人を殺傷する目的ではない原発の事故においてすらこの惨状ですから、それを直接の目的とした兵器としての核の爆発がいかに悲惨かは想像を絶するものがあります。
説明は不要ですね。
もうひとつは、現状の核保有が約10ヶ国の核保有国によるバランスオブパワーのもとにあり、その一角が崩れた折には、それらは連鎖反応を起こし、世界が核の炸裂下に置かれるという可能性が常にあるということです。その能力の総和は、既に延べたように、世界の人口を50回皆殺しに出来る機能を備えているといわれていますから、私たちの生き長らえる確率は極めて希少です。
現実の核保有は、バランスオブパワーの元にあるからこそ、そのために平和が確保されているという主張があります。現実の政治過程の上で、そうした作用が全くないとはいえません。
しかし、長期的にはそれは間違っています。道具というのは所詮使うために作られたものであり、使わないための道具というのはある種の言語矛盾なのです。
少なくとも、いつかは使われる可能性を常に秘めているのです。
要するに私たちのこの仮象の平和は、人類を何度も絶滅できる核の潜在力の上にそびえる砂上の楼閣にしか過ぎません。
冒頭に述べましたように、私たちの歴史は、そうした核に敷き詰められた上に乗っかって既に半世紀を経過しています。そしてそれは、まるで今日の人間が生きる自然な条件であるかのように固定化されています。
核兵器は、これまでの兵器を超越し、人類の存否をも規定するものなのに、人々はすっかりそうした状況に馴染み、それを親しみやすい現実としてこれからも生きて行くのでしょうか。
どうでしょう、今夜おやすみになる前に、この話を思い出して頂ければ、少しは涼しくおやすみ頂けるのではないでしょうか。
ただし、おやすみになっている間に核戦争などが始まり、永遠におやすみになれる可能性もあるわけですが・・。
この暑さでさぞかし寝苦しいでしょうと思い、それを訊ねているのではありません。私はそれほど親切な人間ではありません。
実は皆さんのおやすみになっている布団の下には、皆さんの命を虎視眈々と狙うものが敷き詰められているのです。
これは夏の夜の怪談、ホラーではありません。本当の話です。
私たちは、こうした異常な状況にもはや半世紀にわたって住んでいるため、今や、その事実に鈍感になっています。若い人にとっては、生まれたときからそうですから、それは自然な条件のようなものにすら思われることでしょう。
しかし、これは、実は人類史上、極めてまれな、ゾッとするような事態なのです。
何のことかお分かりになったでしょうか?ヒントは、八月六日と八月九日です。
そうです、これは、広島と長崎に原爆が落とされた日です。
これを契機に、世界は核の時代へと入りました。
一見、平和に見えるこの世界のあちこちにはあの核兵器が厳然として存在しているのです。
最初に、皆さんの寝心地を尋ね、布団の下にあるものを示唆しましたね。
そうなんです、私たちは毎日、人類を五〇回以上にわたって絶滅できる兵器群が敷き詰められた上で生活し、そして眠っているのです。
<photo src="1600912:4067007184">
広島に落とされたリトルボーイ 長崎に落とされたファットマン
閑話休題、私の核体験について話しましょう。
広島にも、長崎にもいなかった私は、直接の被害は受けなかったのですが、こんな体験を覚えています。
天皇陛下のためにこの身を捧げ、華々しく散ることが人として生まれた者の使命だと思っていた小国民の頃でした。むろん、死が何たるかも知らず、そう教育され、ただただ観念的にそう信じていただけです。1945年頃のことでした。
とはいえ、現実には、地方都市からより閉鎖的な田舎への疎開者にしか過ぎませんでした。
当時、疎開者は幾分、その地では見下されていたように思います。
それは多分、田舎から都市へと移住し、相対的に田舎にまさる生活を送っていた連中でも、結局はいざとなると田舎に頼らざるを得ないではないかという、ある種のルサンチマンを含んだものであったかも知れません。
天皇を支えるという自負に満ちた私ではありましたが、やはり疎開者としての肩身の狭い思いをしていました。
私の高潔な志にもかかわらず、実際には、米軍偵察機の嘲笑うような機銃掃射に逃げまどい、空襲警報が鳴る度に防空壕に逃げ込む毎日でしかありませんでした。
そんなある日、広島に特殊爆弾が投下されたという情報が大人たちの間に飛び交いました。それは、これまでの焼夷弾でもなく、一トン爆弾でもなく、とてつもない範囲に被害をもたらす特殊な爆弾だというのです。
これは長崎でのキノコ雲です。
この下で何万もの人が・・。
大人たちの間で、議論が沸騰しました。
ある一派は、伝えられるところによれば、それはどうも光線爆弾だから、それを避けるために白いシーツなどをまとって防空壕まで逃げるべきだと主張しました。
反対派は、白いものなど身につけたらそれこそ敵の標的になるようなものだと言い張ります。
灯火管制で真っ暗闇こそが求められていた時代でした。
両派の間で激しい論争が続きました。
後から考えると、白かろうが黒かろうが原爆の威力の前にはほとんど変わりがないのですが、しかし、この論争は、まさに生死を賭けたものであり、今の時点でもこの論争のナンセンスさを笑うことは出来ないと思うのです。
この特殊爆弾、光線爆弾こそ、原子爆弾でした。
この兵器の出現は明らかにこれまでの兵器の持つ限界を越えるものでした。
そのひとつは、それが使用された場合のその量的な被害が膨大で避けがたいことにあります。私たち一人一人がその前には無力です。一部の金持ちが、シェルターなどを用意しうるとしても、それは限られた層であり、しかも彼等が本当に生き延びる保証はないのです。
もうひとつは、その残留効果の持続性にあります。残留放射能は、直接の被害を免れたものを容赦しません。それは時間に打ち込まれた楔として人を蝕み続けるのです。
衛星から見たチェルノブイリ付近
チェルノブイリの原発事故では、爆発時、およびその後で、周辺十一万の住民のうち四万人の死者(当時の閉鎖的なソビエト当局の発表)といわれましたが、その後、その処理に当たった延べ八〇万人の労働者うち五万人が放射能障害で死亡ともいわれる惨状を示し、事故後二十一年を経過した今でも、残留放射能などにより人が住める状態とはほど遠い有様です。
この事故の要因は、設計上の問題、操作技術の問題など未だ確定されていませんが、その原因のひとつに、直下型地震があったというものもあり、先の柏崎刈羽原発のケースとの関連も懸念されます。
人を殺傷する目的ではない原発の事故においてすらこの惨状ですから、それを直接の目的とした兵器としての核の爆発がいかに悲惨かは想像を絶するものがあります。
説明は不要ですね。
もうひとつは、現状の核保有が約10ヶ国の核保有国によるバランスオブパワーのもとにあり、その一角が崩れた折には、それらは連鎖反応を起こし、世界が核の炸裂下に置かれるという可能性が常にあるということです。その能力の総和は、既に延べたように、世界の人口を50回皆殺しに出来る機能を備えているといわれていますから、私たちの生き長らえる確率は極めて希少です。
現実の核保有は、バランスオブパワーの元にあるからこそ、そのために平和が確保されているという主張があります。現実の政治過程の上で、そうした作用が全くないとはいえません。
しかし、長期的にはそれは間違っています。道具というのは所詮使うために作られたものであり、使わないための道具というのはある種の言語矛盾なのです。
少なくとも、いつかは使われる可能性を常に秘めているのです。
要するに私たちのこの仮象の平和は、人類を何度も絶滅できる核の潜在力の上にそびえる砂上の楼閣にしか過ぎません。
冒頭に述べましたように、私たちの歴史は、そうした核に敷き詰められた上に乗っかって既に半世紀を経過しています。そしてそれは、まるで今日の人間が生きる自然な条件であるかのように固定化されています。
核兵器は、これまでの兵器を超越し、人類の存否をも規定するものなのに、人々はすっかりそうした状況に馴染み、それを親しみやすい現実としてこれからも生きて行くのでしょうか。
どうでしょう、今夜おやすみになる前に、この話を思い出して頂ければ、少しは涼しくおやすみ頂けるのではないでしょうか。
ただし、おやすみになっている間に核戦争などが始まり、永遠におやすみになれる可能性もあるわけですが・・。