私は神の声を聞いたことがあります。私をカルト扱いしてもかまいません。当時の日本人はみんなカルト信者だっのですから。
1945年、8月15日、暑い日でした。夏休みまっただ中、田舎のこともあって、私たち子どもはほとんど裸同然で遊び回っていました。それに、その日は空襲警報もありませんでした。
昼少し前、母が呼びに来ました。何でも昼に、やんごとなき方の放送があり、こぞってそれを聞かなければならないこと、そのためにちゃんと正装をしなければならないとのことなのです。
こうして、白いシャツとズボンをはかされた私は、ラヂオの前に正座させられました。
疎開先の母屋の住人たちほぼ10人、その縁者である私たちのような疎開者が数人、そして、近所のラヂオがない家の人たちが数人、総勢20人ほどだったと思います。
やがてチューニングの悪いラヂオから、なんだか少しうわずった、漢語ばかりのお経のような聞きなれない言葉が流れてきました。
これが私が、そしてその回りの人たちがはじめて聞いた現人神、昭和天皇の玉音だったのです。
玉音を録音する昭和天皇
間もなく、その変な日本語らしき神のみ言葉は終わったのですが、私はもちろん、回りの大人たちのほとんどが、それが何を言っていたのかさっぱり分からなかったのでした。
しかし、中に少しは学のあるのがいて、その人がつぶやくように言いました。
「戦争に負けたんや」
回りは半信半疑でした。まだ、昨日まで、大本営は我が軍の戦果を華々しく伝えていたのですから。
「じゃあ、本土決戦はどうなるんじゃ」
誰かがいいました。
そう、本土決戦があるはずだったのです。そこでは一億総火の玉で、一人一殺、鬼畜米英を迎え撃つはずだったのです。そのために竹槍の訓練も行ってきたのです。
「そんなもんはもうない」
彼は吐きすてるように言いました。
あちこちからの情報で、彼が正しかったことが次第に明らかになってきました。
不思議とパニックは起きませんでした。大人たちはけだるい表情で、農作業に出かけたりしました。
ただ、一部の、主に旦那衆ですが、鬼畜米英の暴虐を恐れて、隠匿していた貴金属(一般家庭からは、献納という形でとっくに召し上げられていました)などを持って近くの山林に逃げた人がいました。やがてそれらの人も、様子をうかがいながら、恐る恐る帰ってきました。
鬼畜米英もこんな片田舎までは手が回らないらしく、しばらくはその姿を見ることもありませんでした。
四キロほど離れた町に住む叔母がやってきて、その町の駅前で彼等の一団を見たが、何ということもなかったと言っていました。枝豆を食べていたどっかの子に、それは何だと訊ねていたなどといっていました。
連合軍総司令官、ダグラス・マッカーサー
夏休みが終わりました。しかし、登校すべき学校はありませんでした。
夏に入る前の、ほんの付け足しのような空襲ですっかり焼け落ち、校庭の栴檀の樹のみが一本、虚しく残っていました。
授業は、あちこちの寺や、焼け残ったちょっとした工場などで、行われることになりました。
その工場は、機銃掃射で天井に穴が空いていたため、雨降りには傘をさしての授業でした。
授業の最初は、教科書の墨塗りでした。
教師が、何ページの何行目から何行目までと指示し、それに従って墨を塗りました。ところによっては、ほとんど一頁をすべて塗らねばなりませんでした
ドジな私は、教師の指示する頁とは違うところを塗ってしまって、笑われたり叱られたりしました。
あとで知ったのですが、その頃、軍部はむろん、各省庁や役場でも都合の悪い書類などはすべて焼却していたのでした。ですから、歴史修正主義といわれる人たちが、今になって、そんな公式文書などないと居直るのはいかがなものかと思ってしまうのです。
いつの間にか私たち子どもは、鬼畜米英を待ちわびるようになっていました。
風の便りによると、彼等は、チョコレートとかガムといったものをくれるらしいのです。
そうしたものがあるとは話には聞いてはいましたが、そんなものは見たこともなかったのです。
私たちは、四キロほど離れた町にいるという彼等が、私たちの集落へ姿を現すのを今か今かと待ちかまえていました。
遂にある日、彼等はやって来ました。未舗装の道を土煙を上げながら二台のジープに分乗してやって来たのです。
私たちは、わらじ(ズック靴は金持ちの子だけでした)の紐も切れよとばかりに駆け、ジープと併走しながら声を限りに叫びました。
「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」
しかし、無情にもジープは私たちの傍らをいっそうスピードを上げて駆け抜けて行くのです。
それでも私たちは、追いすがるように駆け続け、なおも叫び続けました。
「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」
ジープの巻き上げる土埃が私たちを襲いました。鼻からも口からもそれが入ってきます。
それでも私たちは叫ぶのをやめませんでした。
「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」
まるでそれが、あの予定されていた本土決戦であったかのように・・。
現人神の肉声を聞き、鬼畜米英を目の当たりにした夏、私は、天皇のため、お国のために命をなげうつ小国民の覚悟を脱ぎ捨てたのでした。
この時期になると、あの折の自分の声がこだまするような気がします。
わらじ履きで必死に駆けながら叫んだあの声が・・。
「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」
「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」
日本中のほとんどの都市で、こうした無差別絨毯爆撃がおこなわれた。
*日本の敗戦の確定がいつなのかには諸説があります。
45年8月14日 ボツダム宣言受諾
45年8月14日 昭和天皇の詔書発令
玉音放送録音
45年8月15日 玉音放送公開
45年9月2日 全面降伏文書調印
しかし、私見によれば、1944年段階で既に敗戦は確定していたのであり、それが引き延ばされたことにより、自国や他国の多くの人の人命が奪われました。
その段階で敗戦を認めていれば、広島や長崎の原爆もなく、本土の無差別爆撃も避けることが出来て多くの人命が救われたと思うと、当時の硬直した天皇絶対主義国家のオカルト的な(例えば、最後には神風が吹いて日本が勝つといった)政策の愚かしさが本当に恨めしいのです。
1945年、8月15日、暑い日でした。夏休みまっただ中、田舎のこともあって、私たち子どもはほとんど裸同然で遊び回っていました。それに、その日は空襲警報もありませんでした。
昼少し前、母が呼びに来ました。何でも昼に、やんごとなき方の放送があり、こぞってそれを聞かなければならないこと、そのためにちゃんと正装をしなければならないとのことなのです。
こうして、白いシャツとズボンをはかされた私は、ラヂオの前に正座させられました。
疎開先の母屋の住人たちほぼ10人、その縁者である私たちのような疎開者が数人、そして、近所のラヂオがない家の人たちが数人、総勢20人ほどだったと思います。
やがてチューニングの悪いラヂオから、なんだか少しうわずった、漢語ばかりのお経のような聞きなれない言葉が流れてきました。
これが私が、そしてその回りの人たちがはじめて聞いた現人神、昭和天皇の玉音だったのです。
玉音を録音する昭和天皇
間もなく、その変な日本語らしき神のみ言葉は終わったのですが、私はもちろん、回りの大人たちのほとんどが、それが何を言っていたのかさっぱり分からなかったのでした。
しかし、中に少しは学のあるのがいて、その人がつぶやくように言いました。
「戦争に負けたんや」
回りは半信半疑でした。まだ、昨日まで、大本営は我が軍の戦果を華々しく伝えていたのですから。
「じゃあ、本土決戦はどうなるんじゃ」
誰かがいいました。
そう、本土決戦があるはずだったのです。そこでは一億総火の玉で、一人一殺、鬼畜米英を迎え撃つはずだったのです。そのために竹槍の訓練も行ってきたのです。
「そんなもんはもうない」
彼は吐きすてるように言いました。
あちこちからの情報で、彼が正しかったことが次第に明らかになってきました。
不思議とパニックは起きませんでした。大人たちはけだるい表情で、農作業に出かけたりしました。
ただ、一部の、主に旦那衆ですが、鬼畜米英の暴虐を恐れて、隠匿していた貴金属(一般家庭からは、献納という形でとっくに召し上げられていました)などを持って近くの山林に逃げた人がいました。やがてそれらの人も、様子をうかがいながら、恐る恐る帰ってきました。
鬼畜米英もこんな片田舎までは手が回らないらしく、しばらくはその姿を見ることもありませんでした。
四キロほど離れた町に住む叔母がやってきて、その町の駅前で彼等の一団を見たが、何ということもなかったと言っていました。枝豆を食べていたどっかの子に、それは何だと訊ねていたなどといっていました。
連合軍総司令官、ダグラス・マッカーサー
夏休みが終わりました。しかし、登校すべき学校はありませんでした。
夏に入る前の、ほんの付け足しのような空襲ですっかり焼け落ち、校庭の栴檀の樹のみが一本、虚しく残っていました。
授業は、あちこちの寺や、焼け残ったちょっとした工場などで、行われることになりました。
その工場は、機銃掃射で天井に穴が空いていたため、雨降りには傘をさしての授業でした。
授業の最初は、教科書の墨塗りでした。
教師が、何ページの何行目から何行目までと指示し、それに従って墨を塗りました。ところによっては、ほとんど一頁をすべて塗らねばなりませんでした
ドジな私は、教師の指示する頁とは違うところを塗ってしまって、笑われたり叱られたりしました。
あとで知ったのですが、その頃、軍部はむろん、各省庁や役場でも都合の悪い書類などはすべて焼却していたのでした。ですから、歴史修正主義といわれる人たちが、今になって、そんな公式文書などないと居直るのはいかがなものかと思ってしまうのです。
いつの間にか私たち子どもは、鬼畜米英を待ちわびるようになっていました。
風の便りによると、彼等は、チョコレートとかガムといったものをくれるらしいのです。
そうしたものがあるとは話には聞いてはいましたが、そんなものは見たこともなかったのです。
私たちは、四キロほど離れた町にいるという彼等が、私たちの集落へ姿を現すのを今か今かと待ちかまえていました。
遂にある日、彼等はやって来ました。未舗装の道を土煙を上げながら二台のジープに分乗してやって来たのです。
私たちは、わらじ(ズック靴は金持ちの子だけでした)の紐も切れよとばかりに駆け、ジープと併走しながら声を限りに叫びました。
「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」
しかし、無情にもジープは私たちの傍らをいっそうスピードを上げて駆け抜けて行くのです。
それでも私たちは、追いすがるように駆け続け、なおも叫び続けました。
「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」
ジープの巻き上げる土埃が私たちを襲いました。鼻からも口からもそれが入ってきます。
それでも私たちは叫ぶのをやめませんでした。
「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」
まるでそれが、あの予定されていた本土決戦であったかのように・・。
現人神の肉声を聞き、鬼畜米英を目の当たりにした夏、私は、天皇のため、お国のために命をなげうつ小国民の覚悟を脱ぎ捨てたのでした。
この時期になると、あの折の自分の声がこだまするような気がします。
わらじ履きで必死に駆けながら叫んだあの声が・・。
「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」
「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」
日本中のほとんどの都市で、こうした無差別絨毯爆撃がおこなわれた。
*日本の敗戦の確定がいつなのかには諸説があります。
45年8月14日 ボツダム宣言受諾
45年8月14日 昭和天皇の詔書発令
玉音放送録音
45年8月15日 玉音放送公開
45年9月2日 全面降伏文書調印
しかし、私見によれば、1944年段階で既に敗戦は確定していたのであり、それが引き延ばされたことにより、自国や他国の多くの人の人命が奪われました。
その段階で敗戦を認めていれば、広島や長崎の原爆もなく、本土の無差別爆撃も避けることが出来て多くの人命が救われたと思うと、当時の硬直した天皇絶対主義国家のオカルト的な(例えば、最後には神風が吹いて日本が勝つといった)政策の愚かしさが本当に恨めしいのです。