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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「うれいはふかし」に残る違和感

2007-08-05 15:52:35 | 社会評論
    この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし

 これは1986年に昭和天皇が詠んだ歌で、靖国へのA級戦犯の合祀を天皇が嘆いた歌だと、8月4日付の各紙が伝えています。
 しばらく前にも、天皇がA級戦犯の合祀に不快感を表明したという側近の証言が報道されたことがあります。

 これらの史実は、確かにA級戦犯を擁護する右翼の人たちや、先の大戦を合理化する歴史修正主義者への牽制にはなるでしょう。
 その意味で、昭和天皇の「うれい」にある種の理解を持つとしても、そしてそのA級戦犯の合祀に反対する見解に賛同するとしても、なおかつぬぐいきれない違和感を持つのです。

       

 昭和天皇はA級戦犯を批判できる地点をどこに見いだしているのでしょうか。
 はっきり言って、この天皇のために命を捧げようと一度は誓った往時の小国民の私としては全く納得できません。

 確かに、日本の天皇制は、「無の焦点」などと抽象化されますが、その実体は、常に現実の支配者、蘇我氏であったり藤原氏であったり、平家であったり将軍であったりした者たちが、自らを神格化することなく、天皇の超越的な名辞を利用してこの国を統治してきたという事実のうちにあります。

 先の大戦においても、日本の実質的な支配者であるブルジョアジーと軍部によって天皇の神格化は余すところなく利用されました。しかし、利用された彼は本当に無罪なのでしょうか

 歴史上の支配者は、常にある階層や階級の利害関係のの象徴としてのみ人民の上に君臨します
 フランス革命のおいてのルイ王朝もそうでした。
 しかし、それ故に彼等は処刑されました。
 彼等を処刑することが、アンシャンレジームとの決別の行為だったのです。

        

 それに反し、昭和天皇は現人神から人間へという若干の手直しの後、現憲法が規定するような象徴として生き長らえました。その不徹底さが今日まで至る戦争責任追求の曖昧さや、歴史修正主義の台頭にまで繋がる事態をうみだしているのだと思います。アンシャンレジームとの決別の不徹底です。

 昭和天皇を処刑せよというのではありません。
 しかし、少なくとも彼は無罪ではありませんでした
 絶対王制の名においてルイやアントワネットが処刑されたほどには有罪でした。

 彼が生き延びたのは、来るべき冷戦における日本の戦略的位置に関するアメリカのプラグマティックな対応であることは今日常識といえるでしょう。

      

 右翼的な人々は、昭和天皇の人格に感心したマッカーサーがその延命を決定したというような伝説を流布しています。
 しかし、事態は全く逆で、昭和天皇がモーニング姿でマッカーサーの軍司令本部を表敬訪問した歴史的な写真があるのですが、その彼我の貫禄の相違、表情の精彩の有無を見て日本人の大半は、敗戦を実感し、天皇は神ではなかったことを知ったのでした。

 せめてこの時点で退位することがあって然るべきだったと思います。

 従って、既に述べたように、彼がA級戦犯をどのような立場から忌避するのかがよく分からないのです。多くの兵士や市民が、天皇の名において死に追いやられたにもかかわらずです。
 私には、天皇のA級戦犯非難の見解は、それ自身は正当であるとしても、ある種彼自身の自己正当化に聞こえてしまうのです。

     

 そして、あるシーンを連想するのです。
 それは、1956年のソビエト同盟の第20回大会でのフルシチョフの秘密報告の場面です。
 この秘密報告で、スターリンの過ちと抑圧的なありようがが完膚無きまであからさまにされるのですが、とりわけ衝撃的なのは、中央委員の総数の三分の二以上が、さまざまな理由で処刑されていたという事実でした。

 彼等はスターリンの政策に批判的であったり、あるいはそうでなくとも「人民の敵」といういわれなき嫌疑でいわば見せしめ的に処刑されていたのでした。

 それらの報告の後、ある代議員が質問をしました。
 「同志フルシチョフ、そのときあなたはどこにいましたか?」

                         広島原爆忌の前日に・・。


           
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