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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私という鏡と乱反射

2007-08-04 15:48:22 | フォトエッセイ
 反射(reflection)は実物の影であり、副次的なものとされてきました。
 実物、実像のようなものがまずあって、反射で得られた像はその模写、あるいは、反射という作用によっていくぶん歪められた仮の像、写しでしかないように思われて来ました。

 むろんそれはその通りで、反射は何ものかの写しでしかありません。

 

 しかし、写しではないものというのは果たしてあるのでしょうか?
 実物とか実像といわれるもの自身が、私という鏡に写し出されたひとつの像にすぎないのではないでしょうか。

 そうすると、実像と仮象との違い、その確からしさの違いは、私の確からしさの問題ということになります。

 

 私という鏡の写し出しが確かだという保証はどこにあるのでしょう。
 私が私だからというのでは堂々巡りですね。
 しかし、その堂々巡りを一応認めましょう。その上でさらにこう問うことが出来ます。
 私は本当に私なのかと。

 私という鏡自体が作られたもの、つまり「私」以外の要因によって作られている可能性は充分あります。
 私の肉体的な特徴は、遺伝子とその後の生育環境によってるくられています。
 私の感性も歴史的、社会的に作られてきました。
 知性などというものも、教育や、先達からの学びによって得られたものです。

 私はそれらの結び目のようなものです。要するに、私は私ではないものによって作られています。
 私は、私であると同時に私ではありません

 

 そうすると、私に写ったものと、私以外のものに写ったものとの確からしさの違いは曖昧になってきます。
 私という鏡に映ったもののみが正しい反射、唯一の反射という根拠はなくなってきます。
 
 私たちはさまざまな反射からある反射をその都度、選択しているにすぎないのではないでしょうか。そして、むしろ、その選択の中で私たちが作られているのではないでしょうか。

 だから、自分がオリジナルな実物や実像の近くにいるというのはきっと幻想なのでしょう。
 そうしたオリジナルそのものは、もともと不在なのであり、私たちはそれぞれその痕跡のうちにあるのかも知れません。

    
 それはまた、私がさまざまな反射を見渡せる地点にいるということではなく、私自身がそうした反射のひとつでしかないということをも意味しているようです。
 
 私は今、乱反射しています
 
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