イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

醤醤お願いが

2010-05-17 16:43:14 | 朝ドラマ

行ってしまいましたねえ。音松親方(上條恒彦さん)、九州へ。

「九州の炭鉱町行けば、もう少しこの商売(=紙芝居)続けていけるかと思って」と言っていました。九州で炭鉱なら、筑豊かな。青春の門。抱いてくれんね信介しゃん。昭和36年=1961年の設定ですから、黒いダイヤも閉山ラッシュにもう突入している。どこまで行っても背中に“下り坂”を背負うめぐり合わせの音松さん。

そのときそのとき景気のいい分野にころころ変わり身することなく、天職と信じる仕事ひとすじ真摯な姿勢の人ほど、とかく撤退の見極めが遅れ、タイミングを失して、いけないいけないとわかっていながら逃げ道をことごとく塞がれて、衰退に殉じる宿命にあります。「漫画家は、面白い漫画を描いていればいい、描き続けてさえいれば、カネは入ってくる」と思い、布美枝(松下奈緒さん)にもそううけあって安心させていたしげる(向井理さん)も、明日は我が身…の思いが去来したことでしょう。

このドラマはバランスがいい。第16週まで、親子・孫、きょうだい、夫婦と、もっぱら“家族or家族になるまで”にスポットをあててきて、7週にきて初めて“他人との精神的紐帯”を最前面に出し軸にしました。しげると音松親方は、互いに恩人であり、師匠と弟子であり、人生の先輩後輩でもあるとともに、上下も長幼もなく戦後の紙芝居という、不特定多数、それも移り気な子供相手の大道流し商売で一匹狼の生計を立ててきた“パートナー”“戦友”でもある。

布美枝の女性目線のドラマで、大人の男同士の、趣味や道楽や、女をはさんだ色恋がらみではない、生活・生存を賭けて築かれてきた信義とリスペクトを描いて爽快。

紙芝居業界が風前の灯であることに変わりはなく、音松さんの行く手が明るくなったわけでも決してないのですが、リスペクトし合うかつての盟友になけなしの餞別を包み“できるだけのことはしてやれた”しげるには安堵があっただろうし、音松さんにしても、想像していたほど裕福そうでないカツカツのしげるが「紙芝居道具は売らんで下さい」「世間が(紙芝居を)忘れても、その道具はぜんぶ覚えとる」と暗に“変わらぬ紙芝居愛”を表明してくれたことで、少なくとも“この仕事に打ち込んできた日々は無駄ではなかった、輝いていた”と再確認でき、たとえ逆風でも立ち向かって生きる意欲がわいてきたのではないでしょうか。

もちろん下支えするのは、原稿料未払いで逆さにしても鼻血も出ないしげるに代わり、せめてもの“キツネの小判”の絵のジョークに乗ってやって、残り僅かな嫁入り持参金から餞別資金をひねり出してくれた布美枝の度量の大きさです。夫の恩人は自分にも恩人。自分が出会う前のしげるに、絵で食べられる仕事を探しあぐねて、飛び込みで紙芝居入門し、子供たちを喜ばせるために毎日新作を描いていた時代があったことを教えてくれた音松さん。音松さんと紙芝居時代の昔話に花を咲かせると、とても楽しそうな夫。夫と恩人との間に分かち合い懐かしむ思い出があるなら、悲しく苦い別れにならないよう妻として力を貸してあげたい。

一見してぺらっぺらの餞別封筒をはさんで、両手をつき深々と頭を下げ合う男ふたりと、階段下の踊り場で聞き耳をたて、無事おさめてくれたらしい気配に微笑む布美枝とを、交互に映す切り返し方もよかったですね。

神戸時代の回想場面から再会時に至るまで、一貫して音松親方の物腰が丁寧で、かけ出しのしげるにも「水木さん」「水木さん」(←“水木荘の村井さん”の略)と敬語呼び、「こないだの(絵)はウケませんでしたねぇ、困りました」「次は必ず当てましょう」「あきらめたらいけません、粘ればきっと何とかなります」と、ハッパかけるときにも言葉が荒くなく品があったのも好感が持てました。一時期にせよ子供たちの人気ものだった“日本一の紙芝居親方”がゴロツキやヤクザの様な態度では教育上よろしくなかろうとのNHKドラマ的演出配慮だったのかもしれませんが、演じる上條恒彦さんの、いまさら注釈要らない美声とも相俟って、あぁこの人は本当に私心のないいい人だ、さぞかし借金の申し込み、言い出し辛かろう…と察することができました。

凡庸なドラマなら、「もう一度、『河童の三平』のような紙芝居をやって、子供たちが喜ぶ顔を見たい」との音松さんの願いをかなえるために「よし、俺が新作の紙芝居を描いて、親方にもうひと花咲かしてあげるけん!」「ワタシは商店街の子供たちに触れを回してもらって、お客さんを集めますけん!」→深大寺参道に黒山の人だかり、親方の名調子が響き拍手喝采、親方感涙…ってなお手盛りの見せ場展開にしそうなものですが、この作品はそれをやらない。紙芝居が先細りで、如何な親方のノドや心意気が健在でも、TVの臨場感やリアルな興奮を覚えた子供たちに振り向いてもらう望みはないのは、かりにワンポイントの感動シーンをこしらえたって、もう動かしがたい現実なわけです。

“巻き返し不能”という現実の上で、それを前提としてやりとりされる信義、男気の交換だからこそ価値があり重みがある。

今週は、いままであまり目に止まらなかった向井理さんの表情の表現力にも軽く感心しました。“富田書房との絶縁=稿料の途絶”と“親方来訪は借金目当てらしいとの情報”との二重苦を背負って帰宅したしげるが、「実は…少々お願いが」と居ずまいを正した親方に“さぁ、いよいよ来たか”とこちらも姿勢を正して聞こうとするも、「少々…ショウ…ショウユを」と相手がヘナると、自分が借金失敗したかのように“あぁダメだった”とばかり肩を落とす。コレ、しげる側が、かりにカネ回り潤沢で、頼まれれば頼まれた以上に渡してあげられる状態ならここまでテンパる必要はないかと言えば、あながちそうとも言い切れないから戦友同士の間は微妙なのです。しげるがいちばん気づかっているのは、“自分がかつて面倒見た相手に無心しなければならない立場のプライド危機”。お互い、おカネ、それもあぶく銭ではなく生活に直結するカネで苦闘してきた同士だから、「カネ」のひと言が地球より重い。渡す渡さない、渡すとしたらいくら渡すの問題ではなく、「カネ」をクチにのぼせることのハードルが高いのです。

布美枝の「えいヤッ!」芝居に「お、キツネの小判が出たな」と西日の窓を背に微笑む表情もよかった。“売り込みで前借りがもらえなかったら、コレしかない”とキツネ小判の漫画を渡したのは、「あとはオマエが頼りだよ」の意味の漫画家的表現。それを「ワタシの持参金からホレ、こんだけ出しますからねッ、貸しですよ貸し!」なんて恩に着せることなく、夫のランゲージである漫画に翻訳し、消化して受け入れてくれた布美枝に対する、漫画的な感謝とねぎらい。これは“貧乏物語”ではなく、貧乏という現実を、稀有な資質のヒロインとヒーローがどうコントロールし飼い慣らし、幸福に変換していくかの過程を謳い上げた“貧乏ファンタジー”なのですね。

演技歴についてだけ言えば松下奈緒さんよりまだ浅いはずの向井さんが、この作品の撮りに入ってから急に演技力が激烈に向上したとも考えにくいので、もともと向井さんが潜在的に持っていた表現の引き出しを、脚本と演出がうまーくじわーっと開けて、あの表情をカメラの前に引き出したと言っていいでしょう。松下さんの表情にも日々思うのですが、いい作品、力のあるドラマは、役者さんを磨き輝かせますねぇ。

コメント
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