草彅剛さんという人を、TVのフレームひとり映りで、こんなに長い時間見たのは最初で最後だったと思いますが、あれでしょうね、お酒が入らなくても“ド天然”な人なんでしょうね。「いい意味で恥を知らない」というか。
恥を知らないにいい意味も悪い意味もなさそうですが、普通、「“全裸で深夜の公園で奇声発して暴れて逮捕”と新聞TVに出ちゃって大騒ぎ」と知ったら、マネージャーさんに謝罪会見をと促されても「ヤだ」「顔曝したくない」「せめてほとぼりがさめてからにして」とゴネそうなもんじゃないですか。月河ならゴネるね。給料90パーぐらいカットでもいいから、顔を知られてない外国行って、3年ぐらい布団かぶっていたい。記憶飛ぶまで酔っ払っただけでも相当恥ずかしいのに、全裸で奇声だよ。液体窒素に漬けられて冬眠でもいいくらい。
いっそ「そんなに会見会見言うんならいいもん、こうするもん」っつって、もういっぺん、そこらの工業用アルコールとか飲み干して倒れてやるか。工業用アルコールが都合よく手近にあるかどうかわからないけど。
それとも、“どの程度、どんなふうに報道されていたのか”を本人が認識しないうちに、顔色とか体調、頭髪(頭髪って)とかも回復“し過ぎ”ないうちに、「それそれそれそれ、こっちこっち、ハイ入って頭下げて」と誘導した結果があの会見だったのかな。
国民的アイドルの一員という草彅さんの特殊事情はさておいても、先日の中川昭一外相(当時)のローマロレロレ会見といい、こと“お酒”に関しては“度を過ごしての不始末、醜態”にユルく、緊張感希薄なのが日本という国なのかなという気はしました。
特に男性で、それ相応の地位や知名度を持つ人の場合「ストレスたまってるだろうから多少のことは」という斟酌を、自動的に世間が加えてくれる様なところがある。度を過ごすことで人格変わったり理性を失ったり、依存症になったりするリスクのある物質の中でも、酒だけは“お”が付きますもんね。“お大麻”“おシャブ”とは言いませんわね。
稲作農耕民族の国・日本において、伝統的な酒は米から作られ、酒作りは神事とされていることも関係しているかもしれない。
80年代にアメリカに行ったとき、NYシティのビジネスマンたちが、昼休みのオイスター・バーでバドワイザーライトをクッと空けては、顔色ひとつ変えずにビジネストークしながら午後の仕事に戻って行くのを不思議な感覚で眺めていました。その一方で、「パーティーなどの席でへべれけになったり、飲んでセクハラや暴言失言するようでは、まともな企業では管理職になれないし、政治家なら選挙に当選できない」「酒にだらしがないのは下層階級の行動として蔑まれる」のがアメリカ、というのもよく聞く話。
いま考えてみると、アルコール以外の食事やデザートでもとにかく一人前の量が違う国だし、要するに肝臓のキャパの大きさ、アルコール分解能力の差なのかなという気もします。
結局、日本人は平均的に“酒に弱い”にもかかわらず、許容量を超えて飲みたがる、飲ませたがる傾向がある、とりわけ社会的に目立ち、リスペクトされる男性ほど「オレはこんなに飲めちゃうんだよ」「つまり、頑健でスケールの大きい人間なんだよ」とアピールしたがる傾向があるということなんでしょうね。
人間としてのスケールや、男としての甲斐性と、“酒の許容量”はまったく相関性はないのに、なんとなくみんな「ある」ような錯覚を持っている。“酒豪(しゅごう)”なんて言葉が存在するのも日本語ぐらいではないでしょうか。英米語には概念としてないような、少なくともフランス語圏にはないような気がします。
月河はむしろ、草彅さんが会見後、こっそり自宅にメンバーを集めて「みんな迷惑かけちゃってごめんね、当分ボク休むし、今日はオゴるから好きなだけ飲んでよ」「…じゃ早速乾杯」と、呆れるメンバー放置で先に空けちゃって、木村拓哉さんに「ちょ、待てよ」と言われてたりする風景を想像したほうがなごみますね。会見で「もう酒は一生やめます」と言いやしないかヒヤヒヤしてましたもんね。やめられませんからね、土台ね。言えば嘘になりますからね。