山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

地上の地下室を巡り、左官体験

2008-08-11 16:04:04 | 建物

 昨日、学生中心の土蔵再生活用検討チーム「ヤマガタ蔵プロジェクト」主催の第2回土蔵巡りと左官体験のイベントに参加した。
 好天なので、かなりの高温が心配されたが、最高気温は30度と少しだけだったため、それほど辛い思いをせずに山形旧市街地南部の土蔵巡りを楽しんだ。
 集合場所は座敷蔵でむろん「地上の地下室」らしく内部は冷涼。巡った土蔵にも座敷蔵が多く、内部の拝観はできなかったが、すごい古美術品が内蔵されいる蔵もある。
 むろん主催者の学生たちはすべて若いが、一般参加者の中にも高校生や県外からの学生などが多く、古い歴史的建造物である土蔵に新鮮な魅力を感じている若者たちが多いことにも感激した。
 前回の土蔵めぐり(7月6日の記事を参照)の時と大きく異なるのはプロの左官の方の説明もあり、後半には彼の指導による左官体験もあったことである。

 この「蔵プロジェクト」については下記URLをご覧あれ。
  http://www.kura-project.com/(←クリック)
写真説明 ①壁の崩落が見られる土蔵ほど歴史と絵画性を感じるが非持主のエゴか? ②土蔵の窓の多くが観音開きだが、この土蔵は引き戸式。内部はいわば古美術館 ③本職の左官職人の説明 ④参加のお嬢さん達も左官体験 ⑤なかなかスジが良い ⑥仏蔵だが、白亜に輝くとギリシャ神殿みたい。(クリックにより写真拡大)
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トリノ五輪からトリノス五輪へ

2008-08-09 22:20:57 | イベント
 早いもので、トリノ冬季五輪が開かれたのは約2年半前になる。 その際に開会式の入場行進で日本選手団の旗手を務めたのが我が山形市出身の加藤条治選手であった。
 スピードスケートの5百メートルで金メダル獲得が有望視されていたが、惜しいかな逸してしまった。
 昨夜は北京夏季五輪がド派手に開幕したが、開幕式典とイベントは通称「鳥の巣」の国家体育場で開催された。
 いわば、トリノからトリノスへと移行したわけである。
 早速今日は柔道女子が決勝戦まて進んだが、やはり金メダルが、しかも3回連続の獲得がほぼ確実視されていた柔道女子の谷亮子選手も金は逸し、銅メダルに終わった。
 わが山形県からは9人が北京へでかけている。 フェンシングの原田めぐみ、カヌーの竹屋美紀子、新体操の三澤樹知、陸上短距離の安孫子充裕、サッカーの豊田陽平(※注)、陸上走り幅跳びの池田久美子、バレーボールの高橋みゆき、栗原恵、多治見麻子である。(※注 対ナイジェリア戦で唯一の得点は彼。8/11加筆)[敬称略]
 以上、9人の顔ぶれを眺めてみると、男性はわずかに2人である。
 山形の男子よ、加藤条治選手に続け! 発奮せよ!
 前回の記事のM先生は草場の陰で「シェー!やまがだのヤロコだ、だらすない。」と慨嘆しているに違いなかろう。
 さて、きわめて重い話題になるが、トリノから望まれるイタリア・アルプスの氷河もだいぶ溶解したようだ。また、北京の大気汚染は依然として深刻である。その他、北京も中国全体も深刻な問題が山積している。オリンピック閉幕後、中国全体が内外から様々な指弾を受けて鳥の巣ならぬ蜂の巣がつつかれたような状態になる恐れが濃厚である。
  しかも、「平和の祭典」の開幕をあざ笑うかのように、南オセチアをめぐりロシア軍とグルジア軍の戦闘が始まり、長崎原爆の日の今日、更に戦闘が拡大している。
 ※写真、マークは関連HPより
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赤塚君の「シェー!」は後発だ

2008-08-07 22:49:51 | 郷土史
 生徒の頭をかぶづいで(噛み付いて)叙勲された名物教師(狂師?)は、この見るからに近眼生徒を大量に養成してきたような校舎で存分に暴れた。
 昭和◎十年代の4月、一年生の隣の教室から1時間近くM教師の凄い怒声が断続的に聞こえ続けていた。午後は我が教室で彼の最初の授業がある。どんなに怖いか戦場に臨むような気持ちで昼の弁当を食べた。
 午後になっていよいよ彼の授業の直前、廊下を踏みつけるような彼の凄まじい足音が近づいた。教室の入口の引き戸を必要以上の力で開けたからビシャリという音が鳴り響いた。教室に入るなり、教壇上の椅子を蹴っ飛ばし、黒板消しを床に叩きつけるなり、すぐに英語の教科書を開いて英文を読み、同じ文章を生徒たちも読むように命じたが、生徒たちは恐れをなして流暢に発声できない。すぐに「読み方が遅いぞ」の罵声。これがM教師の最初の自己紹介のようなもの。
 次にいきなり名簿を開いて指名し、英訳せよと命じるが、あまりにもの突然さに指名された生徒は口が開かない。そして一列全員が立たせられたまま怒鳴り声とともに全員の頭に彼の手の掌が軽くすべる。でも殴るというよりは踊って楽しんでいるような感じだ。あたかも義経の壇ノ浦での八艘跳びのようだ。
 彼の英語の発音もヤマガタ訛りだし、生徒の名前の呼び方もヘンテコな節がつくし、明治時代のような言葉での講釈だから、彼の言動のすべてがおかしくて噴き出しそうになるが、怖くもあるので笑い声を出すのをじっと堪える。
 でも彼が怒鳴ると、我々の代わりに隣の教室からゲラゲラと笑い声が聞こえてくる。
 さて、次の授業の時、ついに我慢しきれずに「クククク」という笑い声を出してしまった生徒がいた。たぶん我がクラスで最初に頭を噛み付かれたのは彼だったような気がする。それ以降、彼の授業の度に数人ずつ「かぶづがっだ」のである。
 Husagu da,husagu da.Kodosu-no izunenshei wa nashite kodaini husagu nandabe?(←これは英文にあらず)意訳 ⇒ 不作(出来が悪い)だ、不作だ。今年の一年生はどうしてこんなに出来が悪いのだろうか。←ただし毎年同じセリフ
 そうして、「シェー!」と慨嘆の声を出すことがしばしばであった。それから数年後に赤塚不二夫氏の漫画で「シェー!」にお目にかかる。
 でも、2学年後の3月にはこの学年からも東大、東北大等の旧帝大や早慶等に合格する生徒が多数あった。
 これは我が山形の近眼養成高でのお話で、郷土の昭和史のひとコマである。(写真は改築前の校舎)
 


 
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サカイマサト氏の大発見

2008-08-06 23:59:22 | イベント
 高速バスで1時間なのに、仙台の七夕を見たのはまったくのしばらくのことである。もうかれこれ40年ぶりかもしれない。
 でも今日、仙台に出かけたのは七夕見物がメインではない。
 サカイマサト氏関係の展示会を見るためである。
 それも、このサカイマサト氏は山形在住者であるが、目下、彼はペルーで調査中で、この会場ではお目にかかれなかった。
 ペルーと言えば、インカの遺跡とナスカの地上絵で日本人にもよく知られている。
 そのうちの「地上絵の謎展」というのが仙台市の自然史博物館で開かれている。
 その中でサカイ氏が中心の山形大学調査研究チームの報告の展示もあった。
 彼は衛星写真の解析により新たな地上絵を発見して国際的な注目を浴びた。
 なお、彼の名は漢字では坂井正人であり、人気が急上昇中の俳優の堺雅人氏とはむろん異なる。発音で同姓同名の2人は目下時の人だが、偶然にしては出来過ぎである。
 この展示会は今月の31日までである。
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諸物価高騰には「おしん」の心で

2008-08-05 22:57:59 | イベント
 今、東北地方は夏祭りの真っ最中。
 山形でも今日から3日間、花笠パレードが開催される。
 様々な集団が趣向を凝らした踊りを披露する。
 艶やかな踊りから男っぽい躍動的な踊り、創作的な踊りと様々だ。
 そんな中、NHK朝の連続ドラマ史上最高の視聴率を維持し続けた「おしん」の少女時代を好演して全国にすごい感動と衝撃を与えた小林綾子さんが山車の上から観衆に向かい微笑んでいた。
 石油製品を始めとする諸物価の値上がりが続くなど、何かと近い将来の生活が不安になるこの頃、何か励まされているような気がしたのは私だけでないだろう。

※ 上の写真は昨年撮影 「下」洋の建物(旧県庁舎)と和の踊りとのコントラスト
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城下町を仰ぎ見る天下の山形城 ⑦

2008-08-04 23:02:35 | 郷土史
 手前が三の丸南側部分で、二の丸土塁の樹林の左手が三の丸の西側部分である。
 薄緑色の点線が三の丸の外郭線となり、そのすぐ向う側は明治以前までは城下というよりは無人・家屋なしの城外となり、城よりは標高が低くなる。
 この三の丸部分にはかつて武家屋敷が並んでいたが、最上時代なら57万石の大藩だったから、武家屋敷も多かったろうが、それ以降は24万石から最後はわずか5万石の小藩になったので、空き家や廃屋が目立ち、畑地化する部分も増えたようだ。
 晴れていれば写真の上部には霊峰月山の万年雪が写るはずだが、ご覧のように湿気で視界はよくない。
 三の丸の外のすぐ西側が無人地帯だったいうことは地下水からの湧水が多く、湿泥地であり、水蒸気がたちこめ、盆地西部から山形城を見えにくくするだけでなく、敵兵の進軍をも困難にする。また、いざという場合は、三の丸の堀の一部を崩せば、決壊して溢れた堀の水により城外の無人地帯は水浸しになり、敵兵の進軍を一層困難にさせるねらいがあったのではないか。
  このシリーズ今回で終了(初回は7月14日の記事)
 
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城下町を仰ぎ見る天下の山形城 ⑥

2008-08-02 15:03:30 | 郷土史
 城下町を見上げる位置が多い山形城もこのあたりではすっかり城の方が標高が高くなっている。
 とは言え、薄緑色の点線(三の丸の外郭線)の向こう側は城下は城下でも「町」はなく、戦前まではほとんどが農地または湿地でしかなかった。
 戦後はすっかり市街地化してしまったが、さらにその向こう側はやはり今でも広大な田園地帯となっている。
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