↑ ハーグの国際司法裁判所と所長の安達峰一郎
↓ 彼の生家の内部(祖父は自宅で近隣の子供達に学問を教えていた)
前日の記事に続く
その昔、幼いわが子、とりわけ男の子に対しては冗談半ばで「末は博士か大臣か」と将来の成長を期待したものだが、安達峰一郎は博士も大臣も遥かに飛び越えて、五大陸つまり「五輪」、つまり全世界の司法の頂点に立った。(もっとも彼は法学博士でもある。)
彼は明治2年に東村山郡西高楯村(現・山辺町)に生まれ、東大法学部を卒業、法務省に入省。日露戦争後のポーツマス条約の草案作成。メキシコ、ベルギーの公使。第一次大戦後のパリ和平会議の日本代表代理。ベルギー大使。国際連盟日本代表。フランス大使。パリ不戦条約締結に参与。ハーグ対独賠償会議日本代表。そして昭和5年に常設国際司法裁判所判事、そして9年に所長となった。昭和9年に死去し、オランダ国葬に遇せられる。そして彼は「世界の良心」とまで呼ばれている。
なお、国際司法裁判所の判事には日本人では織田萬、田中耕太郎、小田滋、小和田恒(雅子妃殿下の父)の各氏が就任している。
これほどまでの経歴の持ち主だからTVドラマにでもして貰いたくなるが、彼の場合階段の昇り具合があまりにも順調で大きな挫折の体験がないので、小説やドラマにはなりにくい人生なのだそうである。
山辺町出身者としては芥川賞受賞者(日本画家の故後藤紀一氏)など多数の文化人や知識人も輩出しているし、彼の祖父自体が對賢斎と自称し、自室を「對賢堂」(※注)と名づけて近隣の師弟の教育の場としていた。また、彼の父は町長も務めるなど、かなりの学識者の家系であったことも峰一郎の向学心を培ったのであろう。
※注・・・山辺町民独特の生涯学習機関Taiken堂は對賢堂に由来しており、県内内陸部一円から受講者がかけつける人気ぶりである。