山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

山形市史と縁ある街を訪ねて(2)+山形の桜

2012-05-01 06:42:32 | 郷土史
 
 これは北関東随一の人口51万人の“大都市”宇都宮の市街地観光の目玉となっている大谷石造りのカトリック教会堂である。
 そして次の写真(↓)は宇都宮市役所の展望室から眺められる宇都宮城跡公園である。

 宇都宮城と言えば名高い「宇都宮吊り天井事件」で譴責された当時の城主、本多正純のことが想起されるが、彼は徳川家康の側近中の側近、本多正信の子息としてしばらく江戸幕府初期に幕府内で権勢をふるった人物であり、山形城主の最上氏の改易の際に改易作業の指示のために山形にかけつけている。
 彼は幕府から出羽の庄内に追放される憂き目にあっているが、この「吊り天井事件」なるものは後世の創作によるもので史実にはないものとして宇都宮市民には理解されている。

 宇都宮城は明治維新後破壊されたうえ、城跡はすっかり荒廃していたが、近年本丸部分が土塁と堀、二棟の櫓(やぐら)と城壁が“復原”され、城跡公園として整備された。
 訪れたのは4月20日。桜は終わり頃となっていた。

 だが、城跡公園として整備?されたのはよいが、上の写真の珍妙さにはどうしても違和感がある。土塁の下にトンネルがあるが、これまた「吊り天井事件」と同様に史実とはかけ離れたものである。
 土塁の向こう側の高層ビルは宇都宮市役所であり、「いざ鎌倉!」否「いざ宇都宮!」としいう場合、つまり大災害が発生した場合、宇都宮市役所職員が避難する市民をこの城跡広場に即座に誘導するための利便のためにトンネルを通したのである。
 つまり、宇都宮城の歴史ではここには城門はなかったが、市民の安全安心のためには史実に逆らってでも城跡広場と市役所とを直結するトンネルが必要とされたのである。
 まあ、宇都宮城は武士のための城から市民のための「民主的城郭」となったわけである。

 さて、山形の桜も今朝あたりはほとんど葉桜状態になったが、3日前は満開。満開から葉桜への移行が猛スピードであり、これも異常気象の現れと言うべきか。
 最後に満開の桜花と同様に「華も盛り」のあでやかな「山形舞子」の姿を紹介したい。(↓)

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