らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

「姥桜」は褒め言葉

2017-09-20 | 情報

女性の芸人さん、特に漫才師が口にする言葉、「どうせ私は姥桜よ」をよく聞くことがあります。
皆さまもお聞きになったことがあると思いますが、彼女たちはこの言葉で自分を卑下したり、揶揄して言っていると言うことが前後のセリフから分かります。
この人達は「姥桜(うばざくら)」と言う言葉の本来の意味をご存知なのでしょうか?

「姥桜」と言う言葉は誤った使われ方をすることが多いようですが、これは漢字のイメージのせいのようです。
姥桜の「姥」は女が老いると書くことから、年をとった女と言うだけのイメージを受けますが、それは間違いなのです。

姥桜とは、美しさや色気がいくつになってもある女性のことを言います。
広辞苑では、①葉に先立って花を開く桜の通称的総称。ヒガンザクラ・ウバヒガンなど。
         ②娘盛りが過ぎてもなお美しさが残っている年増。女ざかりの年増。
と説明しています。

辞書が示すように、姥桜とは、娘盛りを過ぎても美しさや色気がある女性のことです。
では何故、「姥桜」と言うようになったのでしょうか?

ヒガンザクラやウバヒガンなど、葉より先に開花する桜のことは姥桜と言われています。
ここから、葉がなくても美しい、歯(葉)がなし(=老いて)でも美しいというかけ言葉が、年齢を重ねても美しい女性の由来だと言うことです。

「私はどうせ姥桜だから」と、ご自身のことを卑下、謙遜する意味で使われる方も多いようですが、同じ使うなら謙遜ではく、自信を持って「私は艶ある美しい姥桜なのよ」と使っていただきたいですね。

女性の皆さん私的な飲食会や会合などで、もし、「姥桜」と言う言葉が出てきたら、この言葉は「娘盛りが過ぎてもなお美しさが残っている女性なのよ」と自信を持って教えてあげていただきたいと思います。


車屋さん

2017-09-19 | 雑学

先日の台風18号は九州から北海道までの各地に大きな被害をもたらしました。
大阪南部の泉州地方では、17日の夕方から次第に風雨が強くなり、午後9時過ぎくらいから突風が吹き始めましたが、午後11時前には収まり、幸いにして大きな被害もなく過ぎ去りました。
大分県では河川の氾濫で床上浸水や建物の損傷などに多大な被害が発生しているようです。
被害に遭われた皆様には心からお見舞い申し上げます。

さて、台風に限らず、降雨の日には畑仕事が出来ないことから、ブルーレイに撮り溜めしているテレビ番組を観るのが、私の過ごし方となっています。
先の台風の日も、6年ほど前に録画した映画「人間の条件-第6部~曠野の彷徨~」と2012年1月1日放送の歌番組「よみがえる美空ひばり」を観て一日を過ごしました。

東宝映画「人間の条件」は主人公の梶を通して戦争における人間性を描いた作品で、1部から5部は既に見終わっています。
梶の所属する隊がソ連軍の攻撃を受け、梶を含む三人を残して全滅します。
彼らは四人の避難民と合流し、梶に従って移動を始めます。途中で日本軍の一個中隊と遭遇しますが、避難民の中に女がいたことから罵(ののし)られ、食糧を分けてもらうことができませんでした。やがて集落でソ連兵と出会ってしまい、梶はソ連の捕虜となってしまうのです。
梶を演じた主演の仲代達也の名演技がとても印象的でした。

またNHKが放送した「よみがえる美空ひばり」は、東京ドームの不死鳥コンサートを中心とした歌と映像の45分間番組でした。
懐かしい歌をたくさん聴かせてくれましたが、その中に美空ひばりが妖艶さたっぷりに歌う「車屋さん」がありました。
今日は人力車を曳く「車屋さん」を取り上げます。

・大阪・新世界でも人力車が活躍しています。新世界の車屋さんです。


    車屋さん
♪ ちょいとお待ちよ 車屋さん
 お前見込んで
 たのみがござんす この手紙
 内緒で渡して 内緒で返事が
 内緒で来るように
 出来ゃせんかいな

 エー 相手の名前は
 聞くだけ野暮よ
 唄の文句に あるじゃないか

 人の恋路を 邪魔する奴は
 窓の月さえ 憎らしい
 エー 車屋さん

美空ひばりの「車屋さん」をお聴きください。


「人力車」
「人力車」は車屋さんが曳く車で、人の力で人を輸送するために設計された車です。
日本では、主に明治から大正・昭和初期に移動手段として用いられましたが、馬車や鉄道、自動車の普及により、都市圏では1926年(大正15年・昭和元年)頃、地方でも1935年(昭和10年)頃をピークに減少していきました。
戦後、車両の払底・燃料難という事情から僅かに復活したことがあったようですが、現在では一般的な交通・運送手段としての人力車は存在していません。
しかし、観光地などで観光用としては活躍しているようです。

人力車は車軸の両側に1つずつ車輪を持ち、上に乗客が座る台座と、或いは雨避けとなる覆いを持ち、台座とつながれた柄を俥夫(しゃふ)が曳いて進むという構造になっています。
人力車は略して人力(じんりき)或いは力車(りきしゃ)とも言われ、また、車夫のことは車力(しゃりき)とも言われたようです。


義と儀と議の使用区分

2017-09-18 | 雑学

皆さまは文章を書く時、漢字で迷うことはありませんか?
私はよく迷うので辞書が欠かせません。
今日は偏の有無や違いによる紛らわしい語、「義」と「儀」、「議」についてその使い分けを調べました。

先ず、手元にある辞書、「漢字に強くなる本」を見ると次のように書いています。
「義」・・・字源は、神への供物がきちんと整い揃っている意。一説には美しい舞の姿、美しい礼を行う姿の意と言う。
     そして、その意味は、よい。ただしい。正しい筋道。道理など。

「儀」・・・字源は、礼に叶った人の行いの意。意味は立派なふるまい。礼式。作法など。

「議」・・・字源は、事のよろしきを論ずる意。意味は諮る。相談する。議論するなど。

もう少し分かりやすく言えば、
・「義」は、正しい筋道や、道理、代わりのものを意味しています。
 例えば、「道義」は行うべき正しい道なので「義」になり、反対の意味の「対義語」や、足の代わりになる「義足」も「義」になります。

・「儀」は、整っているものや、模型を意味しています。
 例えば、地球の模型は「地球儀」、整った作法で行う式の「儀式」は人偏のある「儀」を使います。

・「議」は、意見を出すことや、話し合うことを意味をしています。
 例えば、意見を出し合う会の「議会」や反抗して意見を出す「抗議」、意見を申し立てる「建議」などは、言偏のある「議」を使用します。

漢字の意味を考えると分かりやすいので、使用する時は間違わないように気をつけたいですね。


やはり野に置け蓮華草

2017-09-17 | 時事

民進党の離党者が後を絶ちません。
所属議員からは共産党との共闘や、北朝鮮の脅威がある中、2年前の安保法制の対案の提出が出来なかったこと、憲法問題で党内がまとまらないこと、最近では民進党の基本方針にまで共産党の影響を及ぼす場面も目立つようになったこと等で党内での活動に限界を感じたことなどが理由として述べられています。
これらの問題は今に始まったことではないものの共産党との共闘が相当なアレルギーになっているようです。
新代表になった前原氏も党内をまとめていくには頭が痛いことでしょう。

先日、山梨県笛吹市で記者会見した前原誠司代表は、同党を離党して公認候補が不在となった衆院選挙区に対抗馬を擁立する方針を党所属議員に伝えていたことが報道されていました。
当初、前原氏は離党者らとの将来的な連携も視野に「刺客」擁立に慎重だったそうですが、新たに5人の衆院議員が離党する方向となり「離党ドミノ」を避ける狙いがあるようです。

皆さまよくご存知の諺に「去る者は追わず」があります。
この諺は、今から2300年ほど前の中国、春秋時代の遊説家で、孔子の創始した儒教を信奉する孟子が、弟子に対する態度を述べた言葉で、「来る者は拒まず」と対句になった表現です。

孟子は「そもそも、私の教科のやり方と言うのは、去っていく者は追いかけず、やってくる者は拒まない」と言い、「仮にも道を学ぶつもりで来る者があれば、全て弟子として受け入れるばかりである」と言っているのです。
私の事を信じられなくて、私の元を去ろうとする者を、無理にひきとめるようなことはしないし、また、私の事を信じてやってくる者は誰でも決して拒まないと言っており、去る者、来る者いずれも、その人の心に任せて、決して無理強いはしないと言う度量の広さを示す言葉となっています。

翻って、前原代表はこの諺のように度量の広さを示せるのでしょうか?
ただ、離党が相次ぐ現在の民進党では、国民の支持が得られていないので、議員一人一人の心に任せていたら、離党ドミノが起こる可能性が十分にあります。
その要因を作ったのは平成9年からの3年間、政権を担った鳩山、菅、野田の元総理経験者たちです。
政権を担当した3年間の余りにも無能な国家運営が国民を呆れさせ、民進党離れを起こしたのですが、その事が未だに尾を引きずっている状態であり、彼らの責任は重大です。

俳人、滝野瓢水が読んだ句に、「手に取るなやはり野に置け蓮華草」があります。
意味は、蓮華草は野原と言う自然の中で咲いてこそ愛らしく美しい。同じように物にはそのものを置くのに相応しい場所があり、人にも適材適所と言う相応しい環境があると言うことです。

これは俳人、滝野瓢水が、遊女を身うけしようとした友人をいさめた句ですが、民進党もやはりこの句と同じように、野党にあってこそ輝く党なのでしょうか?


自動改札機

2017-09-16 | 情報

今では、すっかりお馴染みとなっている鉄道の自動改札、JR、私鉄を問わず、殆どの駅(地方の小規模駅を除いて)に設置されているようです。
この自動改札は日本で開発されたのですが、世界初の自動改札が関西から始まったことをご存じでしょうか?

鉄道の自動改札が始まったのは今から50年前の昭和42年(1967年)のことです。
自動改札の歴史は、立石電機(現オムロン)が1964年(昭和39年)に近畿日本鉄道と共同開発に着手したことに始まります。
当初、開発に携わったのは近鉄と大阪大学、立石電機(現オムロン)で、1960年代の高度経済成長期に乗客が増え、ラッシュ時に改札にできる長蛇の列を自動化で解消しようとした事がきっかけでした。
しかし、開発には処理速度など難題が山積みだったそうです。
定期券を入れて0.5秒後に改札を通過させるため、高速回転するベルトを使うなど技術者が知恵を絞りましたが、乗り換え用に連絡改札がある国鉄との調整が上手くいかず、結局、近鉄は採用を見送ったのだそうです。

その後、新たに阪急が立石電機と研究を続け、実用化にこぎ着けました。
実用化された自動改札機は、千里ニュータウンの通勤対策と、1970年(昭和45年)に開催された大阪万国博覧会の大量鉄道輸送対策として、1967年(昭和42年)に阪急電鉄千里線の終着駅「北千里」に乗車券販売機、定期券穿孔機(せんこうき)、紙幣両替機と共に試行設置されたのです。
これが世界初の自動改札システムです。

この後、改札機は関西を中心に採用する駅が増え、次第に全国に普及していったのだそうです。
2000年代にはJR東日本のICカード「Suica(スイカ)」などに対応し、タッチするだけで別の鉄道会社に乗り換えできるようになって、利用者にはとても便利になってきました。

自動改札機は日本の機械技術の粋であり、駅改札業務の迅速化・省力化は勿論ですが、私たち利用者の利便性を飛躍的に向上させた誇るべき機器の一つとなっています。


口に蜜あり、腹に剣あり

2017-09-15 | 雑学

NHkでは9月2日から毎週土曜日に山本耕史さん主演で『植木等とのぼせもん』のドラマを放送しています。
植木等と言えば、昭和30年代半ばの高度経済成長期に出てきて、一世を風靡したコメディアンで、クレイジーキャッツのメンバーとともにたちまち茶の間の人気者になり、数々の主演映画やヒット曲も出しました。
そして、彼の代名詞となったのが『日本一の無責任男」とか「日本一のゴマスリ男」などという呼び方です。
しかし、今ドラマを観ていると「無責任男」どころか、至って真面目な一面があって、涙する場面も多々出てきます。
明日の土曜日は8回シリーズの3回目となります。
このドラマは、私が毎週楽しみにしている番組の一つでもあります。
今日は「ゴマスリ男」について調べました。

先ず、植木等の映画「日本一のゴマスリ男」のテーマ曲をお聴きください。


植木等が日本一のゴマスリ男なら、この人は中国一、いや、世界一のゴマスリ男かも知れません。
その人の名は李林甫(りりんぽ)と言う人です。

この李と言う人は唐の玄宗皇帝にゴマをすり宰相にもなった人なのだそうです。
調べてみると、故事は次のように伝えています。

唐の玄宗皇帝にゴマをすり宰相にもなった李林甫は、他の有能な宰相や官吏たちを、政治に飽きて諫めごとを嫌う玄宗皇帝に薦め退けさせました。
また、その間、玄宗の寵姫(ちょうき)の武恵姫(ぶけいひ)や宦官(かんがん)の高力士(こうりきし)にとりいって、玄宗の気に入るように勤め、その権勢を得るためには手段を選ばなかったそうです。

独裁的権力を握った後も、反対勢力の弾圧につとめ、多くの官吏が犠牲になったそうです。
当時、彼が反対勢力の台頭を恐れ、節度使(せつどし:地方の軍政・行政を司る地方長官)に異民族を用いる政策をとったことが、異民族出身である安禄山(あんろくざん)や史思明(ししめい)によって指導された反乱を引き起こすきっかけにもなりました。

このようなことから、当時、世の人たちは、口では優しく上手い事を言いながら、内心は陰険な人である李林甫のことを評して「口に蜜あり、腹に剣あり」と言ったそうです。

日本一のゴマスリ男は人情に厚いですが、中国のゴマスリ人間は腹黒いようです。
このことは、昔も現在も変わっていないようですね。


命あってのものだね

2017-09-14 | 雑学

一昨日、神戸市長田区で指定暴力団神戸山口組から離脱した新組織「任侠山口組」関係者の楠本勇浩さんが射殺されるという事件が発生しました。
暴力団同士の抗争とはいえ、余りにも人の命が軽んじられています。
また、学校や職場でもいじめによる自殺が後を絶ちません。

警察庁の調べによると28年中の年間自殺者数は21897人で、対前年比2,128人(約8.9%)減となり、平成10年以来、14年連続して3万人を超えていた自殺者は、22年ぶりに2万2,000人を下回ったそうです。
この傾向は今年も続いており、29年1月~8月は14,665人となっているようですが、それでも年間では2万人を上回ると予想されます。
自ら命を断つという決断をした人には、様々な事情があるのだと思いますが、死ぬ気になれば何でもできるのではないでしょうか。
命は大事にして頂きたいと思います。

さて、今日は「命」に関する数ある諺の中から「命あってのものだね」を取り上げます。

「命あってのものだね」とは、全ての事は命があるからこそ出来るので、死んでしまってはどうにもならない。だから、命に関わるような危険な事はなるべく避けて自重せよ、と言うことです。
いかなるときでも命は大切にすべきだという戒めで使われる諺で、出典は傾城色三味線(けいせいいろしゃみせん)だそうです。

「命あってのものだね」の「ものだね」を漢字で書くと「物種」と書き、「命あっての物種」となります。
したがって、「ものだね」を「物だ+ね」と解釈し、「命あってのものだねぇ~」という書き方すると誤りとなります。

「物種」とは、物事の根源の意味です。
この諺は語呂合わせで、「命あっての物種。畑あっての芋種」などとも言われているようですが、それは兎も角、どんなことでも命あればこそ出来るのです。
決して命を軽んずることなく、まずは生きることを選び、自分や他人の命を大切に考えていただきたいと思います。


なお、出典の「傾城色三味線」とは、江戸中期の浮世草子です。
浮世草子とは、1682年(天和2)の井原西鶴の《好色一代男》より約100年、天明初年までのあいだ、主として京坂の地で行われた現実的な態度で風俗・人情を描くことを基本的な姿勢とする小説の総称をいいます。


住宅用火災報知機の交換時期

2017-09-13 | 情報

皆様のご家庭には住宅用火災報知機を設置されていますよね。
設置されてどのくらい経ちますか? 管理・点検をされていますか?
実は、住宅用火災報知機は設置から10年も経つと不具合が生じることがあるようです。
そこで今日は住宅用火災警報器の交換時期について取り上げます。

住宅用火災警報器は平成16年(2004年)に消防法が改正されたことから、新築住宅では平成18年(2006年)6月1日から、既存住宅についても市町村条例の規定によって、平成20年(2008年)6月1日から平成23年(2011年)6月1日までに設置することが義務づけられています。
なので、現在では全てのご家庭に設置されている筈です。
今年は設置が義務づけられてから10年余りとなることから、持ち主が気付かない間に電池が切れるなどして作動しないといったケースが相次いでいるようです。

全国の消費生活センターでは、「住宅用火災報知機の警報音が止まらない」といった不具合を訴える相談が増えているそうで、その件数は、この5年間で141件に上っているということです。
さらに、国民生活センターがインターネット上でアンケート調査したところ、火災でも鳴らなかったり、火災ではないのに作動したりした、といった経験をもつと答えた人は全体の13%に達していると言うことです。

一方、総務省消防庁でも、火災が起きても警報器が適切に作動しなかったケースが、去年1年間に全国で91件起きており、その原因として、気付かない間に電池が切れていたり、ほこりが入ってセンサーが働かなくなったりして不具合が発生したケースもあると言うことです。

このようなことから、国民生活センターでは「警報器の寿命は10年程度と言われており、いざという時にきちんと作動するよう、定期的な点検や交換を行ってほしい」と注意を呼び掛けています。

以上のように、住宅用火災警報器は経年劣化や電池切れにより正しく作動しないこともあります。
消防庁が、実際の住宅火災における被害状況を分析したところ、住宅用火災警報器の設置により、火災発生時の死亡リスクや損失の拡大リスクが大幅に減少するという結果がでているそうです。
火災から命を守るために、住宅用火災警報器は定期的に点検し、10年を目安に取替えるようにしましょうね。


疾風に勁草を知る

2017-09-12 | 雑学

先日、番組名は忘れましたが、テレビを観ていたら出演者の一人が聞き慣れない諺を言っていたので、すぐに書き留めました。
その諺とは、「しっぷうにけいそうをしる」でした。
私の悪い癖で、すぐに調べてみたのです。
そこで今日はこの諺を皆さまにもご紹介したいと思います。

「疾風に勁草(けいそう)を知る」は、漢字ではこのように書きます。
この諺の出典は「後漢書」王覇伝で、その意味は、困難に遭遇した時、初めてその人の意志の強さや、人間としての本当の値打ちが分かるというものです。

この故事は、中国前漢最後の時期と言うので、今から2000年ほど前の出来事が由来となっているようです。
漢王朝は紀元前206年から紀元220年までの約400年(内前漢は前206~後8年、後漢が25~220年)にわたる王朝ですが、14代孺子嬰(じゅしえい)の時に王莽(おうもう)に負けて前漢は一度滅びました。しかし、後に16代光武帝が再興して後漢が誕生しました。

この光武帝の再興事業を支えた中に、雲台28將と呼ばれる功臣団がありますが、その23番目の序列に王覇(おうは)がいました。
この王覇という人は潁川(えいせん:今の河南省)の潁陽(えいよう)というところの地方役人になっていたのですが、「俺はこんな器ではない」と慷慨(こうがい)して仕事に力が入りませんでした。
父がその才を見て、西にある長安で学ばせたと思っていた、ちょうどその頃に光武帝を知るようになり、その後、郷里の潁陽に戻っていたのです。

後漢の始祖となる光武帝が劉秀(りょうしゅう)と名乗っていた時に兵を起して潁陽(えいよう)を通過した時に、この王覇が「私は威徳を慕っている」と言って軍列に入りたいと願い出たのです。
劉秀(光武帝)が「君のような憂国の賢士が現れぬかと夢にまで思っていた」と歓迎し、軍列に加えました。
その軍は昆陽で王尋(おうじん)と王邑(おうおう)を下し、王覇は一端帰国して時を待ったのです。

その後、中央の役人に返り咲いた劉秀(光武帝)が、もう一度進軍した時に再度参軍して洛陽(河南省の西部)に到達し、劉秀が大将となって、王覇も高官に出世して、河北攻略に従軍したのです。
王覇に従っていた賓客が数十人いたのですが、困難な河北攻略に客たちは次第に離れて、ついに王覇一人となったのです。

この時、劉秀が「潁川から私に従って来た者は皆去っていき、今ではお前一人となった。善く努めよ。困難の中にこそ、その人間の本質というものが輝くのだ」と言ったのです。
これが「疾風に勁草を知る」の由来となっている言葉なのだそうです。

日本では武士道と言うものがあって、主君に対する絶対的服従と忠誠を誓う主従関係が存在していましたが、中国での主従関係は希薄のようですね。
その違いが現在の国民性の違いの一端にもなっているのかも知れませんね。


臥薪嘗胆 4年

2017-09-11 | 時事

         桐生選手やったね!    9秒98 おめでとう!
福井で行われていた陸上の日本学生対抗選手権で、9日の男子100m決勝に臨んだ桐生祥秀選手が9秒98の日本新記録を樹立し、日本人で初めて10秒の壁を破りました。         

桐生選手と言えば、4年前の2013年4月の高校3年の時、当時の日本歴代第2位となる10秒01を記録して一躍脚光を浴びました。
「次は日本人初の9秒台だぁ」と騒がれ、大いに期待されました。しかし、なかなか記録更新が叶いませんでした。
昨年のリオ・オリンピックでは、400mリレーで、山縣亮太選手、飯塚翔太選手、ケンブリッジ飛鳥選手らと組んで銀メダル獲得に貢献したものの、男子100メートルでは予選で7組4着となり、準決勝に進めませんでした。
更に、今年8月に開催された世界陸上ロンドン大会では100mの個人種目代表を逃してしまいました

4年前に日本歴代2位となる10秒01を記録した後は足踏み状態が続き、その間に次々と記録を伸ばしてきた多田修平選手や飯塚翔太選手、ケンブリッジ飛鳥選手、サニブラウン・ハキーム選手、藤光謙司選手らの追い上げにもがき苦しんだのではないかと推察します。
それを物語るのが世界陸上ロンドン大会で100mの個人種目代表を逃したことではないでしょうか。
非常に悔しかったことと思います。

しかし、4年間くすぶっていた彼には、“桐生君に一番に9秒台を出して欲しい”と言う声や色々なメッセージがSNSで届いていたことから、常に日本人初の10秒の壁を破るという目標を持って練習に励んだようです。
ニュースでは、一日に50m走を70本走った事もあると報じていました。

よくご存知の諺に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」があります。
意味は、目的を遂げるために自らに試練を課し、厳しい苦労や努力をすることです。

この故事は、中国春秋時代と言いますから、今から2500年ほど前のことです。
呉王の夫差(ふさ)は、越王・勾践(こうせん)に敗れた父の仇を討つために、薪(たきぎ)の上に臥(ふ)して復讐心を培い、ついに3年後に勾践を会稽山(かいけいざん)で降伏させたのです。

一方、破れた勾践は後に許されて帰国しましたが、以来、常に苦い胆(きも)を部屋に掛けておき、それを嘗(な)めては会稽山での恥辱を思い起こし、復讐心をあおり、ついに十数年後、今度は夫差(ふさ)を滅ぼしたと伝えられています。(出典:十八史略)

今回の桐生選手の走りは、正に、
この故事がピッタリするような、と言っても復讐ではなく、復活を印象付ける素晴らしい走りでした。
辛酸をなめ、プライドを引き裂かれた桐生選手は、4年間の苦しい思いを、日本人初の9秒台突入と言う快挙で一気に晴らしたのです。
呉王の夫差(ふさ)は3年で父の仇を討ちましたが、桐生選手は臥薪嘗胆4年「桐生ここにあり」と、再び名乗りを上げてきました。
彼には常時9秒台が出るように励んでいただき、世界での活躍を期待したいと思います。