らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

疾風に勁草を知る

2017-09-12 | 雑学

先日、番組名は忘れましたが、テレビを観ていたら出演者の一人が聞き慣れない諺を言っていたので、すぐに書き留めました。
その諺とは、「しっぷうにけいそうをしる」でした。
私の悪い癖で、すぐに調べてみたのです。
そこで今日はこの諺を皆さまにもご紹介したいと思います。

「疾風に勁草(けいそう)を知る」は、漢字ではこのように書きます。
この諺の出典は「後漢書」王覇伝で、その意味は、困難に遭遇した時、初めてその人の意志の強さや、人間としての本当の値打ちが分かるというものです。

この故事は、中国前漢最後の時期と言うので、今から2000年ほど前の出来事が由来となっているようです。
漢王朝は紀元前206年から紀元220年までの約400年(内前漢は前206~後8年、後漢が25~220年)にわたる王朝ですが、14代孺子嬰(じゅしえい)の時に王莽(おうもう)に負けて前漢は一度滅びました。しかし、後に16代光武帝が再興して後漢が誕生しました。

この光武帝の再興事業を支えた中に、雲台28將と呼ばれる功臣団がありますが、その23番目の序列に王覇(おうは)がいました。
この王覇という人は潁川(えいせん:今の河南省)の潁陽(えいよう)というところの地方役人になっていたのですが、「俺はこんな器ではない」と慷慨(こうがい)して仕事に力が入りませんでした。
父がその才を見て、西にある長安で学ばせたと思っていた、ちょうどその頃に光武帝を知るようになり、その後、郷里の潁陽に戻っていたのです。

後漢の始祖となる光武帝が劉秀(りょうしゅう)と名乗っていた時に兵を起して潁陽(えいよう)を通過した時に、この王覇が「私は威徳を慕っている」と言って軍列に入りたいと願い出たのです。
劉秀(光武帝)が「君のような憂国の賢士が現れぬかと夢にまで思っていた」と歓迎し、軍列に加えました。
その軍は昆陽で王尋(おうじん)と王邑(おうおう)を下し、王覇は一端帰国して時を待ったのです。

その後、中央の役人に返り咲いた劉秀(光武帝)が、もう一度進軍した時に再度参軍して洛陽(河南省の西部)に到達し、劉秀が大将となって、王覇も高官に出世して、河北攻略に従軍したのです。
王覇に従っていた賓客が数十人いたのですが、困難な河北攻略に客たちは次第に離れて、ついに王覇一人となったのです。

この時、劉秀が「潁川から私に従って来た者は皆去っていき、今ではお前一人となった。善く努めよ。困難の中にこそ、その人間の本質というものが輝くのだ」と言ったのです。
これが「疾風に勁草を知る」の由来となっている言葉なのだそうです。

日本では武士道と言うものがあって、主君に対する絶対的服従と忠誠を誓う主従関係が存在していましたが、中国での主従関係は希薄のようですね。
その違いが現在の国民性の違いの一端にもなっているのかも知れませんね。

コメント (1)
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