先日、関西の某民放に出演していた有名な評論家でコメンテーターのM氏が「昔は弁当を使う」という表現があったと語っていました。
「弁当を使う?」初めて聞く表現なので調べてみました。
「弁当を使う(遣う)」という表現は小説や落語などで見聞きすることはありますが、現実には聞いたことがありません。
しかし、古くには使われていた表現なのだそうです。
「使う」の意味は、広辞苑によれば「それによって用を足すための動作をする」とあり、例として、「弁当を使う」「湯を使う」などが載っています。
「○○を使う」とは、「○○を使って、××する」の「××する」を言わずに、遠回しに言う表現なのだそうです。
なぜ「××する」と言わないかというと、そのものズバリの言葉を使うのをはばかっていると考えられているそうです。
「弁当を使う」は、「弁当を使ってご飯を食べます」ということのようですが、この言葉の後半が省略されて「弁当を使う」と言う言葉が生まれたのだそうで、
これは「人前で食べる」という行為が下品と考えられたことからのようです。
後に、この言い方が定着して、そのような行為が下品とは思われなくなっても、言葉だけは生き残って慣用句と呼ばれるようになるようです。
他にも「手水(ちょうず)を使う」や「産湯を使う」等があります。
それにしても評論家の方は難しい表現をよく知っているものです。
昨日、2020年のオリンピック開催都市に東京が選ばれた事から、その喜びで日本中が沸きかえりました。
事前の予想では東京がリードしていたものの、福島原発の汚染水問題が大きな懸念材料となり、マドリードが急迫してきたとの報道からやきもきしていたところですが、いざ投票となると先ずマドリードが脱落しました。
そして、イスタンブールとの決選投票では東京が大差をつけて開催都市に選ばれました。
昭和39年(1964年)以来、実に56年振り、2回目の開催となります。
マイナス材料であった東電福島原発の汚染水問題は、安倍総理の説明でなんとかクリアしたようですが、それ以外にも、最終プレゼンに臨んだ全員の熱弁やロビー活動などが奏功し、更にそれに加えて何らかの「プラスアルファ」が働いたのではないかと思います。
例えば、気仙沼市出身でパラリンピック陸上の佐藤真海選手が行った「みずからの経験を基に、震災で学んだスポーツの力のすばらしさ」を訴えたことや震災からの復興に関することかも知れません。
その内容は兎も角、今日は、この「プラスアルファ」という言葉の由来について調べることにしました。
『プラスアルファ(+α)』とは、【ある状態に更にいくらかつけ加えること】を言いますが、この言葉は野球が由来と言われています。
野球で、最終回裏の攻撃を必要としないで後攻チームの勝ちが決まるとき、スコアボードの9回裏には「X」と書きますが、これは数学で未知数を表す「X(エックス)」の符号で、もし、後攻チームの攻撃があったら、更に追加点が入ったかもしれないことから、“得点が未知数”という意味で「X」と書きます。
これを日本ではかつて「X」ではなくギリシャ語の「A(アルファ)」で表していたという歴史があるそうです。
それは明治20年代、現在の東京大学の前身である“一高の野球部”が、外国人チームと試合をした際、相手側のスコアブックに書かれていた「X」の筆記体を「α(アルファの筆記体)」と見間違えたことによるものです。
ギリシャ語の「A(アルファ)」には本来【未知数】の意味はなく、国際的には「X(エックス)」が使われていることから、昭和32年2月に「A(アルファ)」から「X(エックス)」に戻す動きがあり、「アルファ」は使われなくなったそうです。
しかし、この「プラスアルファ」、明治時代にはすでに野球でも【さらにいくらかつけ加えること】の意味で使われていたそうで、それが一般に広がって今でも日常生活で使われていると言うことです。
なお、これは和製英語なので海外では要注意とのことです。
今朝5時20分頃、2020年のオリンピックが東京で開催されることが発表されました。
おめでとうございます。
関係者の皆様のご努力に感謝申し上げ、敬意を表したいと思います。
有り難うございました。
さてオリンピックとは直接関係ありませんが、鉢植の「ミニギボウシ(擬宝珠)」が咲いたのでご紹介します。
今年は夏の乾燥から葉っぱが焼けて枯れそうになりましたが、9月に入ってからの気温の低下とともに元気になり、先日開花したものです。
ギボウシ(擬宝珠)とは、橋の欄干の柱頭等につける飾りで、若い蕾が未だ集合している時期の形が似ているとされることからこの名がつけられたようです。
・これが玉ねぎを逆さまにしたような装飾物のギボウシ(擬宝珠)です。(ネットより)
日本には約20種のギボウシ(擬宝珠)が知られているそうですが、その多くが一日花だそうです。
その内コバギボウシ(小葉擬宝珠)は花茎の高さが30~50㎝、葉は柄が長く、葉身は長さ10~20㎝、幅5~8㎝で、仲間の中では小型の種類ですが、ミニギボウシ(擬宝珠)はそれよりさらに小さい種類です。
夏の乾燥で葉っぱの先が枯れているミニギボウシです
・これが薄紫色をしたミニギボウシ(擬宝珠)の花です。
・ミニギボウシ(擬宝珠)の花と蕾です。この花の蕾が「擬宝珠」に似ていることからこの名になったそうですが、細長い蕾がタマネギを逆さまにしたような擬宝珠に似ているでしょうか?
汗をかいた後に入る温めの風呂は、何とも言えない至福のひと時ですね。
疲れが取れてとても気持ちよく、そのまま眠りそうになります。
でも、そもそもなぜbathのことを風呂と言うのでしょうか?
今日は風呂の語源について調べました。
日本の風呂の起源は、自然の石穴や窯に蒸気を充満させた蒸し風呂形式のものだったそうです。
そのため、穴蔵や岩屋のことをいう「室(むろ)」が「ふろ」に変化したとする説や
茶道で使われる「風炉(ふろ)」という道具がありますが、これは火を入れて暖をとったり、湯を沸かしたりするもので、沸かした湯の蒸気を利用した蒸し風呂もあったことから、「風炉」と書かれたのがのちに「風呂」になったと言う説、
更に、湯室(ゆむろ)が転じたとする説などがあるようです。
英語の"bath"は、イギリスにある温泉場の街の名前バース(Bath)が語源で、日本の「温泉町」という地名と同じように、温泉があるから"Bath(温泉湯治場)"と呼ばれるようになったそうです。
ふんだん
8月は下旬まで観測史上最長の17日連続の猛暑日が続き、加えて、殆ど雨が降らず、カラカラに乾燥していた大阪ですが、一転して、先月30日から降り出した雨は一昨日まで続き、川から水を導入している田には「ふんだん」に水が入り、加えて水不足で水を運んでいた農家の人たちもこの雨でホッとしたところです。
家庭菜園においても、畑は十分過ぎるくらい湿っており、朝夕の水やりから解放されて、こちらも一安心していますが、今日はこの「ふんだん」の由来について調べました。
「ふんだん」には【たくさん、ゆたかな】という意味があって、資金が「ふんだん」にあるなどと使われますが、この言葉は、実は「不断(ふだん)」という言葉に由来するそうです。
「不断」は【絶え間なく、途切れず続く】という意味から「物事が多くある」「ゆたかになる」という意味になったようで、江戸時代の方言辞典には「不断といふべきを、ふんだんなどといふうを如何」とあるそうです。
元々、江戸の方言では「真中」を「真ん中」というように、本来は「ふだん」と言っていたものを「ふんだん」と発音し、それが現在に至っているようです。
「不断」はもう一つ「普段」ということばにも関係があって、もともとは「普段」も「不断」だったそうで、「普段」は明治時代以降の当て字と言われています。
「不断」は先ほど説明したように【途切れず続く】という意味から【いつもと同じ状態】になり【日常】という意味に広がったようであり、江戸時代の滑稽本には普段着が「不断着」と出ているそうです。
6月に菜園仲間のNさんからラッキョウの球根を頂いていたので、昨日植え付けしました。
今日は私の初めてのラッキョウ栽培をご紹介します。
ラッキョウは、ユリ科の野菜で原産地は中国、日本には9世紀ごろに渡来したと言われています。
非常に丈夫で、やせ地でも十分育つことから、球根を植えさえすれば、数回追肥するだけで殆ど手をかけずに栽培することができるようです。
・これが頂いた種用のラッキョウです。
栽培方法をネットで調べたところ次のようでした。
1.植え付け時期 関西地方は8月下旬~9月中旬
2.畝の準備 植えつけの2週間前までに、1m2当たり150~200gの苦土石灰を散布してよく耕します。
1週間前までに、畝全面に1m2当たり堆肥2kgと化成肥料を1m2当たり120gを散布し、土に混ぜ込みよく耕します。
3.植え付け 1条植えの場合は畝幅60cm、
2条植えでは幅80cmの畝に、条間を40cmとし、
いずれの場合も球根は、20cm間隔で2球ずつを、球根の先端がわずかに見えるぐらいの浅植えにします。
植えつけ後に、たっぷり水やりをします。
4.追肥 植えつけから2ヵ月後に、株元へ軽く土寄せし、500倍に薄めた液体肥料を、水代わりに与えます。
その後、週に1回の割合で2~3回追肥し、更に、3月上~中旬に1回、化成肥料を、1m2当たり120gを株のまわりにばらまいて追肥します。
5.収穫時期 収穫時期は6月です。
・枯れた茎を切り取った球根です。
・60センチ幅の畝に、株間20㎝の穴を掘ります。
・上記の穴に2球ずつ、先端が少し見えるくらい浅く植え付けます。
30球全てを植え付けた後、たっぷりと水遣りをして植え付け完了です。
ラッキョウ漬けにできるくらい収獲できればいいのですが・・・。
浪速恋しぐれ 作詞:たかたか
作曲:岡千秋
〽 芸のためなら 女房も泣かす
それがどうした 文句があるか
雨の横丁 法善寺
浪花しぐれか 寄席囃子
今日も呼んでる 今日も呼んでる
ど阿呆春団治
昭和58年(1983年)に都はるみと岡千秋がデュエットっして大ヒットした「浪速恋しぐれ」です。
今日はこの歌に歌われている「ど阿呆」についてその語源を調べました。
「阿呆(阿房とも書く)」とは、愚かであるさまや言動、また、そのような人を罵る言葉として関西地方や中国地方で多く使われますが、同じ意味の言葉としては、関東では「ばか(馬鹿)」が、東海地方では「たわけ(戯け)」が使われています。
意味の重みは地方によって違い、関東では「阿呆」は馬鹿よりも語感が強く、逆に関西圏では馬鹿よりも軽く、親しみの意を込めて使われることも多いようです。
最近では上方芸人が頻繁にメディアで使用していることから、関東圏でも「阿呆」に対して意味合いが軽くなってきていると言われています。
しかし、認識と感覚は別なため、関東圏での使用に際しては注意が必要と言われています。
なお、「阿呆」についてウィキペディアにリンクしているのでご参照ください。
さて、この「阿呆」の語源ですが、
一説には、古くは「阿房」とも書いたことから、秦の始皇帝が阿房の地に大きな宮殿「阿房宮」を建て遊びふけっていたために、楚の項羽に滅ぼされしまったという故事から出たとする説があり、
他には、乳母のことを「阿呆(あほう)」といったことから、乳母をつけておかなくてはならないほどの馬鹿者の意とする説、
更に、中国江南地方の方言で「おばかさん」を意味する「アータイ(阿呆)」を日本語読みした「アハウ」が変化したとする説などがあるようです。
平成2年に亡くなった藤山寛美さんは阿呆役を演じれば天下一品と評され、「あほの寛ちゃん」として人気を博した大喜劇俳優です。
関西にはこの他にも、漫才師の横山やすしや喜劇俳優のアホの坂田などアホを演じる喜劇役者がたくさん居りましたし、現在もいます。
昔のCMにあった「クリープのないコーヒーなんて」ではないですが、「阿呆と言う言葉のない関西弁なんて」と比喩できるほど関西にピッタリする言葉のように思われます。
図に乗る
今日は「図に乗る」について調べていたところ、作家・渡辺淳一氏のブログの『鈍感力』の中に、“図に乗る、調子の良さ”と題して次のように書かれていたので冒頭にご紹介します。
鈍感力を養うには、「図にのる」ということも必要です。別の言葉でいうと、「いい気になる」ということです。
褒め言葉にのる、この「図にのる、調子のよさ」はいわゆる、はしたないことではなく、その人を大きく、未来に向かって羽ばたかせる原動力となるのです。
『鈍感力』があったほうがいいと言っても、無反応な鈍感ではなく、調子のいい鈍感さがいいのではないでしょうか。
人からほめられたり、いいことがあった時には、ちょっとぐらい“図にのる”、“いい気になる”ような調子のよさがあってもいいのでしょう。
そのためには、まず、「はしたない(んじゃないか)」「調子がよすぎる」、「喜んじゃいけない」などと、余計なことを考えずに、素直に喜ぶこと。
そして、「喜びを力に」いい方向に進めればいいのでしょう。
小さいいいことでも、いいきっかけにする、心のエネルギーにする、自信にする、のようにできればいいのではないでしょうか。
「鈍感なのは生きていくうえで、強い力になる」、「ひりひりと傷つき易い、鋭く敏感なものより、たいていのことではへこたれない、鈍く逞しいものこそ、
現代を生き抜く力であり、知恵でもあるのです」 (以上 渡辺淳一氏のブログより)
“この図に乗る”は、「上手く事が運ぶ」や「調子に乗ってつけ上がる」等の意味がありますが、実はこの言葉は音楽から生まれたのだそうです。
「図に乗る」の「図」は、「声明(しょうみょう)」という仏教音楽の言葉であり、声明とは経文などに節をつけて歌う声楽のことで、とても歌うのが難しいそうです。
そこで、「調子」が変わるところには、楽譜のように旋律を表す印がついたものがあり、それを「図」と言うのだそうです。
そして、図の通りに間違いなく転調できることを「図に乗る」と言い、それが一般にも広がって【思うように事が運ぶ】ことを「図に乗る」と言うようになりました。
ただ、上手くいくと人は往々にしてつけあがってしまうことから、「図に乗る」に【いい気になる】などの意味が加わったようです。
昨日の「防災の日」には、全国各地で防災訓練が行われたようです。
官邸では、マグニチュード(M)9.1、最大震度7で、最悪の場合に死者32万人が想定される「南海トラフ巨大地震」を想定した初めての訓練が行われ、安倍首相が災害緊急事態を布告し、国民に冷静な行動を呼びかけました。
家庭においても食糧・飲料水などの備蓄が呼びかけられており、首相官邸のHPの「防災特集」の中にその対策が載っているのでご参照ください。
地震大国日本で余り心配し過ぎると「枕を高くしては寝られません」が、出来る限りの備えはしておきたいものです。
ところで、安心した時に「これで枕を高くして寝ることができる」と言いますが、今日はこの言い回しの由来を調べました。
「枕を高くする(高くして寝る)」は、紀元前の中国の歴史書『史記・張儀列伝』にある一節だそうです。
その一節とは、「無楚韓之患、則大王高枕而臥、国必無憂矣。(楚韓の患い無くんば、則ち大王枕を高くして臥し、国必ず憂い無からん)」
(楚と韓の患いがなくなれば、大王は枕を高くしておやすみになれ、国には必ずや憂いがなくなりましょう)に由来するといわれています。
この時代は中国の戦国時代で、敵がいつどこから攻めてくるかわからないため、夜も着の身着のまま、遠くの物音を聞きつけられるよう地面に耳をつけて横になっていたのだそうです。
戦の心配がなくなれば地面から耳を離し、高さのある枕をして眠ることができるので、そこから「枕を高くする」は【安心して寝る、安心する】という意味で使われるようになりました。
映画やドラマで「阿漕(あこぎ)な真似は止めろよ」などのセリフを聞くことがありますが、今日はこの阿漕(あこぎ)と言う言葉について調べました。
この言葉は、強欲でやり方があくどいさまや、際限なくむさぼることを言うものですが、その由来は、三重県津市東部一帯の海岸「阿漕ヶ浦(あこぎがうら)」に纏わる伝説や歌だそうです。
阿漕ヶ浦(あこぎがうら)は古くは伊勢神宮に供える魚をとるための御領で禁漁区だったそうですが、阿漕の平次と呼ばれる漁師がたびたび密漁をして捕らえられたという伝説から、同じ行為を繰り返すことを表す言葉となり、転じて際限なくどこまでもむさぼるという意味で用いられるようになったそうです。
この伝説からは様々な話が創作されて『阿漕ヶ浦(あこぎがうら)』の名前が世間に広まり、室町時代の源平盛衰記では「あこぎ」を「たび重なること」の比喩として使い、近世以降には「しつこいさま」の意味で使われるようになったそうです。
なお、一般に広がったのは「古今和歌六帖」の中にある和歌によると言われています。
「逢ふ事を 阿漕の島に ひく網の たび重ならば 人も知りなむ」 『古今和歌六帖』
日向の国から、伊勢神宮参詣を志した旅人が、伊勢の阿漕にやってきて漁翁にこの地名の謂れを尋ねます。
神饌の為の漁場であったが阿漕の平次という孝行な男が、病気の母に食べさせるために、密漁をして露見し、その罪により海に沈められことを語り、自分はその阿漕の幽霊であるといって、弔いを求め、俄に騒ぐ波間に消え失せます。
旅人が、経を読んで弔っていると阿漕の幽霊が現れ、網で漁をする有様を再現し、地獄で受けている責め苦を見せて、その罪を助け給えと頼んで再び波の底に消えて行きます。
地名の謂れの話として、このように語られているそうです。