らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

“熊野古道を歩く”第3弾(その3)糸我王子

2011-08-05 | 趣味

“熊野古道を歩く”シリーズ、3回目の今日は「糸我(いとが)王子」から糸我峠までをご紹介します。
糸我稲荷神社から400m~500mくらい行ったところに「糸我(いとが)王子社」の小さな祠があります。

「糸我(いとが)王子」
「糸我(いとが)王子社」の説明板によれば、藤原宗忠は、天仁2年(1109年)10月18日に有田川に架かる仮橋を渡って、伊止賀(いとが)坂を登っていますが、王子の名はその時の日記には書かれていないそうです。
それから約100年後、藤原定家は後鳥羽上皇の熊野御幸に随行して、「いとカ王子」に参っていますが、「糸我王子」と正しく書いたのは藤原頼資(ふじわらよりすけ)の日記だそうです。
頼資は修明門院(しゅめいもんいん)に随行して承元4年(1210年)4月25日にこの王子社に参拝しているそうです。

説明板では更に続いて、糸我王子社は近世には廃絶していたらしく、『紀伊続風土記』に、「廃糸我王子」と記されています。
また、この付近には、「水王子社」「上王子社」がありましたが、地元では「上王子社」を糸我王子社に比定しています。両王子社は明治時代、稲荷神社に合祀されましたが、平成7年、愛郷会の人たちによって当地に「糸我王子社」として再建されました。

・「糸我王子社」です。平成7年にこの場所に移設されました。


「糸我王子社」からしばらく歩くと「糸我王子社跡」の標柱が立っていました。この場所が古来の「糸我王子社」の址のようです。

「糸我王子址」
ここに立てられている説明板によれば、
王子とは、若一王子(にゃくいちおうじ)をいい、祭神は天照大神である熊野三山をはるかに拝まれ、また休息されたところを言う。
糸我坂への登り口左側の畑の中にありましたが、明治40年稲荷神社に合祀されました。
「糸我王子」は『御幸記』に「イトカハ王子」とあり、後世「糸我王子」と称されたが江戸時代には「上王子」と呼ばれていました。これは下の「水王子神社」に対して上にあるためそのように呼ばれたものと思われています。
と記されています。

・ここが古来にあった「糸我王子社」の址です。現在は標柱が立ててあるだけです。


糸我王子から糸我峠へ登る急坂前の休憩所です。ここで一息入れた後、高さ150mの糸我峠超えを目指します。


ジグザグに造られている竹やぶの中の急な登り道です。


糸我峠頂上には「明恵上人(みょうえしょうにん)遺訓」の説明板が立ててあり、次のように書かれていました。なお、明恵上人は鎌倉時代前期の華厳宗の僧で、現在の和歌山県有田川町の出身だそうです。
「明恵上人(みょうえしょうにん)遺訓」
当時の執権・北条泰時が上人に尋ねられたことは「乱世を治めるにはどのようにすればよいのか」と。
上人は〈阿留邊幾夜宇和〉の七文字を持つべきなりとあり「僧は僧あるべきようわ、裕は裕のあるべきようわ、臣は臣のあるべきようわ、帝王は帝王のあるべきようわ、なり、このあるべきようわを背く故に上手くゆかないのであると諭した。とあります。



急坂を登りきったところが糸我峠の頂上です。暑い中の峠越えはきつく、メンバーの内70歳代後半の一人がバテ気味になり、ここで昼食時間を含め1時間余りの休息をとることにしました。


糸我峠からの湯浅町の眺望です。正面に見える丘の頂には風車がたくさん設置されていました。


これがズームで撮影したその風車です。原子力発電に代わる次世代発電の一つですが果たしてどのくらいの発電量が確保できるのでしょうか?