“熊野古道を歩くシリーズ”第2弾の3回目は「筆捨松」から「塔下(とうげ)王子跡」までをご紹介します。
峠越えの長い坂道「藤白坂」を、頂上まで300mくらいの道のりまで登ると、藤白伝承遺蹟「筆捨松」があります。
「筆捨松」由来記によると、ここには「投げ松」と「筆捨松」の言い伝えがあります。
・「投げ松」
第34代舒明(じょめい)天皇(635年)は、熊野へ行幸の途次、藤白峠で王法の隆昌を祈念し小松にしるしをつけ谷底へ投げられました。
帰路、その小松が根付いていたので吉兆であると喜び、、以来「投げ松」と呼ばれています。
・「筆捨松(ふですてまつ)」
平安前期の仁和年間(885~888年)の頃、絵師の巨勢金岡(こせのかなおか)は藤白峠で童子と出会い競画することになって、金岡は松に鶯を、童子は松にカラスを描きました。
次に、金岡は童子の絵のカラスを、童子は金岡の絵の鶯を、手を打って追うと両方とも飛んで行きました。
今度は童子がカラスを呼ぶと何処からか飛んできて絵の中に収まりましたが、金岡の鶯は呼んでも帰らなかったことから「無念!」と筆を投げ捨てました。
筆は「投げ松」のところに落ち、以来、この松を「筆捨松」と呼ばれるようになったそうです。
・「筆捨松」由来記と硯石がある場所です。
「硯石」
熊野古道伝承遺蹟「筆捨松」に因み、紀州徳川家初代藩主の徳川頼宣公の命により、後に自然の大石に硯の形を彫らせたと伝えられているものです。
この硯石は重さ約17トンで、嘗て「筆捨松」の大木の根本に立っていましたが、昭和58年の水害で土砂とともに押し流されて埋もれていたものをこの場所で掘り起こし復元したものです。
「石造宝篋印塔(せきぞうほうきょういんとう)」
この辺りは元々地蔵峯寺の境内であったところで、同寺の施設の一つとして宝篋印塔が建てられていたと考えられています。
宝篋印塔と言うのは、宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)というお経を納めることにより、諸々の功徳を積むことが出来ると考えられたようです。
「地蔵峯寺本堂」
地蔵峯寺は熊野古道藤白峠を越えた標高291mの高所にあるお寺で、室町時代中期頃建立されたと考えられています。
ご本尊の石造地蔵菩薩坐像は総高3.1m余りの大きな地蔵尊だそうです。
「御所の芝」
熊野九十九王子の中でも特に格式の高い藤白神社から峠を登った塔下王子跡近くに熊野詣での上皇たちが仮御所を造った景勝地です。
ここからの眺めは和歌山県朝日夕陽百選に選ばれています。
・紀伊水道と海南市街です。
「塔下(とうげ)王子跡」
この王子跡は藤代王子と橘本(きつもと)王子との中間に位置し、別名を若一王子とも呼ばれ、イザナギノミコトを祭神とする社がありましたが、明治40年(1907年)に橘本神社に合祀されました。