シェイハ=リミッティ讃

 リミッティのことをご存知ない方のために、簡単に彼女の生涯をご紹介しておきます。そしてわたしのリミッティへの思いも。

 Cheikha RimittiことSaadia Bediefは1923年5月8日、アルジェリア西部、シディベラベス近郊に生まれました。たいした教育は受けたことがなく生涯文盲でしたが、すばらしい記憶力と創作力を天から授かっていたようです。

 両親を失って孤児になるとフランス人家庭の女中として働くことになりましたが、あるとき旅の楽士たちの音楽に魅了されて長居をしてしまい,遅く帰って来たら怒った主人にクビにされ、腹を決めて楽士の中に身を投じ、放浪の旅と音楽の修行をすることになったのだそうです。この頃のことについては彼女はあまり話すこともなかったようです。おそらく、ずいぶんつらい思い出、嫌な思い出が多かったのでしょう・・・

 リミッティが強烈な性の讃歌を歌って頭角を現したのは、どうも第二次大戦時、飢饉と疫病で人々が苦しみに喘ぐ時代(カミュが『ペスト』を書く素材になったらしい疫病の時代ですね)を経験したことがきっかけになっているようです。のちに「ライ」と呼ばれるようになるこのジャンルはもとからそういう性的内容を含んでいたわけですが、極限状態での彼女の生への執着が性への志向をさらに刺激したと言えるのでしょう。

 このころから独立戦争(54〜62年)の時代まで、何人もの cheikha と呼ばれる女性歌手が活動していましたが、当時からリミッティは曲の質の高さ、旺盛な創作力で傑出した存在でした。
 最初のレコードヒットは1954年の Charrak gatta(裂け、引きちぎれ)で、これは処女喪失、性の快楽への誘いを歌ったものです。彼女は宗教歌、愛国歌も歌っていますが性の快楽を肯定したもの、酒を歌ったもの、つまりイスラム圏で公に歌い、聞くことがはばかられる歌がアルジェリアの人たちに強い印象をあたえたわけです(「イスラム圏で」とは言っても、酒はともかく性の方は、日本でだって「ちょっとこれは・・・」と人をうろたえさせる内容のがあると思いますよ)。

 アルジェリアの多くの人たちはリミッティを愛し、彼女の歌の聞けるラジオ放送を楽しみにしていました。ラジオはアルジェリアのステップ地帯でも聞くことができるわけですから(自然条件の厳しい地域で孤独な生活をしている人たちこそ往々にして性的に抑圧された人生を送っているわけで、その後大きな変貌を遂げて国際的な人気を得るに至ったライですが、本来はこういう人たちのための音楽だったのです)。
 しかしアルジェリアを代表する大歌手としての扱いというのは、リミッティには与えられませんでした。奇声を発しながらワイセツきわまりない歌詞を歌いまくり踊りまくる彼女を悪魔のようにみなす人は多いわけで、既存の音楽界、宗教界の認めるところではなく、政治的支配層の人々も、個人的には非常に愛好していても公的に彼女を支持することはありませんでした。

 70年代からもっぱらフランスのアルジェリア・コミュニティで歌っていた彼女ですがハレド、シェブ=マミ等の歌うライが世界的人気を得るようになって、このジャンルのバックボーンを作った人としてフランス等で大きな脚光を浴びるようになりました。同時に、ようやくアルジェリアでも大歌手として認知される気運が生まれてきました。

 80歳近くなってから彼女は伝統楽器の伴奏をやめて、バリバリのエレキを導入して歌い始めました。これには伝統楽器のよい奏者が求めにくくなったことも関係していますが、新しい音楽に挑戦する彼女の気概を示すエピソードでもあります。

 結局去年発表した N'ta Goudami(上の写真)が遺作になりました。ぜひ一度お聞きになってみてください。60年以上の現役生活を続けた大歌手の音楽が、現代のテクノロジーと見事に調和しています。現代のライのキーパーソン、Norrdine Gafaitiのコーディネートが光る傑作です。

 2年前、奇跡の来日を果たした時には、アリオン音楽財団の方々とともに彼女と身近に接することができました。ノルディン、わたしと一緒に乗ったタクシーの中で彼女が歌った La Camel の素晴らしさ・・・

 わたしはリミッティの音楽から、人間の心の奥底にうごめく暗い思いが、常に早いテンポの呪術的響きの中に噴出してきているような印象を受け、戦慄を感じるのです。
 リミッティとビーズ(頬をあわせる挨拶)をしたときの、彼女のほっぺたの冷んやりした感覚を思い出すと、今も体が震えます・・・

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rai info/ライ・ニュース 034

DECES DE CHEIKHA RIMITTI 
 「ライの母」シェイハ=リミッティが5月15日14時50分、心臓発作のため亡くなりました。第一報に場所が明記されていませんでしたが、おそらくパリだと思います。83歳の誕生日を祝った一週間後の逝去でした。
 アルジェリアの人々、世界のアルジェリア・コミュニティ、そして世界の音楽ファンとともにその死を悼み、その魂が安らかに憩わんことを祈りたいと思います。
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