日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
流鏑馬(やぶさめ)
なんともタイミングのいいことに、今日(5月3日)は流鏑馬やってる日でした。
でもこういうとき本物を見るのとテレビで見るのってどのくらい体験の質として差があるのか、いつも考えてしまいます。
馬。時代衣装。矢。こういうのはテレビで何度も見ました。「本物」を見ても、そんなに新しい世界が広がる印象は受けることがない気がするのです(ごめんなさい、ボランティアで葵祭を支えているみなさん)。いちばん印象深かったのは、馬が緑色のうんこをするところを目の前で見たことかな・・・
馬に関して言えば、以前強い印象を受けたことがありました。
サランと知り合うずっと前にツアーで行ったモンゴルで、どこの町だか忘れましたがチャーター飛行機が飛行場(と言ってもただの空き地ですが)に着陸しようとしていたとき、一群のモンゴルの子たちが鞍もあぶみもない小さいはだか馬に乗って飛行機に併走する形でばーっと横を全速力で走ってきたのが窓から見えたんですよ。
まあ彼らにとっては単なる遊びでしょう。
でもこの子たちの馬の乗り方はうまかった。ほんとにうまかった。ほれぼれした。まあ当たり前のことなんですけどね・・・ 日本の乗馬クラブの一回何千円のレッスンで覚えたんじゃないもんね・・・
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フランス人の普遍志向
(このエントリーではかなりつまんないこと書いちゃいました。消すのは惜しい気がするので置いておきますが、読み飛ばしてください)
ところで、最近京都で乗った2台のタクシーの運転手さんとのお話が、両方ともなんとなく「京都人はあまりよそへ行かない」という話題になりました。神社仏閣、紅葉から伝統工芸まで、日本のどこへ行っても京都より落ちるものしか見られないということか、他所の観光名所には京都人がいない、京都ナンバーの車がめったに見当たらない、自分は石川県の白山スーパー林道まで行って来たが地元の人から「京都からわざわざこんなところへなにしに来はった」と言われて気を悪くした、うんぬん。これ、京都人の弱点というか、ハンデですね。
さてフランス人は京都人みたいだから(そういう説、ありますね)フランス語を捨てて他の言語で書く人が出なかったのでしょうか? つまり読まれるべき一番いい文学が全てフランス語で存在する−−ように見える−−からなのでしょうか?
そうは思いません。フランス文化の歴史を見ればよく分かります。大きな文化潮流は多くの場合外国の大影響下に、外国文化を強く意識して、敬意を表しながら生まれて来ているのですね。フランス文学は最初イタリアの影響下に発達したと言っていいし、ロマン主義はドイツやイギリスから入って来たものです。シュルレアリスムだってフロイトというドイツ語圏から来た理論が下敷きになければ成立していないはずです。アメリカ文学にはポー、フォークナー、ドスパソスなど、フランス人が率先して評価したような形の作家は数多いですが、多くのフランス作家がそういうアメリカ作家の試みを発展させる形で自分の仕事を始めているわけです。
その他、音楽、絵画といった古典的芸術からマンガに至るまで、この国は他所で生まれたものに自分流の秩序を与えることを自らの役割としてきたみたいに思います。
それで「自分流の秩序」とは、結局「理性」に裏打ちされたある種の普遍性のことだと思うのです。こういうものは、日本やドイツはもとより、イギリスもアメリカも持たなかったものではないかと思います。
でもこういうことを言うと「普遍なんて、自分たちの嗜好を他の世界に押し付けて自己満足しているだけなんじゃないか」と反論する人がでてくると思います。わたしもあえてそういう反論が的外れとは言いません。
ただ結局自己流の普遍であっても、それを「志向」する姿勢と、しょせん人には自分を楽しませるものしか分からない、それ以上の努力は徒労だとする姿勢とでは、結果的に大きくかけはなれた方向性を生むと思うのです。
たぶんこのあたりが、多くの日本の人がどうしてもフランス文化のかんどころがよく分からなくて、ワインとかブランド物とかの愛好のレベルにとどまってしまう原因かなという気がします。
すみません、ずいぶんつまんないことを書きました。 m(_ _)m
ところで、最近京都で乗った2台のタクシーの運転手さんとのお話が、両方ともなんとなく「京都人はあまりよそへ行かない」という話題になりました。神社仏閣、紅葉から伝統工芸まで、日本のどこへ行っても京都より落ちるものしか見られないということか、他所の観光名所には京都人がいない、京都ナンバーの車がめったに見当たらない、自分は石川県の白山スーパー林道まで行って来たが地元の人から「京都からわざわざこんなところへなにしに来はった」と言われて気を悪くした、うんぬん。これ、京都人の弱点というか、ハンデですね。
さてフランス人は京都人みたいだから(そういう説、ありますね)フランス語を捨てて他の言語で書く人が出なかったのでしょうか? つまり読まれるべき一番いい文学が全てフランス語で存在する−−ように見える−−からなのでしょうか?
そうは思いません。フランス文化の歴史を見ればよく分かります。大きな文化潮流は多くの場合外国の大影響下に、外国文化を強く意識して、敬意を表しながら生まれて来ているのですね。フランス文学は最初イタリアの影響下に発達したと言っていいし、ロマン主義はドイツやイギリスから入って来たものです。シュルレアリスムだってフロイトというドイツ語圏から来た理論が下敷きになければ成立していないはずです。アメリカ文学にはポー、フォークナー、ドスパソスなど、フランス人が率先して評価したような形の作家は数多いですが、多くのフランス作家がそういうアメリカ作家の試みを発展させる形で自分の仕事を始めているわけです。
その他、音楽、絵画といった古典的芸術からマンガに至るまで、この国は他所で生まれたものに自分流の秩序を与えることを自らの役割としてきたみたいに思います。
それで「自分流の秩序」とは、結局「理性」に裏打ちされたある種の普遍性のことだと思うのです。こういうものは、日本やドイツはもとより、イギリスもアメリカも持たなかったものではないかと思います。
でもこういうことを言うと「普遍なんて、自分たちの嗜好を他の世界に押し付けて自己満足しているだけなんじゃないか」と反論する人がでてくると思います。わたしもあえてそういう反論が的外れとは言いません。
ただ結局自己流の普遍であっても、それを「志向」する姿勢と、しょせん人には自分を楽しませるものしか分からない、それ以上の努力は徒労だとする姿勢とでは、結果的に大きくかけはなれた方向性を生むと思うのです。
たぶんこのあたりが、多くの日本の人がどうしてもフランス文化のかんどころがよく分からなくて、ワインとかブランド物とかの愛好のレベルにとどまってしまう原因かなという気がします。
すみません、ずいぶんつまんないことを書きました。 m(_ _)m
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晴明神社
ちょっとだけ京都へ帰省です。
今回は母の家の近くだけどこれまで中に入ったことがなかったところに行ってみました。サランが京都にきたらいろいろ案内してあげたいけど、こっちがよく知らないのでは格好がつかないので。そこで千本釈迦堂とか白峰神社とかへ入ってみましたが、連休だというのに人影はまばら、というかほぼ無人。
唯一このあたりで観光客がいるのが晴明神社。もっともここは京都の他の神社とは雰囲気が違います。横がでかいマンションなのが象徴的(上の写真)で、きれいに作られたトレンディな場所という感じ(陰陽師ブームにのって3年くらい前に大改装したんですもんね)。若い子たちがたくさん来ます。いや、わたしは嫌いではないですよ、こういうの。魔除けのお守り買ってきました。 (^_^)y このごろいいこと全然ないですから、安部晴明さまに助けてもらわないと。 (^_^;)y
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