渇望の対象、独占の対象

2.それでその次に出てきたのはXavier Northさん(「闘うフランス語」に「サビエル・ノス」というとんでもない読みで載せてあった例の人です・・・ フランス語というのは綴りの読み方に、面倒ではあるけれども規則・法則がしっかりとあるので、この名前は「グザヴィエ・ノルト」としか読みようがないのです。朝日新聞のパリ支局ともあろうものがまさかそれを知らないわけもないでしょう。とすると、なんなんだろう?・・・ (^_^;) )でしたが、この人は疲れていたのか、なんだか元気がなかった。

 それはとにかく「フランス文化コミュニケーション省フランス語およびフランス諸言語代表委員」(とでも訳するのかな?)Delegue general a la langue francaise et aux langues de France, Ministere francais de la Culture et de la Communicationという肩書きの彼は、「フランス語の国際的地位:ひとつの渇望の歴史」Le statut international du francais : histoire d'un desir という話をしてました。

 英語が支配的言語となった今日、フランス語がいくらかでも国際的地位を守ろうとすること自体が世界から尊大な態度ととられることは十分承知した上で、それでもフランス語は中国など急成長地域で学習者が増えている言語であり、世界人口の1%くらいにしか共有されていない割には多くの国・地域に広がりを持つ言語、いろいろな意味で「撒き散らされた言語」langue dissemineeであるということ、フランス語が多くの異文化に属する人々を惹き付ける渇望の対象でありつづけているということにその存在理由を見いだす、というような話だったと思います。

 アンドレ・マキーヌ、ジュリアン・グリーンなどなど、よその言語文化の中に生まれながらフランス語による知的活動を選んだ作家は数多いが、その逆、フランス語を捨てて他の言語による創作を選んだ人は自分の知る限り存在しない、とかいうことも言ってました。ははなるほど、そうかもしれません。それってなんででしょうね?・・・

 しかしこういう話って、フランス人として、しかも政府内のフランス語擁護、振興を担当する高官としてのタテマエ論として当然でてくるものなんでしょうが、結局あんまり言ってもしようがないような気がします。多くの人の「渇望(欲望?)」の対象であるってことだって、逆に言うとそれを渇望するに至らない人にとっては本質的に意味がないということの証明にもなってしまうわけでしょう? 愛というのは、愛の対象の個性、特殊性に関わるもののはずだからです。

 フランス語の響きが好き、とかその論理的堅牢さがたまらなくいい、とかいう理由でフランス語をその個性によって愛好する人はそれでいいでしょう。
 でもわたしにとっては、フランス語はひとつの普遍、世界への不可避の通路です。だからこそずいぶん必死になって「他人に向かって」その普及、振興を唱えるのです。

 英語が世界全体への通路ではない、というのはわたしにとっても意外な発見でした。それはアメリカ合衆国がマーケットとしてあまりに巨大であまりに魅力的すぎ、文化享受者の嗜好をコントロールしてこれを独占しようという誘惑に勝てる者がいないからですし、またアングロ=サクソン的な、ある種排他的と呼びうる対人感覚が持っている弱点、盲点(これ自体が多くの人々の盲点に入ってしまっているわけですが)は他のモデルで補わなければならないはずだからです。
 日本はアメリカでもイギリスでもないので、それはできないことはないと思いたいところです。もっとも日本のマーケットも大きいので、独占の対象とされてしまうことが避けられないのですが。

○ここはずいぶん難しいことを言おうとしてしまいました。わたし自身の発表に関するエントリーのところでもう少しご説明いたします。06.05.04.
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