フランス語のぼやき


 母の家に戻る途中、偶然C先生とお会いしました。
 先生はスペイン語の大権威です。
 わたしが大学生のころ先生のスペイン語とったんですが、かなり頑張ったのに「良」しかもらえなかったのを覚えてます。 (^_^;)

 先生の学生時代は旧制高校のころでもちろんドイツ語全盛の時代ですが(この時代もフランス語専攻では食えなかったけど、ドイツ専攻なら食えたんだそうです)、ドイツ人の外国人教師に「これからはもうドイツ語の時代ではない。未来の言葉をやりなさい」と教えられてスペイン語を学ばれたというお話を以前にうかがったことがあります。敗戦前の話ですから、先見の明がある先生だったのですね。
 
 戦後60年以上経って、世はスペイン語、中国語、ポルトガル語、ロシア語、アラビア語といった言葉の時代に入ろうとしているのですが、日本の外国語教育だけは変わらないのですね。 (^_^;)

 だけどねー、日本ではフランス語がいちばん可哀想だと思いますよ。
 昔はドイツ語に押さえられて冷遇されて、今は旧勢力とみなされてドイツ語と一緒に葬り去られてしかるべき、みたいに扱われるなんて・・・ ぶつぶつ。

 日本ではフランス語は正当な扱いを受けたことがないと思いますよ。あんまりいじめると国益を損なうと思うんですがー・・・ ぶつぶつ。 (^_^;)

 ・・・でもぼやきって、結局見苦しいですね。すんません。 m(_ _)m


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のりげ

 京都散歩の最後は高麗美術館 (Koryo Museum)。

 鄭詔文(チョン・チョムン)さんという在日一世の方の作った美術館、というよりは小さな生活資料館という趣。
 館内には短いながら鄭さんの人生を紹介した朝日新聞1988年8月4日夕刊のコピーがおいてあります。大変苦労をなされたと思いますが、その生き方は清々しさを感じますね。

 入り口で売っている民芸アクセサリーは独特の趣があって奇麗ですよ。「のりげ」という、民族衣装につける飾りを小さくした物だそうです。携帯につけたりしたらいいんじゃないでしょうか。 (^_^)

(これの写真載せようと思ったんですが、商品だから控えるべきなんでしょうか? それとも宣伝になるからいいのかな?)
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雅楽をワールドに!

 上は斎王代さんの行列のバックミュージックやってた雅楽のおっちゃんたちが休憩しているところです。
 こういうときの雅楽って、ただ雰囲気出すためだけのものになってますね。曲自体の良さを味わって聴こうなんて、誰も思ってません。
 でもたとえばビョークのこのCDに入っている笙、ワールドミュージック化したやつなんかを聞くとものすごく新鮮でほれぼれしたりするんです。

 わたし思うんですが、瀕死状態の伝統音楽(雅楽を「心底楽しい」と思って聞いている人が日本、あるいは世界にどれくらいいるか考えたら、やっぱり死にかけだと思いますよ)はすべからくワールドミュージック化、言い換えれば「今」の音への接近、混交、変質を通過すべきじゃないでしょうか。とにかく楽しめる音楽にならなければ。そうすればそういう音楽のファンの中から「これはいいけど、この音楽の元のものはどんなんだったのだ?」と考えるやつが必ず出てくる。そこで、ワールドミュージック化した音を意識の背景に持ちながら伝統、「ルーツ」スタイルを演奏、鑑賞できる人々が育ってくる・・・ そういうことが起こるのを期待したいと思います。
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ギョケイ

 翌5月4日は上賀茂神社で斎王代の行列。鳥居のところから「御禊」の場所まで、のったりのったり進みます。ラウドスピーカーから聞こえてくる解説で「ギョケイ」と発音していた単語はたぶんこの「御禊」、つまりミソギのことなんでしょうね。嗚呼日本語というやつは。フランス語の数字の数え方なんて全然問題になんないほど複雑だわ。 (X_X)

 この行事について言いたいことの趣旨は流鏑馬について書いたことと同じです。斎王代さまがお手手を洗うところはとても見えず、わたしの視界の大部分は群衆の頭の後ろ半分。上賀茂神社では年中行事のDVDも出してるので、そっちを見る方が絶対「本物」の体験よりいい気がします・・・

 それでも人はこういうものを見に来るのですね。そしてそれは必ずしも意味のないことではないのでしょう。人はそこに、「体験」とは微妙に違う、なんか別の物を求めているのだと思います。そしてそれって、とくに日本人にとってなんというか常態みたいなもののように思えるのです。
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