快晴。今年初めてコートを着る。
宇野常寛「ゼロ年代の想像力」を読む。
不透明な世界では何も信じられず何を価値とするのかもわからない。
世の中に目的を与えられ慣れていた人々は不安に怯える。
何かを「する」という行動に出ると
どうしてもどこかで誰かを傷つけることになってしまう。
そこで「~する/~した」という行為でなく
「~である/~ではない」という自己像に承認を得ることにした。
何らかの「欠落」を抱えている者が美しいのだ。
そうした風潮がしばらく続いて。
他者を回避するこの態度の行く先は
データベースから自分の欲しい情報を勝手に読み込むだけ。
ところが互いに承認しあうことで全能感を味わう小さな共同体は
心地よさを維持するために暴力的な排除を行うしかない。
そのままでいいいのか、いやそうではない。
やはり他者回避を拒否して自分とは異なる誰かに手を伸ばすべきだ。
終わり(死)があるからこそ無限に楽しい(かもしれない)世界があるのだと。
ちなみに「他者回避」から「ひきこもり」への道は
結局「経済」が下支えしていただけで「不況」はそれを吹き飛ばしたらしい。
テストのような「正解」はどこにもないのだから
それぞれが自分なりに「答え」を出していくだけ。
すでに時代はそうなって久しいし、
そのようにしか生きられなかった人々も過去には少なくないはず。
宇野常寛「ゼロ年代の想像力」を読む。
不透明な世界では何も信じられず何を価値とするのかもわからない。
世の中に目的を与えられ慣れていた人々は不安に怯える。
何かを「する」という行動に出ると
どうしてもどこかで誰かを傷つけることになってしまう。
そこで「~する/~した」という行為でなく
「~である/~ではない」という自己像に承認を得ることにした。
何らかの「欠落」を抱えている者が美しいのだ。
そうした風潮がしばらく続いて。
他者を回避するこの態度の行く先は
データベースから自分の欲しい情報を勝手に読み込むだけ。
ところが互いに承認しあうことで全能感を味わう小さな共同体は
心地よさを維持するために暴力的な排除を行うしかない。
そのままでいいいのか、いやそうではない。
やはり他者回避を拒否して自分とは異なる誰かに手を伸ばすべきだ。
終わり(死)があるからこそ無限に楽しい(かもしれない)世界があるのだと。
ちなみに「他者回避」から「ひきこもり」への道は
結局「経済」が下支えしていただけで「不況」はそれを吹き飛ばしたらしい。
テストのような「正解」はどこにもないのだから
それぞれが自分なりに「答え」を出していくだけ。
すでに時代はそうなって久しいし、
そのようにしか生きられなかった人々も過去には少なくないはず。
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