退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「個人を生きるあるいは『知性』」について

2015-08-31 01:54:52 | Weblog
くもりときどき雨。夜にスコール。

信田さよ子「さよなら、お母さん 墓守娘が決断する時」を読む。

「墓守娘」とは「過干渉の母親をもつ娘」のことらしい。
それにしてもここで描かれる「フィクション」の壮絶さよ。

何事かをあきらめて結婚した夫に絶望した母親が
娘を「ダシ」にして自分の人生を取り戻そうとする「厄介さ」。

そうまでして「自分」を大事にするならなぜ「あきらめた」のかと思うのは後知恵。
「あきらめた」からこそ「取り戻そう」という強い動機が生まれる仕組み。

「家族」という集団が実は「地獄」であったりする「現実」を知ろう。
それにもかかわらずなぜか「家族愛」はもてはやされ。

実はそれも単純なこと。
要はあまり存在しないから。

あらゆるものは存在しない時に限って大きく「謳われる」ということ。
そういう「事実」が「常識」であればいいのだけれど。

「いじめ」であろうと「DV」であろうと
「逃げる」ことが大切なのは言うまでもない。

「集団もしくは思い込み」というものがいかに「コワイもの」であるかは
それぞれにきちんと認識しておいた方がいいだろう。

マル激を観る限り「行政官僚制」についても同じこと。

ただ「自分が所属する組織を守ること」だけが優先されるのは何とも「貧しい」。
「お勉強ができる」だけでは人としてどうにもならないことはむしろ「当然」で。

いわゆる「頭がいいこと」は「人としてまともなこと」に劣る。
もっとも本当に「頭がいい」なら「まともな人」ではあるはずで。

「知性」というものについての理解をもう一度チェックしてみるべきか。
おそらくそれは「経済あるいは効率」とは全く違ったものであるのは確か。

数字を見てどうこう言うのは誰でもできる。
そこにいったい何の「知性」があるというのか。

おそらくそこにあるのは
「数字に表れないもの」に対して徹底的に鈍感であることだけ。

「スマイル=0円」だとしたマクドナルドはちょいと「シャレた」つもりだろうが
「好ましい笑顔」を前にした人は「圧倒的に幸せになれる」のだ。
コメント
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