退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「プラスマイナスあるいは自由であること」について

2015-08-21 02:11:31 | Weblog
くもり。一時パラパラも。

連日の爆睡。

いよいよ体力の衰えが明らかになってきたか。
普段あまり使わないので気付くのが遅いだけかもしれないけれど。

キャス・サンスティーン「熟議が壊れるとき」を読む。

考えの似通ったあるいは「同じ集団に属している」と思う者たちのみで話すと
「集団極化=意見が極端になる」という現象が起きるらしい。

ひとつは「自分に対する評価」を守るため。
もうひとつは「議論の蓄積」が限定されることによる「極端化」のため。

その一方で「少数派の意見の声」が増幅され
一般の人々に届くようになるということもあると。

プラスとマイナス両方を考慮した上で「議論」はなされる必要がありそう。
一般的に好ましいのは「人々のいろんな考え」が飛び交うそれではある。

加藤文元「数学の想像力」を読む。

「見ること」によって「保証」されていた「正しさ」が
「天上」に「真理」を見出す「信仰」によって「見ること」を排除して求められるように。

そもそも「証明」しなければならなくなるのは「疑わしさ」が現れるから。
「論理」を支えるものが揺れ動けば「論理の質」も変わるという「当然」。

「有理数」に「神秘」を見た人々は「無理数」に震撼させられるわけで。
「論理」と「現実」を重ね合わそうと苦闘した歴史よ。

ただその結果「モデル」を利用して「現実」を理解するという「解放」もあり。
数学は大いに「抽象度」を増しさまざまなものが花開いたり。

興味深いのは「西洋」と「東洋」の違い。
「真理」を「はさみ打ち」する前者と「真理」に「到達」する後者。

「真偽の二択」しかない世界から今や「量子力学」による「あいまい」が「現実」に。
もっともそれぞれに「突き詰めた上でのこと」であるのを忘れずに。

あらゆる「可能性」は開かれつつ同時に閉ざされつつもある。
どういう「現実」を生み出すかは人それぞれで。

だからこそ「あらゆる道」があっていい。
たぶんそのあたりで人は「自由」を求め続けるのだろう。
コメント
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