ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

8.15

2006年08月15日 | Weblog
朝から靖国参拝一色で少々うんざり。
終戦記念日に、一国の首相がこれみよがしに参拝する
ということは、心の問題という範疇に収まるものでは
なく、象徴的な示威行為になるという、当たり前の事
実があるのだが、これは、彼をそうさせるある力が働
いていると見るべきなのか。
心の問題ならば、毎日人知れず供養すれば良いのだか
ら。

個人的には、英霊を祀る「靖国神社」というものにあ
る種の胡散臭さを感じる。
国のために散った(散華)兵士の帰る場所、その象徴
としての靖国神社。
これも分かりやすい物語だと思う。
しかし、そこにはある種の美化、恣意がある気がする。
その中心には、知覧から出撃した特攻隊のイメージが
ある。
彼らの手記を見ると、確かに泣ける。
純粋という言葉は彼らのためにあるのか、とも思う。
そこに「靖国で会おう」という会話があっても、なん
ら不思議ではない。
しかしだ。
そこに、彼らに命令を下した、自分たちは安全な上
層部というものの存在があったことも、忘れてはいけ
ない。
それと、ある種の覚悟を持って死んでいった特攻隊の
影に、覚悟どころではない、飢えと病気で苦しみジャ
ングルをさまよいながら、悲惨な死を迎えた特攻隊の
何百倍もの一般兵がいたことも。
「靖国物語」からは、それらがごっそり抜け落ちてる
のだ。

「レイテ戦記」(これが全てとは言わないが)などを
読めば(普通の想像力さえがあれば)、現場で英霊な
どと奇麗事を言ってる余裕などあるはず無いことは、
容易に想像できる。
「呪詛」という言葉の方がぴったりくる。
勿論、日本兵の影に、日本兵を恨んでいる現地の人た
ちがいる、この事実も忘れてはいけない。

本当に風化する一方の戦争、その分美化が強まり、全
く無知そうな若手政治家が分かりやすい威勢の良いこ
とを言い、それをそのまま支持する国民。
ちょっと危険なんじゃないの、と思ったりする八月十
五日。
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